公益社団法人発明協会

イノベーション100選

高度経済成長期(年代順)

  •  1955年、東京芝浦電気(現東芝)から発売された電気炊飯器ER-4は、四季があり気候環境も多様な日本において、全国いつでも手軽に安定した品質のご飯を炊き上げることを可能とした。
     その開発には、東芝の関連会社であった光伸社(現サンコーシヤ)の三並義忠とその家族等に...
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     1955年、東京芝浦電気(現東芝)から発売された電気炊飯器ER-4は、四季があり気候環境も多様な日本において、全国いつでも手軽に安定した品質のご飯を炊き上げることを可能とした。
     その開発には、東芝の関連会社であった光伸社(現サンコーシヤ)の三並義忠とその家族等による挑戦と努力の歴史があった。さらに、東芝の技術者のサポートを得て様々な課題をクリアし、販売が開始されてからは東芝営業部による農村を含む日本各地での実地販売が推進された。このER-4の革新性は「自動式」であったことと、炊事の負担を大幅に軽減したことから、人々の生活様式を一変させて〝台所革命〟とも呼び得るものとなった。 他社も次々と新製品を開発し、販売から5年後の1960年には、世帯保有率28%に達し、16年後には90%に達している。自動式電気炊飯器は、現在ではアジアにおいても広く利用されている。
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  •  1950年代初め、東京通信工業(現ソニー)の井深大や盛田昭夫は、開発されたばかりのトランジスタを使った挑戦的な課題を模索していた。発明当初のトランジスタ半導体は、ラジオに使用するには技術面で多くの問題があり、また、当時、日本のラジオの世帯普及率は74%にまで達し、成熟市場である...
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     1950年代初め、東京通信工業(現ソニー)の井深大や盛田昭夫は、開発されたばかりのトランジスタを使った挑戦的な課題を模索していた。発明当初のトランジスタ半導体は、ラジオに使用するには技術面で多くの問題があり、また、当時、日本のラジオの世帯普及率は74%にまで達し、成熟市場であると思われていた。
     1952年、同社は社運を賭してトランジスタラジオの開発・製造に取り組んだ。当時のソニーは創業7年目、従業員数269名のベンチャー企業であった。
     1955年、「SONY」の商標を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売し、さらに当時世界最小のラジオとなる「TR-63」の開発に成功した。「TR-63」は米国市場でも成功し、「ポケッタブル・ラジオ」の名を世界中に広めた。そして、トランジスタの実用化は、電子製品の小型化の地平を開いたのである。
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  •  コシヒカリは、2012年現在、日本の水稲作付面積の37.5%を占め、北海道と青森県を除く都府県で栽培されている。
     コシヒカリの育成は、1944年新潟県農事試験場(現新潟県農業総合研究所)長岡実験場での農林22号と農林1号の交配により始まる。交配により得られた雑種...
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     コシヒカリは、2012年現在、日本の水稲作付面積の37.5%を占め、北海道と青森県を除く都府県で栽培されている。
     コシヒカリの育成は、1944年新潟県農事試験場(現新潟県農業総合研究所)長岡実験場での農林22号と農林1号の交配により始まる。交配により得られた雑種第1代は、戦争による一時的な中断を経て、1948年から福井農事改良所(現福井県農業試験場)に引き継がれ、育成が再開された。育成者石墨慶一郎などにより選抜された「越南17号」は、その後全国で適応性試験が行われ、1956年に新潟県と千葉県が奨励品種に指定された後、福井県・新潟県により「コシヒカリ」と命名されたものである。
     コシヒカリは、耐冷性が強くその優れた食感もあって1979年から2013年まで35年間にわたって作付面積第1位を続けており、東南アジアを中心に海外でも栽培されるに至っている。
     1993年、「農林水産試験研究一世紀記念功績農林水産大臣賞」を受賞。
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  •  1958年、白石義明によってベルトコンベア上に寿司を乗せて提供するスタイルの店舗が大阪にオープンした。さらに大阪万博への出店で、全国的な知名度を確立した。1980年代に入ると多くの企業がこのビジネスに参入し、新たな技術開発や全国的チェーン展開によるビジネスモデルの開拓によって、...
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     1958年、白石義明によってベルトコンベア上に寿司を乗せて提供するスタイルの店舗が大阪にオープンした。さらに大阪万博への出店で、全国的な知名度を確立した。1980年代に入ると多くの企業がこのビジネスに参入し、新たな技術開発や全国的チェーン展開によるビジネスモデルの開拓によって、高級感の強かった寿司は、日本を代表するファーストフードへと変化していった。また、チェーン展開の活発化により、食材の流通にも大きな影響を与えるところとなった。
     回転寿司のビジネスモデルは、世界中に普及しつつある。寿司の内容も和食食材に限らずローカライズされた食材を使った寿司が地元資本等によって多数生み出されている。日本の大手回転寿司チェーンも海外進出を展開中であり、寿司は世界のファーストフードになりつつある。
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  •  「公文式教育法」は、高校の数学教師であった公文公(くもん とおる)が長男のために1954年に始めた学習指導法が原型となっている。
     1955年、第1号教室が開設されて以降、独自の教材と教育運営ノウハウをフランチャイズ方式で提供することにより、その規模を急速に拡大し...
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     「公文式教育法」は、高校の数学教師であった公文公(くもん とおる)が長男のために1954年に始めた学習指導法が原型となっている。
     1955年、第1号教室が開設されて以降、独自の教材と教育運営ノウハウをフランチャイズ方式で提供することにより、その規模を急速に拡大してきた。
     公文式教育法は、①自学自習、②学習内容の絞り込み、③生徒の能力・進度に合わせた教育、の3点を主な特徴としている。教材は、指導者の経験の有無にあまり左右されず、ほぼ均一な質の教育サービスを受けられるように公文が原型を作成した。高度に標準化・細分化され、進む幅は小さく「スモールステップ」となっている。また、「自学自習」が可能なように例題を活用するよう作成されており、自分の学力に適した「ちょうどの学習」からスタートし、教えずに「気づかせる」指導法に適した教材となっている。
     2013年3月現在、全世界を対象に48カ国・地域にフランチャイズ展開しており、400万人以上の学習者を擁するまでになっている。
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  •  高度経済成長が開始された1955年前後において、自動車の所有は一般庶民にとっては高嶺の花であった。その夢を現実へと近づけたのが「スバル360」をはじめとする日本の小型(軽)自動車の開発であった。
     政府は自動車産業の振興のため、小型自動車より小さな軽自動車の規格を...
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     高度経済成長が開始された1955年前後において、自動車の所有は一般庶民にとっては高嶺の花であった。その夢を現実へと近づけたのが「スバル360」をはじめとする日本の小型(軽)自動車の開発であった。
     政府は自動車産業の振興のため、小型自動車より小さな軽自動車の規格を定めるとともに、国民車育成の支援策をも構築していた。富士重工業は戦前戦中航空機メーカーとしての技術を有し、戦後はスクーターやバスの製造で実績を上げていた。富士重工業はリーダー百瀬晋六の下、「360ccのエンジンで日本のあらゆる道路を時速60km、4人乗りで走れる車の開発」という大胆な目標に挑戦し、1958年「スバル360」を開発した。同車は「テントウムシ」の愛称で広く人気を博し、各社の競争は優れた小型(軽)自動車を次々と市場に送り出すところとなった。
     現在、日本の小型自動車は世界に展開し、とりわけインドにおけるスズキの活躍に見られるように新興国でその存在感を示している。
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  •  スーパーカブは、1958年に本田技研工業から発売された排気量50ccのオートバイである。
     スーパーカブ以前の自動二輪車の主流は補助エンジン付き自転車であった。スーパーカブは50ccながら4ストロークエンジンを搭載した小型オートバイで、4ストロークを採用したことに...
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     スーパーカブは、1958年に本田技研工業から発売された排気量50ccのオートバイである。
     スーパーカブ以前の自動二輪車の主流は補助エンジン付き自転車であった。スーパーカブは50ccながら4ストロークエンジンを搭載した小型オートバイで、4ストロークを採用したことにより高回転・高出力型でありながら、実用車として使いやすい特性を与え、燃費の良さも兼ね備えるものとなった。さらに、誰もが気軽に乗れることを徹底的に追求した操作性とデザイン性は人気を博し、オートバイは一般市民や小規模小売店の配達用の乗り物として定着した。
     スーパーカブの登場は、新しいタイプのオートバイのジャンルを誕生させたとともに、それまでの補助エンジン付き自転車を市場から退場させた。
     2013年9月末時点では、その累計販売台数は8500万台に達した。スーパーカブは今も基本的デザインは変わらないまま世界の160カ国以上で販売され続けている。
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  •  工作機械の中でも「工具と工作物の相対運動を、位置、速度などの数値情報によって制御し、加工に関わる一連の動作をプログラムした指令によって実行する工作機械」がNC(数値制御)工作機械である。このNC装置の開発は、1949年にジョン・T・パーソンズがマサチューセッツ工科大学との共同研...
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     工作機械の中でも「工具と工作物の相対運動を、位置、速度などの数値情報によって制御し、加工に関わる一連の動作をプログラムした指令によって実行する工作機械」がNC(数値制御)工作機械である。このNC装置の開発は、1949年にジョン・T・パーソンズがマサチューセッツ工科大学との共同研究で行ったのが最初である。 
     富士通信機製造(現 ファナック)で制御プロジェクトを担当していた稲葉清右衛門は、上記の成果を知ると、研究対象を数値制御に重点化してその実用化に取り組み、1959年、日本のNC化の進展を決定づけたふたつの要素技術を生み出した。「電気・油圧パルスモータ」と東京大学の元岡達らとの共同研究によって開発された「代数演算式パルス補間回路」である。
     さらに、1972年ファナックは、世界初のコンピュータを内蔵したNC装置(CNC)FANUC250を開発し、同一工作機械で多様な機能が発揮できる時代を切り開き、石油危機後には機械部門の省エネ化を決定づけた電動式DCサーボモータの開発を行って油圧式からの転換に成功した。1982年以降、わが国工作機械は世界最大の生産額を維持している。
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  • 戦後音楽教育の在り方が問われる中で、1954年4月、日本楽器製造(現ヤマハ)東京支店の地下に、ヤマハ音楽教室の前身となる「実験教室」が立ち上がった。それまでの専門家を育成することを主眼にした教育から、ヤマハは、純粋に音楽を楽しむことのできる人を育てるための教育システムの確立を目指...
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    戦後音楽教育の在り方が問われる中で、1954年4月、日本楽器製造(現ヤマハ)東京支店の地下に、ヤマハ音楽教室の前身となる「実験教室」が立ち上がった。それまでの専門家を育成することを主眼にした教育から、ヤマハは、純粋に音楽を楽しむことのできる人を育てるための教育システムの確立を目指したのである。
     生徒数150名からスタートした「実験教室」は、1959年に「ヤマハ音楽教室」へと名称を改め、1963年には、生徒数20万、会場数4900、講師2400名を数える一大組織へと成長を遂げた。①総合音楽教育、②適期教育、③グループレッスンの3つの考え方を柱として海外でもこの方針を貫き、1964年6月には、ロサンゼルス近郊に海外初のヤマハ音楽教室も開設された。
     現在では世界40以上の国と地域で、約65万人の子どもたちが学んでいる。ヤマハ音楽教室を卒業した生徒数は、全世界で500万人を超えるまでになっている。
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  •  樹木の接ぎ木は古代エジプトの時代から存在したが、野菜栽培での接ぎ木栽培は、日本で開発された技術である。野菜の多くは連作ができない。狭い国土で狭隘な平野しかない日本では、連作を行うには大量の農薬を投与するなどの手段を取らざるを得なかった。接ぎ木はこうした措置をとらずとも栽培を可能...
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     樹木の接ぎ木は古代エジプトの時代から存在したが、野菜栽培での接ぎ木栽培は、日本で開発された技術である。野菜の多くは連作ができない。狭い国土で狭隘な平野しかない日本では、連作を行うには大量の農薬を投与するなどの手段を取らざるを得なかった。接ぎ木はこうした措置をとらずとも栽培を可能とするため、早くから多くの研究者や農家が取り組み、戦前、既にスイカではその技術が開発されていた。戦後に入り全国各地で様々な野菜においてもその開発への試みがなされるようになった。特に昭和30年代に入ると、ナス、トマト、ピーマン、キュウリ、メロン等で新たな接ぎ木栽培技術が開発され、挿し接ぎ、呼び接ぎ、寄せ接ぎ、ピン接ぎなど、様々な接ぎ木方法が開発されるとともに、自動接ぎ木装置が、農業機械化研究所や企業によって開発され、大量の接ぎ木が安価に供給できるようになった。
     2009年産のスイカ、キュウリ、メロン、ニガウリ、トマト、ナス、ピーマン、トウガラシ、カラーピーマンの栽培面積のうち、約68%で接ぎ木栽培が行われている。
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  •  かつて、列車の座席予約は電話連絡をベースにした駅ないし旅行会社との台帳による管理で行われ、旅行者へ迅速に結果を出すことができなかった。日本国有鉄道(現 JR)と日立製作所は、コンピュータの導入による自動化の研究を進め、1960年、列車座席用としては世界初となる画期的なオンライン...
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     かつて、列車の座席予約は電話連絡をベースにした駅ないし旅行会社との台帳による管理で行われ、旅行者へ迅速に結果を出すことができなかった。日本国有鉄道(現 JR)と日立製作所は、コンピュータの導入による自動化の研究を進め、1960年、列車座席用としては世界初となる画期的なオンライン予約システムMARS1を東京駅に導入し、在来線特急列車「こだま」、「つばめ」を対象に試行的に運用し成功を収めた。国鉄は更にオンライン・リアルタイムシステムの開発を進め、1964年には後継のMARS101の稼働を開始し、現代につながる全国一括した予約管理システムを構築し、業務の合理化と顧客の利便性向上に大きな足跡を残した。
     また、この成功は、メインフレームと端末をつなぐ大規模オンラインシステムの利便性を示す大きな一歩となった。現在のMARS501に至るまで、MARS システムは、新幹線座席への対応、白紙ダイヤ改正への対応など、時代の要請に合わせた段階的・継続的な進化を遂げ、我が国の鉄道システムを支えている。
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  •  リンゴ「ふじ」は青森県藤崎町にあった農林省園芸試験場東北支場で行われた網羅的品種の交配により得られた4656個体から得られた「国光」のめしべと「デリシャス」の花粉の組合せから生まれたもので、1962年に「ふじ」と命名された。当初から優れた食味と貯蔵性を有していたが、色つきや果実...
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     リンゴ「ふじ」は青森県藤崎町にあった農林省園芸試験場東北支場で行われた網羅的品種の交配により得られた4656個体から得られた「国光」のめしべと「デリシャス」の花粉の組合せから生まれたもので、1962年に「ふじ」と命名された。当初から優れた食味と貯蔵性を有していたが、色つきや果実の割れやすさなどの問題があった。当時の園芸部長であった森英男は精農家の斉藤昌美や対馬竹五郎らにこれを是正する性能を引き出すための試作栽培を依頼した。斉藤等は袋かけなどの栽培方法を採用することにより、色づきもよく貯蔵性も優れた品種へと育てていった。
     1963年以降、従来のリンゴがバナナの輸入自由化や生産過剰により価格が暴落する中で、「ふじ」が日本を代表する新たな品種となった。
     「ふじ」は現在、国内にとどまらず多くの国で栽培されており、世界のリンゴ生産量の20%を超える世界で最も多く生産されるリンゴとなっている。
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  •  1960年代、日本の天然皮革需要は2倍に増大したが天然皮革は3分の2を輸入に頼り、価格は食肉需要に左右され極めて変動的であった。
     「クラリーノ」は、1964年に倉敷レイヨン(現クラレ)が開発した人工皮革である。通常の繊維の数千分の一という極細繊維の束を作る技術を...
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     1960年代、日本の天然皮革需要は2倍に増大したが天然皮革は3分の2を輸入に頼り、価格は食肉需要に左右され極めて変動的であった。
     「クラリーノ」は、1964年に倉敷レイヨン(現クラレ)が開発した人工皮革である。通常の繊維の数千分の一という極細繊維の束を作る技術を開発し、靴、ランドセル、スポーツ用品など様々な分野で用途を拡大し、人工皮革のパイオニアとなった。
     「エクセーヌ」は、東レが1970年に商品化した世界初の超極細繊維製スエード調の人工皮革である。東レが開発した超極細繊維技術と人工皮革技術が組み合わさって生まれたもので、衣料、スポーツ、資材、雑貨、工業用など、幅広い用途に用いられている。欧州では「アルカンターラ」というブランド名で製造販売されている。
     クラレは1972年、日本化学会「化学技術賞」等を受賞。東レは1979年、全国発明表彰「内閣総理大臣発明賞」(岡本三宜)、2001年、「レオナルド賞」(岡本三宜)等を受賞。
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  •  かつて計算器具は、熟練を要するそろばんや計算尺が代表的なものであった。電卓は、これを誰でもできる簡便な機器とし、かつ半導体産業や液晶産業の発展に大きな影響を与えている。
     1964年、早川電機工業(現シャープ)が演算素子にトランジスタを使った計算機を開発し、販売を...
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     かつて計算器具は、熟練を要するそろばんや計算尺が代表的なものであった。電卓は、これを誰でもできる簡便な機器とし、かつ半導体産業や液晶産業の発展に大きな影響を与えている。
     1964年、早川電機工業(現シャープ)が演算素子にトランジスタを使った計算機を開発し、販売を開始した。これが世界初の電卓とされる。その後、我が国を中心として電卓の激しい開発競争が繰り広げられ、小型軽量化と低価格化が進んだ。これに伴い、使われる素子もトランジスタからIC、そしてLSIへと進化した。
     1972年にカシオ計算機が発売した「カシオミニ」は、驚異的な低価格と小さなサイズから、電卓を個人や家庭にも普及させる画期的な商品となった。シャープは、1973年に液晶を使用した電卓を開発し、更なる薄型化への道を切り開いた。電卓は究極的に0.8ミリにまで薄くなり、生産台数は、1985年にピークの8600万台を記録した。
     「日本半導体イノベーション50選」、2005年「IEEE マイルストーン」(シャープ)などに選定された。
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  •  電子レンジは、1940年代半ばに米国のレイセオン社で開発されたが、高価格のため一般には普及しなかった。
     日本では1958年に新日本無線が小型で安価なマイクロトロンを開発したのを契機に、60年代に入ると相次いで家電メーカーが製造を開始し、東芝が開発した電子レンジは...
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     電子レンジは、1940年代半ばに米国のレイセオン社で開発されたが、高価格のため一般には普及しなかった。
     日本では1958年に新日本無線が小型で安価なマイクロトロンを開発したのを契機に、60年代に入ると相次いで家電メーカーが製造を開始し、東芝が開発した電子レンジは新幹線に搭載されるなどして注目を集め、まず業務用として使用されるところとなった。
     1965年には松下電器産業(現 パナソニック)によって家庭用電子レンジが開発販売され、操作の手軽さもあり急速に普及していった。その後もターンテーブルや扉の横開き方式の開発、さらにはオーブン機能の追加などにより、70年代後半には米国でも人気が高まり販売品の大多数が日本製品で占められるまでになった。
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  •  田植えと刈取脱穀は古来農民にとり重労働の最たるものであった。田植機の発明は、長野県の農業試験場技師であった松田順次が室内育苗(箱育苗)法を開発したことにより可能となった。〝田植えの苗は成苗〟という当時の常識を破り、育苗箱で育てた稚苗は軽量で斉一で機械化に適した。これを用いた田植...
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     田植えと刈取脱穀は古来農民にとり重労働の最たるものであった。田植機の発明は、長野県の農業試験場技師であった松田順次が室内育苗(箱育苗)法を開発したことにより可能となった。〝田植えの苗は成苗〟という当時の常識を破り、育苗箱で育てた稚苗は軽量で斉一で機械化に適した。これを用いた田植機を発明したのは、農業には無縁の一技術者関口正夫であった。一方、自脱型コンバインの開発には、先行する欧米由来の改良案と我が国独自のそれを新規に開発すべきとの意見が並立した。前者の意見が多数を占める中で自脱型を選択したのは農家であった。麦と違い、ジャポニカ稲は脱粒しにくい。機械化第一号試作機は農林省農事試験場(当時)の狩野秀男らによってなされ、やがて全国の技術者の知恵を集め、数々の技術革新が加わっていった。
     この2つの発明は、農村労働力の都市集中を進め、高度経済成長を支える柱となった。
     1969年、全国発明表彰「発明賞」(関口正夫 ※カンリウ工業)、1970年、同「発明賞」(井浦忠 ※井関農機)
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  •  コンデンサはエレクトロニクス産業に不可欠な基本電子部品であり、現在ではスマートフォンをはじめとした小型・薄型のICT機器、一般家電製品、自動車、医療・ヘルスケアなどあらゆる分野で積層セラミックコンデンサが主流となっている。
     セラミックコンデンサの最初の開発は米国...
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     コンデンサはエレクトロニクス産業に不可欠な基本電子部品であり、現在ではスマートフォンをはじめとした小型・薄型のICT機器、一般家電製品、自動車、医療・ヘルスケアなどあらゆる分野で積層セラミックコンデンサが主流となっている。
     セラミックコンデンサの最初の開発は米国で、戦後も長らくその競争力は強固であった。1970年代に入り、米国でコンデンサの能力を飛躍的に高める表面実装化と誘電体の積層化技術が開発されたが、生産の歩留まりが低く量産化には成功しなかった。
     一方、日本企業は、ユーザー企業との協業化によって量産化とそれに伴うコストダウンに成功した。1977年に発売された「ペッパーラジオ」(松下電器産業)には、積層チップセラミックコンデンサが搭載され大ヒット商品となった。
     1990年代に入ると、日系企業は安価で信頼性の高いニッケル内部電極の開発に成功するとともに、顧客企業との協業型ビジネスモデルの進化により、欧米ライバル企業に対する圧倒的優位性を獲得し、現在、積層セラミックコンデンサ市場の生産は、日系企業の村田製作所、TDK、京セラ及び太陽誘電の3社で6割以上のシェアを占めている。
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  •  2012年、日本のカラオケの参加人口は4680万人、市場規模は6146億円と推計されている。
     カラオケ産業は、我が国の優れた音響技術、映像記録・再生技術、情報処理技術、通信技術等の技術力を背景とし、その進歩に即したビジネスモデルの展開によって成長してきた。カラオ...
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     2012年、日本のカラオケの参加人口は4680万人、市場規模は6146億円と推計されている。
     カラオケ産業は、我が国の優れた音響技術、映像記録・再生技術、情報処理技術、通信技術等の技術力を背景とし、その進歩に即したビジネスモデルの展開によって成長してきた。カラオケ機器の発明、カラオケボックスの誕生、伴奏データのデジタル化とネットワーク化による通信カラオケへの転換等である。
     カラオケ産業が社会に与えた影響は多岐にわたり、老若男女問わず国民が日常的に歌を歌う機会を増やし、音楽市場の裾野を拡大した。
     日本で始まった“KARAOKE”は、いまや世界共通語となり、各国に進出している。近隣諸国では、日本に似たシステムのカラオケ文化が定着している。また、欧米はじめ世界の多くの国・地域でカラオケは人気を博している。
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  •  1960年代、大都市圏の通勤ラッシュは大きな社会問題となっていた。このような状況を救ったのが自動改札システムである。
     1964年2月、近畿日本鉄道と大阪大学は、自動改札機開発のため大阪大学によるグラフ理論的手法をもとに共同研究を開始した。同年9月からは、立石電機...
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     1960年代、大都市圏の通勤ラッシュは大きな社会問題となっていた。このような状況を救ったのが自動改札システムである。
     1964年2月、近畿日本鉄道と大阪大学は、自動改札機開発のため大阪大学によるグラフ理論的手法をもとに共同研究を開始した。同年9月からは、立石電機(現オムロン)も参加し、1965年から試作機を製作、実証実験を開始した。上記実験を受けて、立石電機は1966年からは阪急電鉄との共同研究を開始し、1967年、大阪万博を控えた阪急電鉄北千里駅に初めて実用機が導入された。
     自動改札の技術はその後も格別の進歩を続けている。現在の日本の自動改札システムでは、ICカードの採用をはじめとして、利便性は更に向上し続けている。
     2007年、「IEEEマイルストーン」に選定された。
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  •  現在、日本にも数多くの高層ビルが林立しているが、1960年代以前の建物の高さは100尺、すなわち31メートルまでに制限されていた。
     東京大学の武藤清らは、それまでも論じられていた柔構造理論を具現化し、壁に弾力性のある部分を設ける工法を開発した。この工法を基に東京...
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     現在、日本にも数多くの高層ビルが林立しているが、1960年代以前の建物の高さは100尺、すなわち31メートルまでに制限されていた。
     東京大学の武藤清らは、それまでも論じられていた柔構造理論を具現化し、壁に弾力性のある部分を設ける工法を開発した。この工法を基に東京霞が関に日本初となる本格的高層ビル(霞が関ビルディング)の設計計画が提起されたのである。
     柔構造理論による超高層建築の実現には、新しい材料や工法の開発、強風への対処、建設コストの増大等の問題に対し、生産工程のパターン化や部品の工場生産、材料の標準化など、科学的生産管理を推進した。同時にH形鋼の適用、タワークレーンのクライミング工法の開発を実現し、その後の建築業を近代産業化することに貢献するものとなった。
     1980年、全国発明表彰「恩賜発明賞」(武藤清 外)など受賞。
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  •  日本の近代郵便制度は創設以来、長らく手作業による手紙の区分が行われてきた。経済成長とともに郵便物の量は急拡大し、配達の遅延が発生するようになった。
    1964年、郵政審議会は長期的な年次計画による機械化の推進プロジェクトを行うこと、また、郵便番号制度を導入することを...
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     日本の近代郵便制度は創設以来、長らく手作業による手紙の区分が行われてきた。経済成長とともに郵便物の量は急拡大し、配達の遅延が発生するようになった。
    1964年、郵政審議会は長期的な年次計画による機械化の推進プロジェクトを行うこと、また、郵便番号制度を導入することを答申した。日本電気、東芝は、郵政省(当時)とともに自動処理のための開発を進め、日本電気は、1966年度より大宮局による実験を開始し、また東芝は、1967年に世界初の手書き文字読取試作機等を開発し、1968年には読取区分機を同年7月の郵便番号制度開始時に東京中央郵便局に設置した。
     1989年には住所の全てを光学読み取りによって自動認識できるようになり、現在では引受局における配達人単位への自動区分も行う事ができるまでになっている。
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  •  ヤクルトの創始者である医学博士の代田稔は、1930年に胃液や胆汁などの消化液に負けずに生きたまま腸内に到達して有益な作用を発揮する乳酸菌「ラクトバチルス カゼイ シロタ株」の強化培養に成功した。代田はこの乳酸菌を一人でも多くの人の健康に役立ててもらうため、有志とともに製品化し、...
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     ヤクルトの創始者である医学博士の代田稔は、1930年に胃液や胆汁などの消化液に負けずに生きたまま腸内に到達して有益な作用を発揮する乳酸菌「ラクトバチルス カゼイ シロタ株」の強化培養に成功した。代田はこの乳酸菌を一人でも多くの人の健康に役立ててもらうため、有志とともに製品化し、1935年に「ヤクルト」の商標で発売した。
     1963年にはいわゆるヤクルトレディによる販売システム「婦人販売店システム」がスタートし、1968年にはそれまでのガラス瓶にかわり特徴的なデザインのプラスチック容器を導入した。プラスチック容器は、軽くて回収の手間がかからないため、ヤクルトレディの労働環境を大きく変えた。労力の低減のみならず、空容器の回収にかかる時間を本来の“ヤクルトの普及”に振り向ける効果をもたらし、販売実績も大きく伸長した。
     日本で生まれた「ヤクルト」は、今や世界の多くの国と地域で親しまれるようになり、現在、「ヤクルト」をはじめとする乳製品は、日本を含めて世界33の国と地域で、毎日約3500万本が愛飲されている。
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  •  レトルト食品は、1958年、米国で軍隊用として開発され、アポロ計画などでも採用されたものであるが、米国市場では民生用として普及しなかった。
     1968年、大塚食品工業(当時)は市販用としては世界初のレトルトカレーを発売したが、輸送中の損傷や賞味期限の短さなどから阪...
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     レトルト食品は、1958年、米国で軍隊用として開発され、アポロ計画などでも採用されたものであるが、米国市場では民生用として普及しなかった。
     1968年、大塚食品工業(当時)は市販用としては世界初のレトルトカレーを発売したが、輸送中の損傷や賞味期限の短さなどから阪神地区に限定しての発売となった。一方、東洋製罐では米国の会社との技術提携により3層遮光性パウチを開発したが、大塚食品工業はこれを両社で改良することとし、1969年、従前に比し強度を増し賞味期限も大幅に長期化したレトルト食品「ボンカレー」を発売した。また東洋自動機の給袋式充塡機によって、難しかった液体のカレーの包装も大量生産化が可能となった。
     大塚食品工業は、この商品への経営資源の集中的な投下を進め、看板は営業マンによって全国に展開され、また印象的なテレビCM等の効果と相まって「ボンカレー」は大ヒット商品となった。この成功によりレトルト食品市場が形成され、アジアを中心に国際的な展開も進むこととなった。
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  •  天然ガスは、都市ガス燃料源として古くから注目されていた。しかし、それを液化したLNGは、その取扱い上の困難性や海上輸送の安全性が確保されなかったことから、1950年代においても国際取引商品として扱われることは極めて少なかった。
     一方、高度経済成長期にあって、都市...
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     天然ガスは、都市ガス燃料源として古くから注目されていた。しかし、それを液化したLNGは、その取扱い上の困難性や海上輸送の安全性が確保されなかったことから、1950年代においても国際取引商品として扱われることは極めて少なかった。
     一方、高度経済成長期にあって、都市ガス需要の増大に直面していたガス業界と公害問題から火力発電の立地難に直面していた電力業界は石炭、重油に代わる新たな燃料の確保が必要となっていた。
     東京ガスは、12年の歳月をかけてLNGの導入を決断し、東京電力は、東京ガスの呼びかけに応じ、これを共同事業とすることで世界初のLNG発電を実現した。1969年11月アラスカから日本へのLNG輸入が初めて実現した。
     このプロジェクトの成功により、LNGは全国のガス事業、電力事業に導入されていった。さらに海外諸国の輸入も活発化し、いまやLNGはスポット市場も成立するほどの国際商品になった。
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  •  クオーツ腕時計とは、水晶に電圧を加えた際に発生する振動を利用した水晶(クオーツ)振動子を基幹部品とした腕時計である。1969年にセイコーが開発に成功し、世界で初めて発売した。
     水晶時計を腕時計サイズで実現するには消費電力を従来の1000万分の1である10μ...
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     クオーツ腕時計とは、水晶に電圧を加えた際に発生する振動を利用した水晶(クオーツ)振動子を基幹部品とした腕時計である。1969年にセイコーが開発に成功し、世界で初めて発売した。
     水晶時計を腕時計サイズで実現するには消費電力を従来の1000万分の1である10μWにまで省電力化する必要があった。1964年の東京オリンピックで、セイコーグループは様々な計測を公式計時として担当し、それらを総合的にクオーツをベースとする電子計時を導入することに成功した。東京オリンピック以後、より小型の水晶振動子、分周回路のIC化、そして小型モーターの開発を行って腕時計サイズにまで小型化したのである。
     これによって腕時計産業は熟練職人による手工業から大量生産システムへと移行し、高級品であった時計は、誰もが持つことのできる日常品となった。
     2004年、「IEEEマイルストーン」(セイコー クオーツ アストロン35SQ)に選定された。
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  •  日本のテレビ開発は1926年に浜松高等工業学校(現静岡大学)の高柳健次郎が世界初のブラウン管を用いたテレビ実験に成功したことに始まる。しかし、戦中戦後のほぼ10年にわたる実験中断時代が訪れる。
     実験再開は1950年、その前後から日本の電機メーカーは進んだ海外の技...
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     日本のテレビ開発は1926年に浜松高等工業学校(現静岡大学)の高柳健次郎が世界初のブラウン管を用いたテレビ実験に成功したことに始まる。しかし、戦中戦後のほぼ10年にわたる実験中断時代が訪れる。
     実験再開は1950年、その前後から日本の電機メーカーは進んだ海外の技術を取り入れ、それに改良を加えて競争力を確保していった。
     白黒テレビに続くカラーテレビの時代には、輝度の改善、広角化、真空管からトランジスタ、ICへの駆動装置の高度化等が技術的な競争の焦点となった。日本メーカーは、トランジスタに続くIC化を積極的に推進し、1970年代には世界一のテレビ輸出国となる。
     また、ソニーによるトリニトロンテレビの開発は、シャドーマスク方式全盛のテレビ製造業界にあって、新たな市場を開拓するものとなった。
     1973年、「エミー賞」(トリニトロンカラーテレビジョン・システム)を受賞、2009年、「IEEEマイルストーン」(高柳健次郎)に選定された。
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  •  大気汚染の要因である硫黄酸化物、窒素酸化物そして煤じん対策は高度経済成長期後半の我が国にとって最重要課題の一つであった。脱硫方法に革新をもたらしたのは、東北大学の村上恵一教授・堀一朗教授等により開発された「石灰-石膏法排ガス脱硫技術」である。この技術は工業技術院東京工業試験場(...
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     大気汚染の要因である硫黄酸化物、窒素酸化物そして煤じん対策は高度経済成長期後半の我が国にとって最重要課題の一つであった。脱硫方法に革新をもたらしたのは、東北大学の村上恵一教授・堀一朗教授等により開発された「石灰-石膏法排ガス脱硫技術」である。この技術は工業技術院東京工業試験場(当時)の設備を用いて実用化試験が行われ、1956年、三菱重工業により実機が納入された。排煙からの窒素酸化物の除去(脱硝)については、触媒アンモニア接触還元法用の開発が焦点となり、担体として酸化チタンに着目した企業数社によって実用化され、世界の窒素酸化物による大気汚染問題を解決する主流技術となった。集じんについては、高性能集じん装置である電気集じん装置の操作温度制御によりその集じん効率を飛躍的に向上させた。
     日本が「公害列島」という汚名をそそぐことができたのも、国を挙げての様々な革新的技術の開発とともに、それに対する積極的投資、社内管理体制の構築と、これを支える人材の育成によりはじめて実現したものである。
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  •  戦後日本の高度経済成長期、石油の一次エネルギーに占める比重は年々上昇していた。しかし、1973年、1979年と二回にわたる石油危機は、エネルギー多消費型の日本の産業構造の転換と経済活動全般にわたる省エネルギー化を国民的な課題とした。
     産業におけるエネルギー消費量...
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     戦後日本の高度経済成長期、石油の一次エネルギーに占める比重は年々上昇していた。しかし、1973年、1979年と二回にわたる石油危機は、エネルギー多消費型の日本の産業構造の転換と経済活動全般にわたる省エネルギー化を国民的な課題とした。
     産業におけるエネルギー消費量の削減は、製造業とりわけ鉄鋼、化学といったエネルギー多消費型の素材産業で推進され、技術、運転の両面から徹底した省エネ化を実現した。また、過剰設備の廃棄を産業単位で実施し、エネルギー原単位が素材産業に比してはるかに低い機械産業を中心とする知識集約型産業構造への移行を加速した。一方、自動車や家電、エアコンといった耐久消費財や住宅、オフィス関連機器などを製造する産業分野では省エネ型製品の開発に向けた激しい競争が展開され、それは、民生部門での省エネ化に寄与するとともに当該製品の国際競争力の強化と産業構造の高度化へとつながった。
     その結果、日本の製造業の鉱工業生産指数当たりエネルギー消費原単位は、1990年には1975年の半分の水準にまで引き下げることに成功した。
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  •  電界放出形走査電子顕微鏡(FE-SEM)は、電子顕微鏡の一種である。電子顕微鏡は、光の代わりに電子を用いることで、光学顕微鏡よりもはるかに高い倍率を実現することができる。
     この実用化は、1972年米国人研究者の電界放出型電子源のアイデアを具体化した日立製作所の商...
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     電界放出形走査電子顕微鏡(FE-SEM)は、電子顕微鏡の一種である。電子顕微鏡は、光の代わりに電子を用いることで、光学顕微鏡よりもはるかに高い倍率を実現することができる。
     この実用化は、1972年米国人研究者の電界放出型電子源のアイデアを具体化した日立製作所の商用機によってである。
     当初、FE-SEMの用途は理化学分野の研究に限定されていたが、半導体LSI(大規模集積回路)用の微小寸法自動計測装置である「測長SEM」の登場によって、その用途は抜本的に拡大し、半導体産業に不可欠なツールへと発展した。さらに最近では、ウイルスの観察・撮影などの医療・バイオ分野の研究や、触媒、電池の電極材料、ナノチューブなどのナノテク分野の研究にも幅広く使用されるに至っている。
     2008年、大河内賞「大河内記念生産賞」を受賞、2012年、「IEEEマイルストーン」、「日本半導体イノベーション50選」に選定された。
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  •  産業用ロボットは、ISO(国際標準化機構) によれば、「3軸以上の自由度を持つ、自動制御、プログラム可能なマニピュレータ」とされ、溶接、搬送、塗装、検査等に用いられる。
     米国において開発が進められたが、日本では1968年に川崎重工が米国の技術を導入し国産化を図っ...
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     産業用ロボットは、ISO(国際標準化機構) によれば、「3軸以上の自由度を持つ、自動制御、プログラム可能なマニピュレータ」とされ、溶接、搬送、塗装、検査等に用いられる。
     米国において開発が進められたが、日本では1968年に川崎重工が米国の技術を導入し国産化を図ったのが最初である。1973年の第一次石油危機以降、省力化のための産業用ロボットへの需要が高まった。日本のロボットメーカーは70年代後半以降サーボモーターやマイクロプロセッサーをいち早く導入し、いわゆるメカトロニクスの世界を現出させてこれに対応していった。1980年、ロボット工業会はこの年を「ロボット普及元年」とする提唱を行ったが、これを一つの契機とし自動車産業をはじめとする多くの産業がロボットの活用を進め、それは重要な生産財へと成長した。90年代には液晶・半導体製造ロボットなどへと市場は拡大し、汎用品からヒューマンインターフェースを重視した専用品化も進展した。2000年には全世界の産業用ロボットの生産の7割が日本でなされるまでになった。
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  •  CVCC(複合渦流調速燃焼方式)エンジンは、本田技研工業及び本田技術研究所が当時、実現不可能といわれた米国の改正大気浄化法(マスキー法)による自動車排出ガス規制基準を、世界に先駆けて、後処理を行うことなくクリアした低公害エンジンである。
     CVCCエンジンの開発成...
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     CVCC(複合渦流調速燃焼方式)エンジンは、本田技研工業及び本田技術研究所が当時、実現不可能といわれた米国の改正大気浄化法(マスキー法)による自動車排出ガス規制基準を、世界に先駆けて、後処理を行うことなくクリアした低公害エンジンである。
     CVCCエンジンの開発成功は、世界の自動車メーカーに低公害車の本格的開発を促すとともに、ホンダの四輪車メーカーとしての地位を確固たるものとし、我が国自動車産業の技術力を内外に示すものとなった。ホンダの四輪自動車の海外への輸出は、1975年は19万1274台に過ぎなかったが、1980年には65万8986台と3.5倍に増大した。CVCCエンジン搭載のシビックは米国連邦環境保護庁(EPA)の燃料経済性調査において販売以来4年連続して1位を記録した。
     1973年、「科学技術功労者表彰」等を受賞。
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  •  「コンビニエンスストア」は、スーパーマーケットと小規模小売店が激しく対立した1970年代に誕生した。
     当時、イトーヨーカ堂の役員であった鈴木敏文は、チェーン店方式による生産性の向上によって小規模小売店でも大型店に対抗し得る競争力を確保できると考えていた。米国視察...
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     「コンビニエンスストア」は、スーパーマーケットと小規模小売店が激しく対立した1970年代に誕生した。
     当時、イトーヨーカ堂の役員であった鈴木敏文は、チェーン店方式による生産性の向上によって小規模小売店でも大型店に対抗し得る競争力を確保できると考えていた。米国視察の中で出会った「セブン- イレブン」を運営するサウスランド社との事業提携をまとめ、1974年、東京都江東区に第1号店をオープンさせた。しかし、その後のセブン- イレブン事業の展開は米国型のビジネスモデルにとどまらず大きく進化を遂げた。
     独自の流通網の構築、独自ブランド商品の開発、金融、サービス部門への展開等々、日本のコンビニは地域住民の多様な要望に応え得る様々な機能を有する店舗となっていった。現在、コンビニ産業全体での売上規模は百貨店を上回り、スーパーマーケットに接近しつつある。海外展開も活発で、セブン- イレブンでは全世界で5万1587店(内海外3万5736店)に及んでいる。
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