公益社団法人発明協会

イノベーション100選

安定成長期(年代順)

  •  1960年代前半から半ばにかけて日本に警備会社が相次いで誕生した。欧米と異なり「水と安全はタダ」という考えが根強いといわれた当時の我が国においては、警備部門への民間企業の参入は厳しいものがあった。しかし、東京オリンピックや大阪万博での民間警備の必要性、警備員を主人公としたテレビ...
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     1960年代前半から半ばにかけて日本に警備会社が相次いで誕生した。欧米と異なり「水と安全はタダ」という考えが根強いといわれた当時の我が国においては、警備部門への民間企業の参入は厳しいものがあった。しかし、東京オリンピックや大阪万博での民間警備の必要性、警備員を主人公としたテレビドラマ人気、更には高度経済成長に後押しされる形でその需要は増大していった。一方で、警備員の目による監視の限界が見え始めていた。
     1966年、日本警備保障(現 セコム)がオンラインによる警備システム「SPアラーム」を発売し、翌年には綜合警備保障が「総合ガードシステム」を開発した。24時間オンラインで監視し、事が起きれば警備員が駆けつけるシステムは我が国独自のものである。この機械警備システムは、連続銃撃犯逮捕のきっかけともなり、オンライン警備システムへの社会的信用の獲得につながった。
     2015年9月30日現在、機械警備対象施設数は275万件に達し、20年前の6.6倍になり、一方、侵入盗犯件数は10万7000件と20年前の4割強にまで減少している。
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  •  落雷や開閉サージなどで発生する過電圧から電力機器を保護する「避雷器」は、20世紀初めから用いられてきた。1930年代からは炭化ケイ素素子と直列ギャップを用いた避雷器が主流となったが、信頼性とコンパクト化の点で課題があった。
     1967年に松下電器産業(現 パナソニ...
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     落雷や開閉サージなどで発生する過電圧から電力機器を保護する「避雷器」は、20世紀初めから用いられてきた。1930年代からは炭化ケイ素素子と直列ギャップを用いた避雷器が主流となったが、信頼性とコンパクト化の点で課題があった。
     1967年に松下電器産業(現 パナソニック)が酸化亜鉛を主成分とするセラミックス半導体素子(バリスタ)を発明すると、電力用避雷器に適用することを目的に、1970年から明電舎と松下電器産業による電力用酸化亜鉛素子の共同開発が進められ、1975年に九州電力隼人変電所へ世界で初めて電力用酸化亜鉛形避雷器が納入された。
     1979年IEC TC37 ワルシャワ会議で日本から正式にギャップレス避雷器規格の制定を提案したが、規格化に17年を要し1991年にIEC-60099-4-1991として制定された。日米ではJEC-217-1984、IEEE C62.11-1987が制定され、先行して本格的に使用された。
     酸化亜鉛形避雷器の実現により従来の課題が一気に解消し、落雷事故の低減、電力機器の低絶縁設計によるコンパクト化が進められ大きな経済的効果をもたらした。
     避雷器の主流技術として世界中で使用され、2014年、「IEEEマイルストーン」に選定された。
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  •  炭素繊維は、1959年に進藤昭男博士によりアクリル繊維を用いたPAN系炭素繊維が、次いで1963年に大谷杉郎教授によりピッチを用いたピッチ系炭素繊維が発明され、その後産学官の連携により材料革命を実現したイノベーションである。
     1963年に行われた進藤の論文発表は...
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     炭素繊維は、1959年に進藤昭男博士によりアクリル繊維を用いたPAN系炭素繊維が、次いで1963年に大谷杉郎教授によりピッチを用いたピッチ系炭素繊維が発明され、その後産学官の連携により材料革命を実現したイノベーションである。
     1963年に行われた進藤の論文発表は多くの研究者に衝撃を与え、これを複合材に用いる試みが拡大した。国内では、東洋レーヨン(現 東レ)によってその商品化が成功し、さらに東邦レーヨン(現 東邦テナックス)、三菱レイヨンも参入した。
     1970年代半ばに米国連邦航空宇宙局によって東レの炭素繊維が部材として採用されたことにより、その活用が多方面から注目され、その需要は自動車、建築材料、環境・エネルギー、エレクトロニクス、医療、産業機械にまで拡大した。
     一方のピッチ系炭素繊維は、1970年に呉羽化学工業(現 クレハ)が世界で初めて工業化した。軽量で柔軟性があり、また耐熱性にも優れるため、高温工業用炉の炉内材料などに活用されている。
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  •  日本電信電話公社(現 NTTグループ)では、1979年に世界に先駆けてアナログセルラー方式による「自動車電話サービス」を開始した。また、それに先立つ1975年には、現在でも世界の音声符号化の標準化に必須となった要素技術である「LSP方式」をも開発していた。
     自動...
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     日本電信電話公社(現 NTTグループ)では、1979年に世界に先駆けてアナログセルラー方式による「自動車電話サービス」を開始した。また、それに先立つ1975年には、現在でも世界の音声符号化の標準化に必須となった要素技術である「LSP方式」をも開発していた。
     自動車電話は重量等から持ち運ぶのに難があり、需要層は限られたものであったが、1984年までには全国的な展開を見るまでになった。
     このような技術的蓄積等を踏まえ、民営化されたNTT は1987年「携帯電話サービス」を開始した。電話機の小型化は米国モトローラ社との熾烈な競争ともなったが、日本電気、松下通信工業(当時)、三菱電機、富士通の4社の協力のもとに「世界最小・最軽量」のそれを開発するプロジェクトをスタートさせ、1990年に完成した試作機は、当時世界最小の体積150cc、重量250gを実現し、1991年に「ムーバ」として市場に投入された。この発売は携帯電話に関する関心を一気に高め、携帯電話は、ビジネスツール、更にはプライベートツールとして定着するものとなった。
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  •  高張力鋼とは、ハイテン(High Tensile StrengthSteel)とも呼ばれる高強度鋼の総称である。造船用厚板、鋼管、棒線など、あらゆる鉄鋼材料においてハイテンの開発が進められ、中でも、自動車用ハイテンは、鉄鋼メーカーが生産する高級鋼の代名詞ともいえる。
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     高張力鋼とは、ハイテン(High Tensile StrengthSteel)とも呼ばれる高強度鋼の総称である。造船用厚板、鋼管、棒線など、あらゆる鉄鋼材料においてハイテンの開発が進められ、中でも、自動車用ハイテンは、鉄鋼メーカーが生産する高級鋼の代名詞ともいえる。
     1950年代は、モータリゼーションの幕開けと同時に薄鋼板製造技術の基盤整備を進め、鉄鋼メーカーと自動車メーカーが共同で薄鋼板成形技術研究会を開き、その後のハイテン開発の方向性を示し、1960年代に入ってからは、品質と供給能力の面で自動車産業の要請に応える薄鋼板の製造体制が整えられた。1970年代から1980年代までは、今日の自動車用薄鋼板の基本製造法と設備が整備され、高成形性鋼板や各種のハイテンの基本形が開発された。1990年代に入ると地球環境問題がクローズアップされ、アルミ、樹脂などとの競合のなかで新たなハイテンの開発が進められ、2000年代には安全性確保から超ハイテンが適用され自動車のハイテン使用比率は急激に増加した。
     ハイテンは戦後日本の鉄鋼業におけるイノベーションの連鎖の軌跡といえよう。
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  •  「映画を自宅で観られる」「テレビを録画して楽しむ」という夢を実現したのが家庭用ビデオである。
     1975年5月、ソニーはベータマックス方式による最初の家庭用カラーVTR(SL-6300)を発売した。次いで、1976年9月、日本ビクター(現 JVC ケンウッド)はV...
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     「映画を自宅で観られる」「テレビを録画して楽しむ」という夢を実現したのが家庭用ビデオである。
     1975年5月、ソニーはベータマックス方式による最初の家庭用カラーVTR(SL-6300)を発売した。次いで、1976年9月、日本ビクター(現 JVC ケンウッド)はVHS方式とその最初の機種である「HR-3300」を発表した。ここに両者による国内外のVTRのハードウエア、ソフトメーカーを二分した激しい規格競争が始まる。日本企業による激しい競争の中で、欧米企業は次々と撤退あるいは日本からのOEM供給を受けるものとなり、我が国は世界のVTR 生産の中心地となった。ソニー、ビクターの競争は80年代まで続いたが、80年代後半になりVHSが世界標準となった。この間にVTRの生産額は1981年に1兆円を超え、1984年には2兆円を超えてテレビを上回り、家電売り上げ最大の製品となった。
     1990年代、家庭用ビデオは日本の全世帯の70%以上にまで普及するものとなった。
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  •  1976年、ヤマト運輸は「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達」という新しい宅配サービスを開始し、これを「宅急便」と名付けた。
     当時、一般家庭向けの個人宅配を全国規模で行っているのは郵便局のみであり、個人宅配のビジネスは採算が取れないという考えが支配的で...
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     1976年、ヤマト運輸は「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達」という新しい宅配サービスを開始し、これを「宅急便」と名付けた。
     当時、一般家庭向けの個人宅配を全国規模で行っているのは郵便局のみであり、個人宅配のビジネスは採算が取れないという考えが支配的であった。ヤマト運輸の社長であった小倉昌男は、ニューヨークを訪れた際に、日本でも個人宅配ビジネスの可能性を見出し、それを実行する上での様々な課題に挑戦していった。全国的規模での集配ネットワークの構築や「翌日配達」を中心としたサービスの差別化などに取り組む一方、政府による路線ごとの免許制度の壁にもぶつからざるを得なかった。
     こうした課題を一つひとつ解決した結果、ヤマト運輸の宅急便は一般利用者に広く普及し、民間による個人宅配便市場を確立した。1976年1月20日、わずか11個の荷物からスタートしたサービスは、2013年の宅配便市場において36億3700万個にまで拡大し、世界的なネットワークも広げつつある。
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  •  三元触媒システムは、エンジンに送られるガソリンと空気を最適な比率(理論空燃比)に制御することにより、排出ガスに含まれる一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を同時に浄化するシステムである。米国で1970年改正大気清浄化法(マスキー法)が成立し、自動車排気ガスの規制が一段と強化されると...
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     三元触媒システムは、エンジンに送られるガソリンと空気を最適な比率(理論空燃比)に制御することにより、排出ガスに含まれる一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を同時に浄化するシステムである。米国で1970年改正大気清浄化法(マスキー法)が成立し、自動車排気ガスの規制が一段と強化されると、世界の自動車関連企業は競って対応技術の開発に取り組んだ。理論空燃比制御のカギを握る酸素センサー(ラムダセンサー)が欧州で開発されると、三元触媒システムは一躍この問題の有力な解決手段として注目された。早くから電子制御式燃料噴射技術を開発していた日本メーカーは、酸素センサーと電子式燃料噴射技術の組み合わせに着目し、1977年に新たに開発したシステムを搭載した量産車を市場に投入した。その後、三元触媒システムは排出ガス浄化の標準的技術となり、多くのガソリン車に採用されるものとなる。コンピュータを搭載したこの技術は、今日のIT化された乗用車の先駆けともなった。
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  •  米国で発明され開発されてきたCCD(Charge-Coupled Device)は、1970年代に入ると日本メーカーによって新たな展開がなされるところとなった。1978年、東芝の山田哲生は、強い光が入射したときに縦線の偽信号を発生させるブルーミングを抑制する縦型オーバフロードレ...
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     米国で発明され開発されてきたCCD(Charge-Coupled Device)は、1970年代に入ると日本メーカーによって新たな展開がなされるところとなった。1978年、東芝の山田哲生は、強い光が入射したときに縦線の偽信号を発生させるブルーミングを抑制する縦型オーバフロードレイン構造を発明し、1979年には日本電気の寺西信一らが、残像や転送ノイズを解消する埋込フォトダイオードを発明した。これらの結果、CCDはまずムービーそしてコンパクトデジタルスチルカメラが主な市場となった。
     CCD撮像素子の開発では、ソニーの岩間和夫らによって世界に先駆けて、実用感度11万画素のCCD撮像素子(ICX008)が開発され、1980年には、世界初のCCDカラーカメラ(XC-1)に搭載された。
     現在ではほとんどのスマートフォンやコンパクトデジタルカメラ、デジタル一眼レフカメラの高級機にはCMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)センサーが多く採用されている。
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  •  1964年、IBM等が英文のワードプロセッサを発表したが、日本語のそれは文字数の多さ、漢字転換などの複雑さ等の面から開発はきわめて困難とみられていた。東芝の研究グループは、日本語ワープロの研究開発を進め、様々な試行を試みて1976年「カナ漢字変換システム」の実用化技術と学習機能...
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     1964年、IBM等が英文のワードプロセッサを発表したが、日本語のそれは文字数の多さ、漢字転換などの複雑さ等の面から開発はきわめて困難とみられていた。東芝の研究グループは、日本語ワープロの研究開発を進め、様々な試行を試みて1976年「カナ漢字変換システム」の実用化技術と学習機能等を開発することで「編集機能」も可能とした。さらに、機器のダウンサイジング化をも実現し、1978年世界初の日本語ワープロJW-10を発表した。価格も東芝が1985年に販売を開始した「Rupo JW-R10」は10万円を下回るまでになった。
     日本語ワープロ開発によって生み出された「カナ漢字変換技術」と「編集技術」等は、その後のパソコンや携帯電話など日本のあらゆるICT/IoT 分野の日本語入力手段として引き継がれ、発展を続けている。
     2008年、日本語ワードプロセッサ「JW-10」は、IEEE マイルストーンに選定された。
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  •  島精機製作所は、1960年代初頭の手袋の自動編機の開発に始まり、1978年にはニット製品全般に及ぶコンピュータ制御式自動横編機の開発を成し遂げた。
     コンピュータ制御式自動横編機は、ニット産業をして石油危機以後の大量生産型経済成長から安定成長下の多品種少量生産型へ...
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     島精機製作所は、1960年代初頭の手袋の自動編機の開発に始まり、1978年にはニット製品全般に及ぶコンピュータ制御式自動横編機の開発を成し遂げた。
     コンピュータ制御式自動横編機は、ニット産業をして石油危機以後の大量生産型経済成長から安定成長下の多品種少量生産型への切り替えを可能とした。さらに1995年の完全無縫製型横編機は、情報化時代の到来によって生じたデザインインの必要性やグローバル化時代の繊維産業が抱えた産業空洞化等の課題に挑戦した繊維機械の画期的なイノベーションとなった。
     単なる自動横編機というハードウエアの開発にとどまらず、それを使いこなすためのデザインシステム、編成技術、ノウハウ、デザインなどのソフトウエア面での開発を複合的に推進し、主なユーザーであるファッション業界での新たな価値を創造した。
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  •  フォトレジストとは、光に反応してエッチングに耐える性能を持つ液状の化学薬剤で半導体製造において基板に回路を転写する工程で使用される。
     1980年代以降、日本の半導体産業はDRAM をはじめとする製造において圧倒的な強さを発揮するようになったが、それは多くの部品、...
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     フォトレジストとは、光に反応してエッチングに耐える性能を持つ液状の化学薬剤で半導体製造において基板に回路を転写する工程で使用される。
     1980年代以降、日本の半導体産業はDRAM をはじめとする製造において圧倒的な強さを発揮するようになったが、それは多くの部品、素材メーカーの発展とも軌を一にするものであった。フォトレジストもその一つで、1968年、東京応化工業は国内で初めて半導体デバイス製作向けネガ型フォトレジストの開発に成功し、製造販売を開始した。また1972年には、国内で初めて回路の高集積化に対応した高解像度ポジ型フォトレジストを開発し、1980年代の64KBDRAM製造用の世界の標準品としての地位を確立した。
     現在、日本のフォトレジスト業界は、東京応化工業に加えJSR、信越化学工業、富士フイルム、住友化学の5社によって、世界のフォトレジスト需要の80%を供給し、世界の半導体産業を支えている。
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  •  レーザープリンターは1969年、米ゼロックスによって発明されたレーザーによる感光を利用する印刷機である。発明直後から日米欧の多くの企業がその実用化を目指して開発に取り組んできた。
     キヤノンはゼロックスの特許を使わずに独自の電子写真方式NP方式の開発に成功し、19...
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     レーザープリンターは1969年、米ゼロックスによって発明されたレーザーによる感光を利用する印刷機である。発明直後から日米欧の多くの企業がその実用化を目指して開発に取り組んできた。
     キヤノンはゼロックスの特許を使わずに独自の電子写真方式NP方式の開発に成功し、1970年複写機として発売していたが、このNP方式を採用したレーザープリンターを世界に先駆けて国際展示会に出品し、1976年に販売した。さらに、1979年にはそれまでのヘリウムネオンレーザーに代えて半導体レーザーを使用したLBP-10を発表した。LBP-10は大幅な低価格化・小型化に成功した。この技術と単価は後継機に引き継がれてそれまでは大企業等の需要に限られていたレーザープリンターを広範な需要層に普及させることに成功した。さらにヒューレット・パッカード社やアップルコンピュータ社など世界のコンピューターメーカーを含む多くの企業に技術供与ないしOEMで販売した実績がある。現在でもなおレーザープリンターの技術分野で大きな世界シェアを保持している。
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  •  ファクシミリの発明は19世紀前半とされているが、電話やテレックスに比べその普及は進まなかった。1960年代に入り、半導体技術等の進歩や電話網の解放などによって各種のファクシミリが開発されたが、異なるメーカーとの機器間では通信ができず、高額料金などもあって、使用は限られた分野にと...
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     ファクシミリの発明は19世紀前半とされているが、電話やテレックスに比べその普及は進まなかった。1960年代に入り、半導体技術等の進歩や電話網の解放などによって各種のファクシミリが開発されたが、異なるメーカーとの機器間では通信ができず、高額料金などもあって、使用は限られた分野にとどまっていた。
     1971年の公衆電気通信法改正は、一般電話回線での接続を可能とし、ファクシミリ普及の一つの転機となった。
     しかし、国際的には依然として異なるメーカー間の通信ができなかった。NTT とKDDIは各々の独自技術を融合した符号化方式を開発し、標準規格作成を急いでいた国際電信電話諮問委員会(CCITT)に国際標準規格として提案した。CCITTはこれに各国の要望を取り入れ若干の修正を施しG3ファクシミリの国際標準規格として勧告した。
     G3規格の国際標準化を機に、日本メーカーの機器は、世界市場を席巻することとなった。G3ファクシミリは、世界のファクシミリ普及に日本の技術、標準化戦略が大きく貢献したイノベーションである。
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  •  半導体露光装置とは、シリコン基板上にIC回路パターンを焼き付ける装置であり、基板をステップ状に移動して露光することからステッパーと呼ばれる。
     1976年、通商産業省は「超LSI技術研究組合」共同研究所を発足させ、ステッパーを含む様々な研究を行ったが、垂井康夫所長...
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     半導体露光装置とは、シリコン基板上にIC回路パターンを焼き付ける装置であり、基板をステップ状に移動して露光することからステッパーと呼ばれる。
     1976年、通商産業省は「超LSI技術研究組合」共同研究所を発足させ、ステッパーを含む様々な研究を行ったが、垂井康夫所長の「基礎的共通的」理念のもとに、機械、素材、装置関連メーカーを結集し、官も加わっての様々な研究者等が一体となった研究が進められた。
     研究所は、日本光学工業(現 ニコン)には縮小投影露光装置の開発を、キヤノンには等倍投影露光装置の開発を進めさせることとした。
     1980年、ニコンはステッパーを開発し、キヤノンもこれに続いた。両社の製品は80年代半ばには先行していた米国GCA社の性能を凌駕するまでになった。両社が実現した露光エリアの拡大や光源の短波長化に伴う様々な機構の複雑化は、光学メーカーとしての技術を生かし、その世界シェアを70~80%に高めるまでになった。
     ステッパーの開発は、共同研究組合方式が寄与したイノベーションでもあった。
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  •  1980年、米国ドジャースタジアムに三菱電機の制作による世界初のフルカラー大型映像表示装置が設置された。大画面映像を通じて選手たちの活躍を目の当たりにした観客は、球場での一体感を高め、テレビ放映により減少していた観客を球場に呼び戻すことにも成功した。
     独自開発し...
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     1980年、米国ドジャースタジアムに三菱電機の制作による世界初のフルカラー大型映像表示装置が設置された。大画面映像を通じて選手たちの活躍を目の当たりにした観客は、球場での一体感を高め、テレビ放映により減少していた観客を球場に呼び戻すことにも成功した。
     独自開発した3種類(赤、緑、青)の小型ブラウン管を数万個並べ、また屋外での風雨にも耐え得るよう船舶用電機品以上の過酷な環境評価試験を実施した上での設置であった。この結果、気候条件の異なる海外における使用でも十分な信頼を得ることに成功した。さらにスタジアムのコントロールルームには、ビデオ機器および文字・グラフィック画像のコントローラをコンピュータ制御し、観客を盛り上げる運用ソフトを創り上げた。
     ドジャースタジアムでの実績が注目を集めると、各社が開発に着手し、以後、急速に多くの施設への導入が進んだ。
     スポーツ・競技での「新しい楽しみ方」を創造したオーロラビジョンは、その後スポーツに限らず屋内外での人の集まる場所に設置され、1990年代にはLEDの使用によりさらに高画質かつ大型の表示が可能となり、町の光景を変貌させるものとなった。
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  •  イベルメクチンは熱帯地方の風土病オンコセルカ症およびリンパ系フィラリア症等の線虫による寄生虫の感染症根絶に大きな貢献をしている医薬品である。
     発見したのは北里研究所・北里大学の大村智博士である。各地の土壌を集め、入念な観察力と独創的な方法で静岡県伊東市内の土壌中...
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     イベルメクチンは熱帯地方の風土病オンコセルカ症およびリンパ系フィラリア症等の線虫による寄生虫の感染症根絶に大きな貢献をしている医薬品である。
     発見したのは北里研究所・北里大学の大村智博士である。各地の土壌を集め、入念な観察力と独創的な方法で静岡県伊東市内の土壌中から、新種の放線菌「ストレプトマイセス・アベルメクチニウス」を発見し、共同研究していた米製薬大手メルク社とともに、これが産生するエバーメクチンを改良したイベルメクチンを動物用及びヒト用薬剤として開発した。
     新薬はオンコセルカ症等に劇的な成果をあげ、人体への副作用も少なくWHOによれば年一回の集団投与によってほぼ制圧されると見込まれるまでになっている。この功績に対して2015年ノーベル生理学・医学賞が授与された。
     この薬剤は、多額の特許料をもたらしたが、発明者・大村智博士はアフリカ等では無償供与に協力するとともに、得られた資金によって大学でのさらなる研究を推進し、一方、新たな病院を設立するなど社会へ還元している。産学連携、大学発知財戦略のみごとなイノベーションである。
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  •  1982年に東京芝浦電気(現 東芝キャリア)が発売した家庭用インバーターエアコンRAS-225PKHVは、空気調和機の心臓部である圧縮機に印加する電源周波数を変えることによりその回転数を制御し、必要負荷に追随して冷房・冷房能力を制御することを実現した世界で初めての家庭用エアコン...
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     1982年に東京芝浦電気(現 東芝キャリア)が発売した家庭用インバーターエアコンRAS-225PKHVは、空気調和機の心臓部である圧縮機に印加する電源周波数を変えることによりその回転数を制御し、必要負荷に追随して冷房・冷房能力を制御することを実現した世界で初めての家庭用エアコンである。
     本来、ヒートポンプシステムは、電気を直接熱源として使用しないことからエネルギー利用効率が高い冷暖房システムであるが、温度調整によるエネルギーロスが大きかった。そこでインバータ装置の搭載に取り組んだ東芝は、大電力トランジスタとマイコン制御による「正弦波近似パルス幅変調方式」を採用し、業務用エアコンのインバータ化を実現した。また、「倍電圧整流方式」や「ジャイアントトランジスタ」を開発し、小型化とコストの引き下げに成功するとともに、数々の試作と性能確認の繰り返しにより冷凍サイクルの課題を克服し、世界初の家庭用インバーターエアコンが誕生した。
     インバーターエアコンのエネルギー効率は海外でも高く評価され、国内外で急速に普及した。地球規模のエネルギー問題・環境問題に貢献したイノベーションである。
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  •  1981年、本田技研工業は「車両の現在位置」「走行軌跡」及び「これから進むべき方向」を地図上に可視的に表示する最初の地図型ナビゲ―ションシステム「エレクトロ・ジャイロケータ」を製品化し、同社のアコード、ビガーに搭載した。
     その後、自動車メーカーのみならず電機メー...
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     1981年、本田技研工業は「車両の現在位置」「走行軌跡」及び「これから進むべき方向」を地図上に可視的に表示する最初の地図型ナビゲ―ションシステム「エレクトロ・ジャイロケータ」を製品化し、同社のアコード、ビガーに搭載した。
     その後、自動車メーカーのみならず電機メーカーも加わってカーナビゲーションシステム(カーナビ)の開発が加速されるようになった。1987年にトヨタ自動車と日本電装(現 デンソー)は世界初のデジタル・マップデータを用いた「CD-ROMナビゲーションシステム」を開発し、クラウンに搭載した。
     さらに、米国政府によりGPSの利用が一般に可能となると、1990年に三菱電機とマツダによって、世界初のGPS方式のカーナビが開発され、続いて同年には、パイオニアが市販型としては世界初のGPS方式カーナビ「カロッツェリアAVIC- 1」を発売するなど急速な展開をみるところとなった。
     カーナビは現在では我が国の乗用車の7割程度に搭載され、出荷台数は2010年には526万台に達した。欧州をはじめとしてアジアにも普及しつつある。
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  • ATM
     ATM(automated teller machine:現金自動預け払い機)は、先進国ではキャッシュディスペンサーとして多くはスタートしている。日本でも1960年代後半から、銀行業務へのコンピュータ利用とともに発展してきた。
     1969年に三菱銀行虎ノ門支店はA...
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     ATM(automated teller machine:現金自動預け払い機)は、先進国ではキャッシュディスペンサーとして多くはスタートしている。日本でも1960年代後半から、銀行業務へのコンピュータ利用とともに発展してきた。
     1969年に三菱銀行虎ノ門支店はATMの前身ともいえるオンラインキャッシュディスペンサーを設置、1971年に三井銀行は24時間年中無休のキャッシュディスペンサーを設置し、ATM時代の幕開けを示すこととなった。
     日本のATMは、諸外国に比べて多くの機能を付加してきた。通帳への印字機能やキャッシュカードの共通化さらには入金と払い出しの双方を可能とする無人金融自動機を装備するまでになった。さらに1985年には、入金した紙幣を支払いにも使用し得る還流型ATMが沖電気工業によって開発された。また給与の自動振り込みによって銀行での個人の預金、払い出し業務はATMによるものが主となり窓口業務の大幅な合理化を推進するとともに、個人での銀行間資金移動や休日での預金の引き出しなども可能とし、利用者の利便性を著しく向上させた。
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  •  オランダのフィリップス社とソニーの共同開発により開発された音楽用CD は、1982年、世界に先駆けて我が国でCDとそのプレイヤーが発売されると、4年後にはアナログレコード・カセットテープを凌駕し、音楽文化をアナログからデジタルへと転換させた。
     さらに1985年に...
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     オランダのフィリップス社とソニーの共同開発により開発された音楽用CD は、1982年、世界に先駆けて我が国でCDとそのプレイヤーが発売されると、4年後にはアナログレコード・カセットテープを凌駕し、音楽文化をアナログからデジタルへと転換させた。
     さらに1985年に登場したコンピュータ用データのための記録方式(CD-ROM)は、フロッピーディスクの400倍を超える容量を持ち、1988年にはISO 9660が制定され、一気にその普及が進んだ。
     日本メーカーはCDのドライブ等の開発にも積極的に取り組み、1995年には我が国の製品が世界市場の90%近くを占めるまでになった。また、1988年に太陽誘電はCD-Rメディアを、ソニーはCDレコーダーをそれぞれ開発し、CDと完全互換性を持つ世界で初めての書き込み可能なコンパクトディスクを誕生させ、その後のCD-Rドライブの普及による価格下落とともに、その利用は広く一般消費者にも拡大した。2003年、世界のCD-R 販売数は100億枚、CD-Rドライブの出荷数は9000万台を超えた。
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  •  1981年、富士写真フイルム(現 富士フイルム)は、X線のレントゲン写真をフィルムに焼き付けるのではなく、X線画像の蓄積記録が可能なイメージングプレートを用いてこれをデジタル信号として取り込む世界初のデジタルX線画像診断システム「FCR(FujiComputed Radiogr...
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     1981年、富士写真フイルム(現 富士フイルム)は、X線のレントゲン写真をフィルムに焼き付けるのではなく、X線画像の蓄積記録が可能なイメージングプレートを用いてこれをデジタル信号として取り込む世界初のデジタルX線画像診断システム「FCR(FujiComputed Radiography)」を発表した(CR 方式)。現像を必要としないため、診断の早期化、フィルムや現像薬品、保管場所等の節約がなされるとともに、コンピュータによるデータ処理を可能とした。
     また、キヤノンは、1998年アモルファスシリコンを用いた薄膜で撮像素子を構成し、この撮像素子で蛍光を光電変換し、この電気信号を即座に増幅し、AD 変換してデジタル信号とする「LANMIT(Large AreaNew MIS Sensor and TFT)」を搭載した「CXDI-11」を開発発売し、これによりリアルタイムでX 線画像を表示できることとなった(DR 方式)。
     こうしたX線フィルムのデジタル化により、病院内さらには外部とのデジタルネットワーク化が促進され、医療の進歩に大きく寄与した。
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  •  ネオジム磁石(Nd - Fe- B 磁石)は、ネオジム・鉄・ホウ素の三元素から成る永久磁石であり、それまでの磁石の2倍近い磁力を有するものである。
     ネオジム磁石は、1982年に佐川眞人と米国ゼネラル・モータースのJohn Croatによりそれぞれ独立して発明され...
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     ネオジム磁石(Nd - Fe- B 磁石)は、ネオジム・鉄・ホウ素の三元素から成る永久磁石であり、それまでの磁石の2倍近い磁力を有するものである。
     ネオジム磁石は、1982年に佐川眞人と米国ゼネラル・モータースのJohn Croatによりそれぞれ独立して発明され、翌1983年には住友特殊金属(現 日立金属)、1986年に米国マグネクエンチ社によってそれぞれ製品化・量産化された。
     ネオジム磁石は、1980年代中盤、小型ハードディスクドライブの回転モータやヘッドアクチュエータに用いられその競争力を支える大きな要素となった。また1990年代からは、車載用モータや家電用モータ・コンプレッサへのネオジム磁石の適用が検討され始め、現在ではこれらの製品を含む幅広い分野で用いられている。廉価かつ磁気特性にも優れているネオジム磁石はサマリウム・コバルト磁石を代替する形で、その生産量を拡大し続けてきた。ネオジム磁石の世界の生産量は2000年に年間1万トンを超え、2013年には年間約3万トンに達している。
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  •  1980年、ソニーは、従来のフロッピーディスクの弱点を克服した3.5インチフロッピーディスクを発売した。それまでのフロッピーディスクでは、外装が変形しやすく、データを記憶する磁性体がヘッド部や円盤中心部で露出していたため、塵や埃が内部に侵入する危険性があった。
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     1980年、ソニーは、従来のフロッピーディスクの弱点を克服した3.5インチフロッピーディスクを発売した。それまでのフロッピーディスクでは、外装が変形しやすく、データを記憶する磁性体がヘッド部や円盤中心部で露出していたため、塵や埃が内部に侵入する危険性があった。
     そのためソニーは、外装をプラスチック製の硬質なケースに改め、更にヘッド部に自動開閉シャッターを採用することにより、従来の脆弱性を克服するとともに、磁性体にコバルト・ガンマ酸化鉄を採用し、高密度化も図った。
     3.5インチフロッピーディスクは、1982年、ワープロからパソコンにもその用途を広げ、また、同年にヒューレット・パッカード社に、1983年にはアップルコンピュータ社のマッキントッシュにも採用されることとなり、1984年にはISO会議で規格承認もされた。1987年にはIBMでも採用されるに至り、ほとんどのパソコンの標準装備となった。1995年には、年間45億枚が生産された。
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  •  1964年、NHKは東京から米国へ、衛星による世界初のオリンピック中継を実施した。翌1965年に難視聴地域を含めた日本全国への効率的送信手段として衛星を利用する方針を発表し、独自に小型周回衛星の製作、試験まで行った。
     この研究・開発で得た成果をもとに国の計画とし...
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     1964年、NHKは東京から米国へ、衛星による世界初のオリンピック中継を実施した。翌1965年に難視聴地域を含めた日本全国への効率的送信手段として衛星を利用する方針を発表し、独自に小型周回衛星の製作、試験まで行った。
     この研究・開発で得た成果をもとに国の計画として1978年に打ち上げた実験用放送衛星BSで、高出力増幅器の動作やアンテナ指向精度把握などについての経験、実績を得て、1984年、世界初の実用放送衛星BS -2 aの打ち上げに成功した。
     1990年に打ち上げた第二世代実用放送衛星BS-3aからは民放も参加、更に1997年にはBS-3後継衛星に移行して、2016年現在、受信世帯数は2000万を超え、20事業者以上が高精細度テレビジョンを中心に30を超えるデジタル放送サービスを提供している。
     2011年に、世界初の実用衛星放送開始までの研究、開発の技術的功績でIEEEマイルストーンに選定された。
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  •  1970年代以降、家庭用ビデオデッキが普及し、自分たちでも画像を撮りたいという消費者の要求が大きくなり、家庭用のビデオカメラが注目されるようになってきた。それまでの家庭用ビデオカメラは、撮像部と録画部がそれぞれ独立していたが、それを一体化したものがカムコーダであり、1980年以...
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     1970年代以降、家庭用ビデオデッキが普及し、自分たちでも画像を撮りたいという消費者の要求が大きくなり、家庭用のビデオカメラが注目されるようになってきた。それまでの家庭用ビデオカメラは、撮像部と録画部がそれぞれ独立していたが、それを一体化したものがカムコーダであり、1980年以降、各社により開発が進められた。
     1983年、ソニーがベータマックス規格を採用した民生用のカムコーダ「ベータムービー」(BMC-100)を発売し、1984年にはVHSの小型テープであるVHS-C規格を採用した「GR-C1」が、日本ビクターから発表された。
     1984年には8 mmビデオフォーマットの規格統一が実現し、1985年、ソニーから「CCD-V 8」が発売され、その後、ハンディカム®の名称で次々に小型機が開発された。特に1989年に発売されたパスポートサイズの「CCD-TR55」は空前の大ヒットとなり、家庭に新たなビデオ文化を広めるところとなった。
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  •  1908年、東京帝国大学の池田菊苗教授は、グルタミン酸ナトリウム(以下「MSG」)の発見により、古来考えられてきた「甘酸鹹苦」という4つの味(甘味、酸味、塩味、苦味)とは別に第5の基本味が存在することを主張し、それを「うま味」と名付けた。
     しかしながら、うま味成...
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     1908年、東京帝国大学の池田菊苗教授は、グルタミン酸ナトリウム(以下「MSG」)の発見により、古来考えられてきた「甘酸鹹苦」という4つの味(甘味、酸味、塩味、苦味)とは別に第5の基本味が存在することを主張し、それを「うま味」と名付けた。
     しかしながら、うま味成分を生かした代表的な食品である和食に海外の関心は低く、時には忌避される傾向すらあった。
     戦後、味の素によるMSGの海外普及、そして、キッコーマンによる醤油の海外生産販売、更には多くの和食関連企業の海外展開により、80年代には海外に寿司ブームが起きるなど、うま味関連食品、和食への関心は次第に高まっていった。
     1985年、ハワイで第一回のうま味国際シンポジウムが開催され、「UMAMI」は国際的に認識されるようになった。2002年カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究グループにより舌にグルタミン酸の受容体が発見され、うま味が第5の基本味覚であることが立証された。そして、2013年、和食はユネスコの無形文化遺産となり、「UMAMI」の代表である和食は国際的文化産業へと認定されることとなった。
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  •  パソコンは、「場所を選ばずに使いたい」というニーズに合わせて小型軽量化が追求されてきた。1985年、東芝は、重量4.1kgのラップトップパソコン「T1100」を開発した。これはモノクロ液晶ディスプレイを搭載し、当時米国の標準であったIBMパソコンとの互換性を有していた。さらに、...
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     パソコンは、「場所を選ばずに使いたい」というニーズに合わせて小型軽量化が追求されてきた。1985年、東芝は、重量4.1kgのラップトップパソコン「T1100」を開発した。これはモノクロ液晶ディスプレイを搭載し、当時米国の標準であったIBMパソコンとの互換性を有していた。さらに、1989年に東芝が発売した「Dynabook J3100SS」は、薄型バックライト液晶ディスプレイを搭載し、A4サイズで厚さ44mm、重さは2.7kgと画期的な小型軽量で、しかも20万円を切る価格となった。同年、セイコーエプソンや日本電気もほぼ同スペックの製品を発表し、ラップトップを超えるノートパソコンと呼ばれる新たなジャンルが、日本企業によって確立された。
     さらに日本企業は、ノートパソコンのサイズにデスクトップパソコン並みの機能を組み込む開発をリードし、2000年にはノートパソコンの売り上げはデスクトップパソコンを上回るところとなった。
     2013年、東芝T1100は、IEEEマイルストーンに選定された。
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  •  プレハブ住宅を中心とする工場生産住宅は、戦前から欧米を中心に研究が進められてきた。我が国においても、戦後の都市住宅不足を補うという期待を担って推進されてきた。
     大和ハウス工業は、1955年、事務所用としてのパイプハウス、さらに1959年には初のプレハブ住宅「ミゼ...
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     プレハブ住宅を中心とする工場生産住宅は、戦前から欧米を中心に研究が進められてきた。我が国においても、戦後の都市住宅不足を補うという期待を担って推進されてきた。
     大和ハウス工業は、1955年、事務所用としてのパイプハウス、さらに1959年には初のプレハブ住宅「ミゼットハウス」を発表して大きな注目を集めた。次いで多くのベンチャー精神あふれる企業が参入し、様々な工法を開発し市場を拡大し、昭和40年代に入ると年間10万戸以上を販売する一大産業となった。
     1973年の第一次石油危機とともにプレハブ住宅産業は大きな危機を迎えたが、企画提案型やユニット工法といった新たなプレハブ住宅を開発するとともに、品質の向上を図りそのブランド力によって顧客の安心を確保するビジネスモデルを確立していった。
     1986年には、プレハブ住宅新築件数は20万戸を突破し、現在年間約4兆円の産業にまで成長している。プレハブ住宅が産業になったのは世界で日本のみである。
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  •  1987年、花王は従来の4分の1の容量である酵素入りコンパクト洗剤「アタック」を販売した。「スプーン1杯で驚きの白さに」というキャッチコピーで販売されたアタックは、包装材料の省資源化や生産物流面での消費エネルギー削減など、環境問題にもいち早く対応した、当時では先進的なコンパクト...
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     1987年、花王は従来の4分の1の容量である酵素入りコンパクト洗剤「アタック」を販売した。「スプーン1杯で驚きの白さに」というキャッチコピーで販売されたアタックは、包装材料の省資源化や生産物流面での消費エネルギー削減など、環境問題にもいち早く対応した、当時では先進的なコンパクト洗剤であった。
     当時の市場では、消費者に割安感を出すため洗剤容器の大型化競争が中心となっていた。他方、オイルショックを契機に省資源化としての「小型化」が課題となるとともに、環境配慮のための無リン化に伴う洗浄力低下も課題となっていた。
     小型化にあたっては、トナー用の粉体加工技術を応用して洗剤粒子の体積を小さくすることに成功し、また、アルカリセルラーゼという酵素を配合することにより洗浄力を飛躍的に向上させた。
     日本から波及する形で、軽くて洗浄力の強い洗剤は海外でも一般化し、酵素入りコンパクト洗剤は世界の主流となった。
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  •  光通信にはレーザ・エレクトロニクス技術そしてファイバーの材料技術が重要である。また、光通信の伝送媒体であるガラス光ファイバーの工業化が不可欠であった。
     半導体レーザは、1962年に米国で開発されていたが、その用途は極めて限定された条件下でしか機能しなかった。東京...
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     光通信にはレーザ・エレクトロニクス技術そしてファイバーの材料技術が重要である。また、光通信の伝送媒体であるガラス光ファイバーの工業化が不可欠であった。
     半導体レーザは、1962年に米国で開発されていたが、その用途は極めて限定された条件下でしか機能しなかった。東京工業大学の末松安晴はその研究室の協力の下に、それまでの半導体レーザの材料であったガリウム・ヒ素(GaAs系)を基板としたものからインジウム・リンを基板とした半導体レーザを開拓するとともに、大量の情報伝送に必要な単一モードでの発振を可能とする動的単一モードレーザ(DSMレーザ)を提案し、1981年その実験に成功した。これによって大容量長距離光通信への途が大きく開拓されるところとなった。
     光ファイバーの量産化は、日本電信電話公社(現NTT)によって古河電気工業、住友電気工業、藤倉電線(現 フジクラ)との連携の下に開発が進められ、1977年、NTTの伊澤達夫らはVAD(Vapor-phase Axial Deposition Method)法という画期的な製法を開発しこれを実現した。現在も全世界の光ファイバー生産のほぼ6割を占める製法となっている。
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  •  ポリエステルは、1941年に英国の会社によって開発された合成繊維で、日本では、1958年に東洋レーヨン(現 東レ)と帝国人造絹糸(現 帝人)によって工業化がなされた。
     ポリエステルの開発改良の歴史は、その品質をいかにして天然繊維に近づけるかという歴史でもあった。...
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     ポリエステルは、1941年に英国の会社によって開発された合成繊維で、日本では、1958年に東洋レーヨン(現 東レ)と帝国人造絹糸(現 帝人)によって工業化がなされた。
     ポリエステルの開発改良の歴史は、その品質をいかにして天然繊維に近づけるかという歴史でもあった。1960年初頭にデュポン社が絹の光沢の理由と考えられてきた三角断面に関する特許を取得した。東レはこの特許に抵触しないよう開発を進め、1963年に絹の風合いに近いシルックの生産を開始し注目を集めた。その後も合繊メーカー各社はそれぞれの製品の差別化を目指してナチュラル感やむら感など様々な研究を進めていった。
     1980年代になると、日本の合成繊維メーカーは、プラザ合意成立後の円高、天然繊維ブーム、さらには、台湾・韓国などの安価な製品の出現によって転機を迎えた。そして、製品差別化の究極の発想として、むしろ合成繊維でしか実現できない品質を引き出すことに集中し成功した。その結果、誕生した「新合繊」はシルク調、ウール調、ピーチスキン調など多彩な外観・肌触わり・着心地を実現し、世界中の注目を集めるものとなった。
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  •  フラッシュメモリは、電源を切ってもデータが保存される不揮発性メモリの一種であり、電気的に一括消去できることを特徴とする。
     フラッシュメモリにはNOR型とNAND型の2種類あり、NOR 型は1984年に、NAND 型は1987年に、ともに舛岡富士雄ら東芝の研究者に...
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     フラッシュメモリは、電源を切ってもデータが保存される不揮発性メモリの一種であり、電気的に一括消去できることを特徴とする。
     フラッシュメモリにはNOR型とNAND型の2種類あり、NOR 型は1984年に、NAND 型は1987年に、ともに舛岡富士雄ら東芝の研究者によって発表された。 NOR型は信頼性が高く、読み込みが速いという特徴から、マイコンやルーター、プリンター等のファームウエアに主に利用されている。また、NAND 型は、大容量化しやすく書き込みが速いという特徴から、従来のフロッピーディスクに代わるPC用のUSBメモリや、デジカメ、携帯電話、携帯音楽プレーヤー等の外部記憶媒体に主に利用され、2004年には全世界で70億ドルを超す市場規模となった。 
     近年では、さらに大容量化、低価格化、高速化が進み、SSDなど次世代の大容量記憶メディアとしての発展も期待されている。
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  •  1980年代、テレビはゲーム機や、ビデオのディスプレイとしても使用される一方で、放送自体が衛星放送や有線放送へと拡大し、また画面も多重文字、多重音声そして高画質化が推進された。テレビ機能の大きな変化は、回路の構成を複雑化するとともに、視聴者にとっても画面の大型化を求めるようにな...
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     1980年代、テレビはゲーム機や、ビデオのディスプレイとしても使用される一方で、放送自体が衛星放送や有線放送へと拡大し、また画面も多重文字、多重音声そして高画質化が推進された。テレビ機能の大きな変化は、回路の構成を複雑化するとともに、視聴者にとっても画面の大型化を求めるようになり、従来のブラウン管テレビではその限界が明らかになりつつあった。
     1988年にシャープにより14型カラー液晶テレビが開発され、1990年代後半には、プラズマテレビが登場し、ブラウン管テレビ、液晶テレビとの大型化競争も熾烈となった。1999年シャープが世界で初の20型液晶テレビを発売すると、その後の薄型テレビの製造技術は飛躍的に発展を遂げるところとなった。テレビ放送のデジタル化への転換も薄型であるプラズマテレビや液晶テレビへの需要を高め、ブラウン管テレビを凌駕するところとなった。
     主流となった液晶テレビの日本国内生産台数は、2000年には47万台にすぎなかったが、2005年には422万台、2010年には2519万台にまで達した。
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  •  スタチンは、LDL(低密度リポタンパク)コレステロール(悪玉コレステロール)を効果的にかつ少ない副作用で下げる高脂血症に対する医薬品群である。
     1960年代から体内でのコレステロール吸収阻害剤は存在したが、スタチンは、動脈硬化の原因となる血中のLDLコレステロー...
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     スタチンは、LDL(低密度リポタンパク)コレステロール(悪玉コレステロール)を効果的にかつ少ない副作用で下げる高脂血症に対する医薬品群である。
     1960年代から体内でのコレステロール吸収阻害剤は存在したが、スタチンは、動脈硬化の原因となる血中のLDLコレステロールを下げるという医薬品である。このメカニズムの解明、実証においては当時、三共(現 第一三共)に在籍した遠藤章の研究が決定的な役割を果たした。遠藤は、「カビとキノコの中には他の微生物との生存競争に打ち勝つための武器として、コレステロールの合成阻害物質(抗生物質)を作るものが存在する」という仮説を実証し、1976年青カビから発見したスタチンの一種であるコンパクチンを特許化し、同年論文発表した。この解明によって、世界の多くの科学者そして医薬品企業にコレステロールの体内合成を阻害する様々なコンパクチン同族体(スタチン)の医薬品開発に取り組む展望を与えるところとなり、日本でも三共によるプラバスタチンのような優れた医薬品が開発され今日に至っている。
     遠藤は日本人として初めて「全米発明家殿堂」入りを果たしている。
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  •  ハイビジョンは、NHK放送技術研究所が開発した高精細テレビの一方式である。NHKは、東京オリンピック開催の1964年より高品位テレビに関する基礎研究に着手し、ハイビジョンの「伝送規格」であるMUSE方式(アナログ方式伝送のための画像圧縮技術)を用いて、1989年6月に世界初の衛...
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     ハイビジョンは、NHK放送技術研究所が開発した高精細テレビの一方式である。NHKは、東京オリンピック開催の1964年より高品位テレビに関する基礎研究に着手し、ハイビジョンの「伝送規格」であるMUSE方式(アナログ方式伝送のための画像圧縮技術)を用いて、1989年6月に世界初の衛星によるハイビジョン定時実験放送を開始した。しかし、デジタル方式への本格的な移行に伴い、日米欧それぞれ異なるデジタル伝送規格が開発・採用され国際規格としては拡大しなかった。
     一方、ハイビジョンの「スタジオ規格」については、NHKが前述のMUSE方式などの研究開発で培った技術をもとに、総走査線数1125本方式の規格を定め、1985年、国際標準化機関のCCIR に米国、カナダと共同で提案した。当初、欧州はこの規格に反対したものの、日本でのハイビジョン放送実績が評価され、2000年3月に1125本方式が世界統一スタジオ規格となった。
     2016年4月、NHKが開発した「ハイビジョン」は、IEEE マイルストーンに認定された。
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  •  IH(Inducting Heating)とは、誘導加熱のことであり、コイル状の導線に交流電流を流すことで発生する磁力線を鍋等に当てることにより、それ自体を発熱させている。この原理を応用し、1970年に米国ウエスティングハウス社が世界初のIH調理器を販売し、国内では、1974年...
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     IH(Inducting Heating)とは、誘導加熱のことであり、コイル状の導線に交流電流を流すことで発生する磁力線を鍋等に当てることにより、それ自体を発熱させている。この原理を応用し、1970年に米国ウエスティングハウス社が世界初のIH調理器を販売し、国内では、1974年に松下電器産業(現 パナソニック)が高周波型のIH 調理器を商品化した。
     初期のIH調理器は、大型で高コストだったため、一般家庭向けではなかったが、パナソニックは、電流を高周波に変換するための高周波インバータの小型化、低コスト化に成功し、1978年に卓上IH調理器を商品化した。1983年にはGE開発の新型半導体素子技術を取り入れた小型化高周波インバータにより、世界初のIH ジャー炊飯器も開発している。
     1989年から90年にかけて、東芝、中部電力、パナソニック等が火力が強くてもノイズの小さな200VのIHクッキングヒーターの開発に成功し、これによってIHクッキングヒーターの大衆化が更に大きく進展、2002年にはオールメタル加熱型IHクッキングヒーターも商品化され、一般家庭への普及を更に推進するところとなっている。
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  •  中空糸(中空繊維)は、1980年代から90年代にかけて生み出された新合繊の一つである。繊維内部に空洞の部分がある異形断面形状の化学繊維であり、内部が空洞のため通常の糸より多くの空気を含み、保温性が高く軽量であり、かつ吸水性に富むため、衣料用や寝具などに多く用いられている。加えて...
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     中空糸(中空繊維)は、1980年代から90年代にかけて生み出された新合繊の一つである。繊維内部に空洞の部分がある異形断面形状の化学繊維であり、内部が空洞のため通常の糸より多くの空気を含み、保温性が高く軽量であり、かつ吸水性に富むため、衣料用や寝具などに多く用いられている。加えて、中空糸膜は繊維壁面に多数の超微細孔があり、分離膜の機能(精密な分離機能)も有している。1980年代後半から、我が国繊維業界はこの分離機能を利用した中空糸を医療分野(血液透析、人工肺、ウイルス除去、無菌水製造など)や海水の淡水化、浄水器など広範な分野での利用を可能とする製品を開発した。
     これにより、新興国を中心とした人口増加と工業化の進展に伴って水需要が急速に高まる国での大型海水淡水化プラントにおいて、多くの納入実績を挙げるとともに、医療分野でも人工腎臓などの製品で世界的に高いシェアを占めている。また、家庭用浄水器としては2015年全消費者の40.5%にまで普及している。
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