公益社団法人発明協会

現代まで

液晶ディスプレイ

イノベーションに至る経緯

 液晶は、1888年、オーストリアの植物学者ライニッツァー(Friedrich Leinitzer)がプラハの研究所で発見したものである。そして、その分析を依頼されたドイツの物理学者レーマンにより液晶(液状結晶)と名付けられた。液晶は分子がおおよそ一定の方向にそろって並んでいて、液体と結晶の中間的な性質を持ち、方向によって屈折率などの特性が異なる性質(異方性)を有している。この特性に着目し、ディスプレイとして使用できる可能性を示したのが米国のRCA社である。1962年にRCAデビット・サーノフ研究所のR.ウイリアムズ(Richard Williams)はネマチック液晶に直流電圧を印加し、液晶分子を制御することにより光の透過率を制御したLCDを発明し、特許を取得した1。次いで同社のハイルマイアーは、ネマチック液晶に直流電圧を加えて液晶を白濁させる技術を開発した2

 このハイルマイアーの発明は、1968年6月に、数字や文字を表示させるDSM(Dynamic Scattering Mode)方式のLCD(以下「DSM-LCD」と呼ぶ)として公表された。各国の研究者、技術者は次世代ディスプレイの可能性を予感した。

(1)日本における初期のLCD開発

 日本でもRCAの記者発表以前に日立製作所(以下「日立」と呼ぶ)中央研究所の研究員が1964年頃から液晶の物性の研究を行っていた。しかし、日本企業が本格的にこれに取り組みだしたのは1968年以降である。

 日本企業が最初に液晶を使って製品化に成功した分野は、電卓と腕時計である。前者はシャープ、後者は諏訪精工舎(現 セイコーエプソン、以下「セイコーエプソン」と呼ぶ)によって実現された。当時、激しい電卓開発競争の最中にあったシャープは、1968年6月のRCAのニュースに接し、それまでの電卓のニキシー管や蛍光表示管を液晶表示に換えられないかを考えた。そのため、RCA社に電卓用LCDの開発を打診したが、時計用と異なり電卓は高速の応答速度が必要となるので対応できないと断られた。このため、和田富夫をリーダーとした液晶プロジェクトチームを結成し自らその開発に着手した。しかし当初試作されたDSM-LCDは、直流電圧を印加すると電気化学反応が発生し使用不能となった。様々な試行錯誤の中で液晶に不純物を加え、交流電圧で動作させることで大幅に寿命を延ばすことが可能となることを発見した。1972年、この成果を受けて液晶電卓開発プロジェクトをスタート、翌年世界初の液晶電卓(COS-LCD電卓)「EL-805」を発売したのである。

 セイコーエプソンもRCAのDSM-LCDの記事を見た山崎淑夫等技術者たちがインフォーマルに調査研究を開始し、やがて時計部門の研究グループの協力を得てその応用を探っていった。しかし、この過程でDSM-LCDは腕時計用のディスプレイとしては不向きと判断し、消費電力が少ないTN(Twisted Nematic)液晶を使用したLCD(以下「TN-LCD」と呼ぶ)の研究に切り替えた。そして、時計に適した液晶の合成及び封入方法など様々な課題を解決するとともに、 クオーツ時計で蓄積された量産技術を活用し、世界初の6桁液晶表示式クオーツ腕時計「06LC」を開発、1973年10月にセイコーから発売された。

 シャープ、セイコーエプソンの成功は液晶が本格的な実用品に使用される大きな一歩となった。多くの日本企業がこの新たな素材の新たな活用について取り組んでいった。その際、電子電気機器メーカーだけではなく例えば化学メーカーとの共同開発がこの時点から見られるようになっている。例えば日立では、腕時計用TN-LCDの開発を、茂原工場の協力を得て開始し、1975年にはカシオ計算機(以下「カシオ」と呼ぶ)に供給を開始しているが、一方で旭硝子と大日本塗料とともに表示情報量の大きいTN-LCDの開発をスタートさせている。

 また、三菱電機では、1970年頃からLCDの研究を開始し、小型LCDの開発を旭硝子と連携し開始した。1974年にはミニ・プラント、1975年には電卓用TN-LCDを出荷可能なパイロット・プラントを建設した。その上で、翌1976年、合弁でLCDメーカー、オプトレックス社を設立し、量産を開始している。

(2)ワープロ、ノートパソコンへの活用

 電卓や時計の場合表示されるのは数字だけであったが、あわせて文字や画像をも液晶で表示するには、更なる技術開発が必要であった。表示方式を線の組合せであるセグメント表示から点の連なりによるドット・マトリクス表示に変更する開発が進められた。この分野では日立の川上英明らが「任意バイアスの電圧平均化法」を開発し、これはその後のドット・マトリクス表示における基本的な駆動法となった。1978年には日立が40×2行(80文字、35画素/字)のTN-LCDを、1979年にはシャープがTN-LCDを搭載した24桁の関数電卓を、またセイコーエプソンが32文字×2行のTN-LCDを発売している。そして、シャープは1978年に白黒液晶テレビの開発を行うまでに至っている

 しかし、TN-LCDを使ってのドット・マトリクス表示には本質的な課題が存在した。ドット・マトリクスの網の目の数を多くして表示容量を増やすために導線数を増加させ、導線1本あたりの電圧書き込み時間を縮めると、本来オフ(白)にすべき画素にも電圧が加わり発色してしまうクロストークという現象が発生してしまうことであった。

 この限界を超えるには、デューティ比と呼ばれる画面周期に対する導線1本あたりの電圧書き込み時間の比率を小さくする技術開発が必要であった。1985年、スイスのシェーファー(Scheffer)らは液晶分子のねじれ角をTNの90度から270度に拡大させるとデューティ比の縮小を可能にすることを発見した。日本企業はこの発見をただちに自社の技術に取り込みねじれ度240度付近でポリイミド配向膜を使うSTN(Super Twisted Nematic)液晶(以下「STN-LCD」と呼ぶ)が実用化に最適との結論を得て、これを実用化する技術の開発に取り組んでいった。

 STN-LCDの画面はおおむねクロストークを抑えることに成功したが、黄色や青色を帯び、完全な白黒表示はできなかった。この解決は日本の電機メーカーと化学メーカーの共同作業(セイコーエプソンと住友化学、日立と日東電工)によって1980年代後半に位相差補償フィルムを開発することによって達せられた。

 表示をカラーにする技術開発も1980年代に大きな進展を遂げている。1981年、東北大学教授の内田龍男はカラーフィルター方式によるLCDの論文を欧州で発表した。海外の学会では不評であったが、シャープ等日本企業はこの方式を取り入れカラー表示に関する産学連携開発を進め時間をかけて実用化を図っていった。

 相次ぐ日本の技術開発によって、LCDの用途は大きく拡大することとなった。1970年代後半の電卓、時計といったモノクロ、小画面の製品から、1980年代後半にはワープロ、ノートパソコンへとLCDの市場は拡大した。1986年にはシャープが液晶表示ワードプロセッサーを販売開始し、1988年にはセイコーエプソンがラップトップパソコンにSTN-LCDを搭載した。両社はカラー化をも実現しOA機器の分野での新たな地平を切り開いた。この液晶を使用した日本のノートパソコン分野では、明拓システム(現 明拓工業)の村瀬新三が開発したバックライトが画面の明るさを大幅に向上させLCDに不可欠の要素技術を提供するところとなった。明拓システムは1985年創業、創業時には5人の小規模企業であった。

(3)アクティブ・マトリクス駆動方式と液晶テレビ

 テレビのような大容量の情報をLCDで表示させるには、それまでの単純マトリックス駆動方式では限界があり、既に1971年にRCAのレッヒナー(Bernard J Lechner)らはアクティブ・マトリクスという概念を提唱していた。そして、これを具体化するには薄膜トランジスタの使用が有効であることも明らかにされていた(TFT-LCD:thin film transistor-LCD)。1975年、英国のダンディー大学のスペア(Walter Spear)らによるアモルファスシリコン薄膜の開発は一つの画期となった。その基板材料として、それまでの石英から安価なガラスを使用することで大幅なコスト減を可能とし、実用化への新たな展望を与えるものとなったからである。各国はそろってこの実用化を進めたが、日本では、1984年、セイコーエプソンがアクティブ・マトリクス を使用した2インチの小型カラー液晶テレビを世界で初めて開発販売した。そして、1986年には松下電器産業(現 パナソニック)がアモルファスシリコン膜を使用した3型のカラーテレビを発売した。さらにシャープは1988年に14インチという大きさのTFT-LCDを使用したカラーテレビを発売し、ポケットサイズから小型液晶テレビへの途を切り開いた。

 このTFT-LCDは、その後のパソコンやテレビのディスプレイの主流となった。そして、1980年代後半から1990年代初頭にかけてのこのTFT-LCD関連技術のほとんどは日本企業、研究機関によって開発されていった。

 1990年代初頭、LCD市場は日本企業の独壇場となった。パソコン等OA機器により市場は大きく拡大した。様々な分野の日本企業の参入が相次ぎ、LCD産業ともいうべき企業群が形成されていった。これらの企業は競って積極的な設備投資を実施しさらに生産力を高めていった。1991年、米商務省は日本製LCDに対してダンピング認定による62.67%の高率課税を課したが、これに対して、日本のLCDメーカーだけでなくアップル、IBMなど米有力パソコンメーカーもノートパソコンの生産コストに大きな影響を与えることを恐れ国際貿易裁判所に提訴するという珍しい現象まで見られるところとなった。1997年にはTFT-LCD生産能力のほぼ全世界の8割が日本製となった。また、その部品、材料面でも日本企業がトップのシェアを占めるものがほとんどとなった。カラーフィルター、ガラス基板、各種フィルム、導光板材料等など主要部材は日本の印刷メーカー、ガラスメーカー、化学メーカーなどが大きなシェアを占めるものとなった。LCD市場規模は、2000年代中頃にはブラウン管のそれを凌駕したと思われる

(4)内外競争の激化

 1990年代初頭から、LCD産業の課題は画面の大型化と需要の増大に対応し、いかに安価なLCDの生産体系を構築できるかになっていった。それは主としてガラス基板のサイズの大型化によるスケールメリットによって追及された。その結果、一つの標準的なガラス基板サイズはほぼ2年から4年内に次の世代サイズへと拡大し、それに即して関連産業も様々な技術の改良、開発を行って次世代に備える激しい競争が行われるところとなった。この激しい競争の下で、やがて日本のLCD産業は厳しい収益の悪化に見舞われるようになった。大口の市場であった米国ではパソコン不況が長期化し、日本もバブル崩壊に加えて1992年のコンパックショック(米国コンパック社の格安パソコンの販売)と呼ばれる急激な国内のパソコン市況悪化が招来された。LCD価格は著しく低下し始め、第4世代が生産され始めた西暦2000年前の数年間、日本メーカーの設備投資はかつての勢いを失い始めていた。その状況下で、1990年代後半には日本企業を上回る大規模投資を行っていた韓国・台湾メーカーの新鋭量産ラインが本格稼働を開始した。LCD価格はクリスタルサイクルと呼ばれる波動を見せつつ、さらに急速な低下傾向を示し、日本企業は戦略変更を検討せざるを得ない状況に陥った。日本企業は規模の経済で対抗することは困難になると判断し、広視野角化等の高画質化による差別化を図ろうとした。広視野角化技術は見る角度によって画質が変化することを抑制することができ、TFT-LCDの利用を、一人の人間が使用するOA機器から複数の人間が視聴する広角画面に適用できるものであった。しかし、1999年に、デルコンピュータ、IBM、コンパック・コンピューター、ヒューレット・パッカードの米パソコン四社に東芝を加えた五社により構成された「SPWG」(スタンダード・パネルズ・ワーキング・グループ)が制定したノートパソコン向けLCDの標準規格化は、大きさ、インターフェースやねじ穴の位置等を定めたもので、日本企業が差別化要因として期待していた高速応答や広視野角など高機能性は盛り込まれなかった。

 21世紀に入ると、LCD生産企業のトップの地位は韓国・台湾メーカーに譲ることとなった。しかし、日本のLCD産業は携帯電話などの新たな需要に対応して開発した高度の技術をもってなお一定のシェアを維持している。一方、韓国、台湾に続いて現在は中国メーカーが新たなプレイヤーとして急速な成長を遂げつつある。欧州で素材が発見され米国で発明されたLCDは日本で産業化され、アジアに根付いた大製品となってなお市場を拡大し続けている。

世界初の液晶6桁表示デジタルウオッチ「06LC」(1973年)

世界初の液晶6桁表示デジタルウオッチ「06LC」(1973年)

世界初のTVウオッチ(1982年)

世界初のTVウオッチ(1982年)

世界初の液晶カラーテレビ「ET-10」(1984年)

世界初の液晶カラーテレビ「ET-10」(1984年)

(画像提供:セイコーエプソン(3点とも))


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