安定成長期
中空糸
イノベーションに至る経緯
(1)旭化成の人工腎臓
腎臓は血液を濾過して尿素をはじめとする老廃物や余分な水分を排出し、血液の電解質バランスを調整する臓器である。人工腎臓装置の目的は、疾病等により腎臓の機能が低下し老廃物を体外に排出できないようになった場合に、透析器で老廃物を除去した後、浄化された血液を再度体内に戻すことにある。人工腎臓装置で最も広く使用されているのが血液透析である。これは血液中の尿毒素を半透膜を利用して除去するとともに、血液が酸性にならないよう電解質の組成を調節するものであるが、この半透膜が内蔵された浄化器が透析器(人工腎臓・ダイアライザー)である。なお、日本における慢性透析患者数は1980年の3万6397人から、以降10年ごとに10万3296人、20万6134人、29万8252人と増加傾向にある。1960年代後半に米国で再生セルロース製中空糸を用いた人工腎臓が使用されはじめたが、それを受けて旭化成工業(現・旭化成、以下、旭化成と呼ぶ)が「銅アンモニア法再生セルロース繊維よりなる透析用中空糸」の発明に成功し、これが日本における人工透析の新しい時代を開く契機となった。
世界で最初の血液透析は1912年に米国でコロジオン膜を用いて試みられた。さらに1943年にはビスコース法フィルムによる透析が行われ、それ以降は人工腎臓の透析膜にはビスコース法によるフィルムが使用されていた。さらにその後、銅アンモニア法セルロースの平膜とチューブが人工腎臓として用いられるようになり、1968年には米国のコーディス・ダウ社がアセテート鹸化セルロースを素材とした中空糸型人工腎臓を上市した。この中空糸型人工腎臓は旧来のそれよりも小型軽量化の面で優れていたものの、強度の点で問題があり、また水の濾過速度が低く、中分子物質の透析性に問題があったため更なる改良が必要とされていた。
旭化成が人工腎臓の基礎研究を開始したのは1971年のことである。当初は平膜タイプの人工腎臓の研究を行っていたものの、将来的には中空糸タイプの人工腎臓が主流になるという判断に基づき、中空糸タイプの開発に方針を転換した。この時の中空糸の設定目標は内径260μm、膜厚20μm・断面が真円、連続して貫通している、というものであった。同年末にはこの目標を満たした中空糸の開発に成功し、さらにこれを用いた人工腎臓の開発・製造に着手した。ここでの最大の課題は、樹脂製の筒に内径260μm・膜厚20μm・糸長30㎝の中空糸を1万本程度の束にした上で、さらに全ての中空糸の両端を均一に接着して切断する、というものであった。この時点では接着剤としてシリコンを使用し、端面をはけで塗って枠型に装塡することにより中空糸の束を作ることに成功した。この方法で1972年末には当時として最高の性能を持った中空糸膜の技術を確立させた。さらに1973年には刷毛塗りに替えて中空糸の束をシリコン溶液に漬けてから接着する方法、これに加え充塡用の容器を二分割し、中空糸を充塡した後に溶接する方法に変更することによって生産性を向上させることに成功した。その後、接着剤をウレタンに変更し、また滅菌方法をエチレンオキサイドガスに変更するなどの改良を進め、1974年に世界初のベンベルグ(キュプラアンモニウムレーヨン)中空糸を透析膜とした人工腎臓の開発に成功した。人工腎臓の生産は1975年に開始されるが、医療機器の製造販売を目的として1974年に設立された旭メディカルはさらに高機能の人工腎臓の開発を進め、ここでの技術を転用して血液浄化事業に進出する。これに伴い設立直後には14億円であった売上高は1985年には133億円にまで増加した。
人工腎臓の事業化以降、旭化成はこれらの事業で培った技術を生かして腹水濾過器の開発に成功する。さらにこの腹水濾過器の技術やノウハウを基に血漿分離器の開発に成功するなど、中空糸に関する技術は各種の事業・製品に転用され、旭化成の事業展開に大きく貢献することとなった。
(2)東洋紡の逆浸透膜
世界的に人口が増加し水不足が深刻化するなか、海水の淡水化や排水の処理に用いられる逆浸透膜の技術の重要性が増している。元来、逆浸透膜は、海水などから安価に淡水を得るために1950年代に米国で研究開発が開始されたものであるが、現在では造水・医薬品工業・繊維染色加工業・食品加工業をはじめ様々な分野で用途が拡大している。東洋紡株式会社(以下、東洋紡)は1976年から海水淡水化に使用される逆浸透膜の製造・販売を開始し、1979年に世界初の一段法海水淡水化逆浸透モジュールの開発に成功した。
東洋紡が逆浸透膜の研究開発を開始したのは1971年である。この背景には繊維産業自体の成長が鈍化し繊維企業各社が脱繊維を意図した事業展開を進めるなか、東洋紡も同様に脱繊維を企図して新規事業の方向性を模索していたということがある。そもそも中空糸型逆浸透膜の今日に至るまでの進歩は、1967年に米国のデュポン社が芳香族ポリアミドを用いた中空糸膜を開発したことを契機としており、既にこの分野では先行する企業が国内外に存在していた。一般に逆浸透膜の素材としては三酢酸セルロースとポリアミド系高分子の2種類が用いられているが、ポリアミド系ではデュポンの取得している特許に抵触する可能性があるという開発陣の判断から、三酢酸セルロースを用いた開発を進める選択がなされた。また、開発の目標としては技術的に非常に困難であったものの、海水淡水化への用途が設定された。
汎用性が高い三酢酸セルロースを用いた逆浸透膜を製造するにあたっては、開発陣は平膜型ではなく中空糸型の膜を製造することで他社との差別化を図った。この中空糸型を採用した理由としては、東洋紡がこれまで繊維事業で長期にわたり蓄積してきた中空糸の製造技術や湿式紡糸技術を生かせると判断したこと、また平膜型では自社の専門領域をこえて部材や工程が必要になると判断したことによる。その後1970年代中ごろまでにはこれまでの中空糸製造に関する技術やノウハウの蓄積を生かして、高い脱塩性能を持つ中空糸膜が製造されるようになる。また膜エレメント(膜とその支持体及び流路材等の部材を一体化したもの)の汚れと洗浄のしやすさに影響する、中空糸膜のエレメント化の際の編み込み方にもこれまで培ってきたノウハウが生かされた。ただし、膜エレメントの封止の仕方に関してはこれまでのノウハウが応用できなかったため、全く未知の問題解決に向けて取り組んでいった。こうした取組の結果、中空糸型逆浸透膜モジュールの開発に成功した。
中空糸型逆浸透膜モジュール(製品名「ホロセップ」)は、当初、国内では主に漁船での鮮魚管理のための海水淡水化装置や病院での手術用手洗い水の製造に活用されていたが、市場規模それ自体が小さいものであったため、事業規模を拡大すべく東洋紡では海外での大型海水淡水化施設の受注を狙って事業を展開することにした。ターゲットの地域としては海水淡水化のニーズが高いサウジアラビアをはじめとする中東地域が設定された。当時の海水淡水化の主流は蒸発法であり、東洋紡のモジュールは即座には現地で認められなかった。そこで1981年から実証用のプラントを搭載した大型トレーラーで中東各地を回り、海水淡水化の実演を行い自社モジュールの優位性を認識してもらうという方法を採った。これらの実演の反響は非常に良好であり、その後1984年に大型受注が得られたのを契機として、その安定性に優れた性能が評価され、中東では東洋紡の中空糸型逆浸透膜が搭載されたプラントが数多く設置されることとなった。
(3)三菱レイヨンの浄水器
1970年代初頭、三菱レイヨンは第一次石油危機後の深刻な国内不況のなかで新たな技術、製品の開発を模索していた。そのなかには中空糸を使用した環境浄化技術や省エネなどに寄与する膜分離の開発もあった。ある時、同社の豊橋工場で生産していたポリプロピレン繊維に欠陥品が生じ、その調査が中央研究所に持ち込まれた。本来透明なはずの糸が白くなっており、電子顕微鏡で見ると側面に無数の穴が開いていたのである。分析した研究所の所員たちは、この偶然の発見を利用して新たな濾過膜に応用できないかを考え始めた。それまでの中空糸膜の製造は原料を溶剤に溶かして紡糸する湿式法が採られていたが、原料を熱で溶かして紡糸機でマカロニ状の糸を作り、これを引っ張り破る延伸法により、マイクロメートル単位の繊維構造破壊の精密制御ができるようになった。薬品を使わずに乾式で安全な膜を作るために、1977年、同社は研究体制を整え、その開発に向け本格的スタートをきった。
ほぼ1年後、製造技術の目途は立った。しかし、大量生産のためには、膜厚、微細孔の均一化、ピンホール(微小欠陥)の除去等、なお多くの技術的課題が存在した。特にピンホールの除去には、最終段階でのチェックを目視で行うこともできず、その課題克服は容易ではなかったが、インラインでの欠陥検査の方法を開発し、ようやくクリアすることができた。
製造技術の目途が立ったころから、三菱レイヨンでは新製品の用途をどこに求めるかが課題となった。研究所の職員が自ら需要先を求めて関係企業等に出向く日々が続いた。最初に取り組んだのは、最も一般的とみられた排水処理用の膜であった。3年にわたる実験結果をもとに1980年、排水処理システム(ダイヤエース)として発売することとなった。さらに、人工肺の開発にも着手し、1978年には世界で初めて開発に成功した(1982年には製品化)。
これらの一群の製品開発の過程で、三菱レイヨンは血液を濾過して血漿を取り出す膜の開発にも取り組んでいた。その過程で、原料となるポリプロピレンでは側面の孔が小さく所要の濾過ができにくかったことから、孔径制御領域、強度、柔軟性においてこれにまさるポリエチレンを代替させることでその開発に成功していた。これによって中空糸膜のより広範な使用の可能性を示すこととなった。
1983年5月、当時三菱レイヨン社長であった金澤は、同年9月までに携帯用浄水器を開発するよう命じた。この指示は同年9月に米国三菱レイヨンが開所するのに間に合わせる意図が込められていた。開発は成功し、そのサンプルは米国でのセレモニーで配布された。しかし、殺菌剤の使用が避けられず中空糸膜だけで濾過し飲み水とする浄水器とはならなかった。改良を加え、翌年には「真清水」のブランド名で商品化された。
この経験から三菱レイヨンは、より市場の大きいと思われる家庭用浄水器の開発に取り掛かった。家庭用浄水器の発売時期は開発決定から6月後の1984年9月とされた。当時家庭用の浄水器といえば活性炭を通過させる方法が一般的であった。しかし、携帯用浄水器で培った技術をもってすればこれを上回る市場を確保できると考えたのである。それには「真清水」開発の過程で開発された中空糸膜の「恒久親水化技術」の存在があった。当時の中空糸膜は水をはじく性質があり、膜へ通水するためにはアルコールで一時的な親水性を付与し、その後はこれを水につけておく必要があった。このことは、乾燥した中空糸膜はその機能を果たせなくなることを意味している。三菱レイヨンは、ポリエチレンの表面を親水性ポリマーで覆う方法を開発し、乾燥状態でも水を通過させることに成功していた。同年9月、世界初の据え置き型浄水器(商品名「クリンスイ」)が発売された。折から厚生省が活性炭使用の浄水方法には滞留水に衛生上の問題があることを指摘していたことも追い風となり、また全社挙げての営業、広告もあって、クリンスイは大ヒット商品となり、急速に家庭に普及し必需品化していった。
三菱レイヨンは、その後も1989年には蛇口直結型浄水器を発売するなど家庭用浄水器のパイオニアとしての活動を続けていた。しかしながら、90年代以降になると他社の参入などにより家庭用浄水器市場では激しい安値競争が生じた。カートリッジより本体価格が安い現象までが生じた。2001年、三菱レイヨンは、社運を賭けて浄水器による鉛とトリハロメタンの除去に成功するとともに、機能面では浄水器の寿命をデジタル表示した製品を販売し、さらに2004年には蛇口直結型では世界初の家庭用品品質表示法の除去対象9物質全てを除去できる商品を発売し、家庭用浄水器に新たな時代をもたらしている。