公益社団法人発明協会

安定成長期

ラップトップ・ノートパソコン

イノベーションに至る経緯

(1)PC産業の発展

 コンピュータは人の能力を拡張し、人々の生活を大きく変えてきた。1945年にノイマン型コンピュータの概念が公開されて以降、半導体の出現とその高集積化とともに小型軽量化と価格低下が進展し、用途も軍事用から民生用に広がり、そして1975年には米国MITS社によってIntel8080を用いたPCキット「Altair8800」が発売された。このキットのためにビル・ゲイツとポール・アレンはプログラミング言語BASICインタープリタを開発し、マイクロソフト社を創設した。その翌年にジョブズとウォズニアックの二人のスティーブが「AppleⅠ」を開発するとともにアップルコンピュータ(現アップル社)を設立し、1977年に発売された「AppleⅡ」は爆発的なヒット商品となった。1981年には、コンピュータの巨人IBMが、基本仕様を公開し、OS、部品及び周辺機器を外部から調達するいわゆるオープン・アーキテクチャによる「IBM PC」を発売した。これ以降、PC産業は、CPU開発メーカーであるインテル社とOS開発ソフトメーカーであるマイクロソフト社を軸とした世界規模の分業体制の下で、急速な性能向上と低価格化しつつ発展することとなった。

 日本では、1974年、東芝パソコンシステム(当時ソード)がIntel8080を用いたマイクロコンピュータ「SMP80/X」シリーズを発表し、1976年にはNECがIntel8080互換プロセッサを用いたワンボードマイコン「TK-80」を発表した。最初の完成品PCは、1977年発売された諏訪精工舎(現 セイコーエプソン)の「SEIKO5700」だった。その後、シャープ、日立製作所、NECなどが次々にPCを発売した。特に、1982年に発売されたNECの16ビットPC「PC-9801」はシリーズ化されて人気を呼び、同社が国内PC市場で圧倒的なシェアを有するに至った。

 このころまでのPCは、持ち運びはできないデスクトップ型のものであり、また、日本市場では日本語処理の困難性から漢字ROM、日本語用グラフィックボードが搭載されていた。その結果、低廉な輸入PCが国内に入ることはほとんどなかった。

(2)ラップトップPC・ノートPC誕生

 PCの広範な普及とともに、「場所を選ばずに使いたい」という人々のニーズは高まっていった。1982年、セイコーエプソンは0.5~2kg弱のハンドヘルドコンピュータ「HC-20」を世界で初めて開発した。しかし、機能面においてはデスクトップPCには及ばなかった。フル機能を有する可搬型オールインワンPCとしては、1981年にオズボーン・コンピュータ社が発売した「Osborne 1」があったが、コンセントが必要であり、何より重量10.7kgのスペックは「場所を選ばず」という人々のニーズを満たすには程遠かった。

 一方、1980年代に入り、液晶技術の発展やCPUの処理能力向上さらにはバッテリー寿命の増加などデスクトップに遜色ない機能を有する小型のキーボード等入力装置やディスプレイの可能性が広がってきた。

 1985年、東芝はドイツのハノーバーで開催されたメッセで世界初のIBM PC互換ラップトップPC「T1100」を展示し、欧州で販売を開始した。互換性を確保するためIBMの基本ソフトである「PC DOS」の著作権やインテルのCPU関連仕様の秘匿に対して、日本側はアプリケーションを繋ぐBasic Input Output Systemの開発に心血を注ぎ、知的財産の侵害を回避するため解析担当と開発担当を分けてリバースエンジニアリングを行う、いわゆるクリーンルーム方式を採用してこの課題を克服した。

 仕様はモノクロ液晶ディスプレイを搭載し重量は4.1kg、3.5インチのフロッピーディスク採用、8時間のバッテリー駆動を可能とした。このPCの登場は欧米市場で大きな反響を呼んだ。販売も好評を博し、ラップトップPCの本格的実用化到来をもたらすものとなった。同年富士通が「Fm16π」を、そして翌年にはNECが3.8kgの「PC-98LT」を発売し、さらに同時期セイコーエプソンも「PC 286L」で参入し、日本企業間での更なる熾烈なPC小型化・軽量化競争が開始された1

 このPC小型化の一つの到達点となったのは、1989年6月にノート並みのA4ファイルサイズで20万円以下という低価格PCを実現し、ノートPCという新たなジャンルを切り開いた東芝の「Dynabook J3100SS」(以下「ダイナブック」と呼ぶ)であった。

 ダイナブックは、薄型バックライト液晶ディスプレイを搭載し、A4サイズで厚さ44mm、重さは2.7kg、価格は19万8000円であった。開発にあたっては自社パソコンとの互換性維持、3.5インチのフロッピー駆動装置内蔵及び適度な画面表示面積確保が絶対的な要件であった。薄型液晶ディスプレイの搭載、部品の表面実装技術の改良、集積度の高いLSI(大規模集積回路)の採用、メモリー制御やCPUとメモリー間のバス(データ伝送路)制御、画面制御、プリンター制御などの論理回路ゲートアレイ化など社内外の要素技術の投入により構想から約1年で目標を達成した。同機は当初6万台と発表した初年度年間生産見込みが12万台に上方修正される大ヒットとなった2

 同年、セイコーエプソンやNECもほぼ同スペックの製品を開発販売した。セイコーエプソンは東芝の発売よりも19日早くノートサイズで軽量の「PC-286NOTEexective」の発売を発表していたが、販売はダイナブック発売から3か月後の9月であった。一方、NECは、百数十名の開発体制を整えダイナブック発売から3か月半でノート型の「PC-9801N」をリリースした。この製品はPC-98シリーズの勢いを保持するヒット商品となった。

 80年代におけるPCの主力はなおデスクトップ型であり、国内PC市場には「日本語処理」という名の盾が存在していた。しかし、上記三社のノートPCが発売された直後の1990年にIBMのOSである「PC DOS」に日本語処理機能を付加した「DOS/V」が登場し、1992年にはこれを搭載したコンパック社の「Prolinea」シリーズが発売された。日本のパソコンのおおむね半値以下での発売となった。この「コンパックショック」以降、デスクトップPCは急激に低価格化し、次第にノートPC時代の到来をもたらすこととなった3。多くの日本企業がノートPC市場に参入した。更なる小型・軽量化とカラーノートPC開発など高機能化という方向性で、日本企業間での新たな「世界初」獲得競争が繰り広げられた。こうして、「場所を選ばずフル機能を」というニーズに応えることができるノートPCという新たなジャンルが、日本企業によって確立されることとなった。

 2014年、米国電気・電子学会(IEEE)は、「T1101」が果たしたラップトップパソコンと携帯型パソコンの発展への先駆的な貢献を讃え「IEEEマイルストーン」に認定している。

 

1985年に販売された「T1100」

1985年に販売された「T1100」

(画像提供:東芝)

(3)ノートPC市場の拡大と近隣国・地域の台頭

 1990年代、ノートPC市場は急成長した。ノートPCの価格はデスクトップPCよりも2~3割程度高かったが、新たな用途を可能とする携帯性が評価され大きな二台目需要を生んだ。

 1990年代前半、日本企業は技術の粋を集め、更なる携帯性の強化(小型化・薄型化・軽量化及びバッテリー強化)に加え、高機能化されたノートPCをも次々に開発した。高機能化の中で特に重要であったのは、PCのGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)で必須とされるカラー表示機能であった。1991年、NECは世界初のカラーTFT液晶搭載のノートPC「PC-9801NC」を発売した。同社は、鹿児島日本電気(当時)との協働によりこれを59万8000円でリリースした。それは機能面でも「デスクトップPCと全く同じ使い勝手になった」と高く評価されたのである4,5

 携帯性の強化競争も熾烈であった。1993年発売の日本IBM「ThinkPad220」はA5サイズで1kg、単3電池6本で8時間駆動した。これ以降、B5やA5サイズで1kg前半以下の重さのサブノートまたはミニノートと呼ばれるノートPCの派生カテゴリーが生まれた。こうして、ノートPCは二台目というサブ的な位置付けでなく、デスクトップPCに代わり得るメインのPC、加えて携帯情報端末に代替可能な存在として市場を拡大していったのである。

 1990年代、デスクトップPCは、1965年に言及されたムーアの法則(大規模集積回路におけるトランジスタ等の集積度が指数的に増加するという生産上の経験則)に従う微細化・高集積化によるコストダウンとインテル社のプラットフォーム戦略(自社製品であるCPUと各種デバイスとの間を結ぶ信号線(バス)を標準化・共通化することで自社製品をプラットフォーム(土台)として位置付け、そのうえでCPUと各種デバイスをモジュール化することによって、他社の付加価値を吸収する戦略)の流れの中で、急速にコモディティ化・低価格化しつつあった。国内市場でも1992年のコンパックショック以降、その価格は急速に低下していった。しかし、ノートPCは、差別化可能な製品として日本PCメーカーの収益源としての地位を維持し続けていたのである6,7

 2000年には、日本のノートPCの出荷台数はデスクトップのそれを上回った(下図参照)。そして、世界全体を見てもIDC社の調査結果によれば、2009年のPC出荷台数3億台のうちノートPCは約55%を占め、遂にデスクトップPCの生産台数を超えることとなった。

 米国で生まれたPCに、日本企業が携帯性という新たな価値を付加して生まれたノートPCは、世界中に普及しわずか20年でPC市場の主流となったのである。

図1 我が国におけるPC世帯普及率と種類別出荷台数の推移

図1 我が国におけるPC世帯普及率と種類別出荷台数の推移

注)2007年度以降は日本HPやデルなどが調査対象から除外されている。

 

出典:勝村幸博、大橋源一郎「パソコン30年の進化史」日経パソコン(2013年)

 

 1990年代、東芝の青梅、NECの米沢及び日本IBMの大和・藤沢事業所は、ノートPC開発の世界三大拠点と位置付けられ、ここから次々に生み出された高機能ノートPCはデスクトップPCを上回る勢いで世界に供給されることとなった。

 同時に、アジア企業のキャッチアップもし烈になっていった。また、デスクトップPCで進行していたPCのコモディティ化はノートPCにも及んできた。インテルのプラットフォーム戦略や部品メーカーの海外進出もこの傾向に拍車をかけるようになった8,9

 1999年に、台湾メーカーがノートPC生産において世界のトップに立つこととなった。

 さらに総務省の26年度情報通信白書によればモバイル携帯機器の世界の生産台数では近年はタブレットがノートPCを上回るようになっているという。

 


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