公益社団法人発明協会

イノベーション100選

(年代順)

  •  魚群探知機は、軍事用ソナー(船舶用超音波測距・測深機)の原理を応用し、1948年、古野電気の創業者古野清孝、清賢兄弟によって世界で初めて開発・実用化された。魚群探知機の出現により、それまで漁業者の経験と勘に依存していた漁業を科学的見地から実施する方法に転換する上で大きな足跡を残...
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     魚群探知機は、軍事用ソナー(船舶用超音波測距・測深機)の原理を応用し、1948年、古野電気の創業者古野清孝、清賢兄弟によって世界で初めて開発・実用化された。魚群探知機の出現により、それまで漁業者の経験と勘に依存していた漁業を科学的見地から実施する方法に転換する上で大きな足跡を残すこととなった。
     当時の古野電気は、中小企業であり、軍需品の民需転換をいち早く実現したこと、 ハードウエアとしての魚群探知機の開発のみならず、魚群探知機をいかした漁法のノウハウをパッケージ化して顧客に提供したこと、さらにこれらを円滑に行うために、開発、生産、販売、アフターケアなどを内製化した組織で一元的に提供したこと等ベンチャー企業として優れた経営を展開していった点も注目される。
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  •  1945年、我が国の外航航路用船腹量は、戦前の2割ほどにまで激減していた。その造船技術も、戦時中の艦船建造技術の踏襲が中心であり、それは進んだ欧米の部品溶接工法に比べ遅れた鋲止工法であった。この状況を打開すべく東京大学教授吉識雅夫等大学教授や海軍出身の技術者が中心となり、「鋲接...
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     1945年、我が国の外航航路用船腹量は、戦前の2割ほどにまで激減していた。その造船技術も、戦時中の艦船建造技術の踏襲が中心であり、それは進んだ欧米の部品溶接工法に比べ遅れた鋲止工法であった。この状況を打開すべく東京大学教授吉識雅夫等大学教授や海軍出身の技術者が中心となり、「鋲接から溶接」への移行のための研究組織を形成した。 ここには全国の造船業界からの技術者も参集し、厳しい交通環境の下で頻繁に会合を開催し、検討が進められた。その成果は参加者により現場にもたらされ、さらに、政府の支援も得て船主、製鉄業界等も参加した広範な研究組織へと発展していった。
     溶接工法の導入は、従来の船台で組み立てる工法から、地上で大きなブロックに仕上げるブロック建造方式へと移行した。その過程で生み出された数々の技術の向上により、1956年、日本は造船量世界一を達成することとなる。
     吉識雅夫は、1966年、「学士院賞」受賞、1982年、「文化勲章」受章。
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  •  ビニロンは我が国で誕生した合成繊維の第一号である。戦前、京都帝大の桜田一郎などによって開発され、戦後倉敷レイヨン(現 クラレ)によって工業化された。
     ビニロンは、その原材料を国内で調達することが可能であり、また他の合成繊維と比較した際に、水によくなじむ・強度が高...
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     ビニロンは我が国で誕生した合成繊維の第一号である。戦前、京都帝大の桜田一郎などによって開発され、戦後倉敷レイヨン(現 クラレ)によって工業化された。
     ビニロンは、その原材料を国内で調達することが可能であり、また他の合成繊維と比較した際に、水によくなじむ・強度が高い・紫外線による劣化が少ない・アルカリに強い等の特徴を持っていた。終戦後の国民はその開発に大きな期待を寄せ、社長・大原総一郎の大決断によって資本金2億5000万円の会社が14億円の投資を行い実現した。
     ビニロンは、衣料用途と産業用途の二つの面から特に利用され、衣料としては学生服で木綿のそれを凌駕する大きな需要を獲得し、産業用としては主に漁網とロープに用いられた。近年はコンクリート補強材やアルカリ乾電池のセパレーター等として再評価され、新たな需要が高まりつつある。
     ビニロンの企業化は、国産技術で国産原料を使用し敗戦によって自信を喪失した日本人に自信を復活させる一つの契機となったイノベーションでもある。
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  •  体内におけるがん等の診断及び治療において、現在不可欠な医療器具が内視鏡である。オリンパス光学工業(現オリンパス)は、戦後間もない1940年代後半から東京大学病院の要請を受けて胃カメラの開発に成功し、その後ファイバースコープ付胃カメラ、そして現代のカプセル内視鏡に至るまでこの分野...
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     体内におけるがん等の診断及び治療において、現在不可欠な医療器具が内視鏡である。オリンパス光学工業(現オリンパス)は、戦後間もない1940年代後半から東京大学病院の要請を受けて胃カメラの開発に成功し、その後ファイバースコープ付胃カメラ、そして現代のカプセル内視鏡に至るまでこの分野での技術開発に取り組んできた。現在、同社は内視鏡分野における世界市場においてシェア70%を占めている。
     この開発の歴史は、医師との密接な協力と連携によるところが大きく、患者負担の軽減によって医療現場の光景を一変させるものとなっている。さらに、患部の早期発見を可能とし、予防医学の発展にも大きく貢献するところとなった。
     1954年、全国発明表彰「朝日新聞発明賞」(杉浦睦夫 外)、2011年、同「内閣総理大臣発明賞」(中坪寿雄 外)等受賞。
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  •  フェライトとは鉄を主成分とする酸化物磁性材料である。フェライトで作ったコア(磁心)をコイルの中に入れると、強磁性と優れた絶縁性を示すものである。1929年東京工業大学の加藤与五郎、武井武両博士によって発明され、東京電気化学工業(現TDK)によって事業化された。
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     フェライトとは鉄を主成分とする酸化物磁性材料である。フェライトで作ったコア(磁心)をコイルの中に入れると、強磁性と優れた絶縁性を示すものである。1929年東京工業大学の加藤与五郎、武井武両博士によって発明され、東京電気化学工業(現TDK)によって事業化された。
     戦後フェライトはその可能性を大きく開花させ、日本の電気電子産業の発展に欠かせない部材となる。1950年代の無線通信機やラジオのアンテナコアからブラウン管の電子ビームの制御、1960年代から70年代にかけてはテープレコーダ、VTR、フロッピーディスクドライブの装置用磁気ヘッド、そして、記録メディアである磁気テープそのものの中心素材となった。
     2009年、「IEEE マイルストーン」に選定された。
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  •  ファスナーは衣料品をはじめ、カバン、靴、漁網など様々な分野で用いられている。確実な包装や自由度の高いファッションを実現する上で、今日では人々の生活にとって無くてはならない製品である。
     吉田工業(現YKK)の創業者吉田忠雄は、終戦直後から工場焼失等の苦難を乗り越え...
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     ファスナーは衣料品をはじめ、カバン、靴、漁網など様々な分野で用いられている。確実な包装や自由度の高いファッションを実現する上で、今日では人々の生活にとって無くてはならない製品である。
     吉田工業(現YKK)の創業者吉田忠雄は、終戦直後から工場焼失等の苦難を乗り越えて、ファスナー製作の中核的な機械である独自のチェーンマシンやスライダー連続加工装置などを自社で開発し、原料の調達から生産までを一元的に一つの企業内で担う一貫生産思想により、生産コストの最適化及びスループットの最適化を達成した。これにより高品質かつ低価格のファスナー生産を実現し、グローバル規模に事業を拡大させていった。現在YKKの事業活動は世界71カ国に及んでいる。
     1959年、大河内賞「大河内記念賞」、1960年、全国発明表彰「通商産業大臣発明賞」(吉田忠雄)など受賞。
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  •  銑鋼一貫製鉄所とは、製銑、製鋼、鋳造・圧延を一貫してもつ製鉄所のことである。戦後、占領軍によって賠償対象とされていた国策会社日本製鉄の工場は、東西対立とともに1950年広畑製鉄所の操業が認められたが、同時に純粋民間企業である富士製鉄と八幡製鐵に分割された。それは日本製鉄から安定...
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     銑鋼一貫製鉄所とは、製銑、製鋼、鋳造・圧延を一貫してもつ製鉄所のことである。戦後、占領軍によって賠償対象とされていた国策会社日本製鉄の工場は、東西対立とともに1950年広畑製鉄所の操業が認められたが、同時に純粋民間企業である富士製鉄と八幡製鐵に分割された。それは日本製鉄から安定的に銑鉄を供給されていた平炉メーカーの在り方をも問うものとなった。
     平炉メーカーであった川崎製鉄の西山彌太郎は、1950年、銑鉄から圧延までの一貫した工程を有する千葉製鉄所の建設を公表した。当時の川崎製鉄の資本金は5億円、建設予定額は163億円であった。各方面の反対を受けつつも西山は世界銀行等からの融資獲得に成功した。千葉製鉄所は、世界最先端の設備や技術を採用した近代的臨海型銑鋼一貫製鉄所となった。そして、借入金を主体にした巨大な設備投資を、規模の経済を追求することによって回収するビジネスモデルの先駆けとなった。
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  •  1955年、東京芝浦電気(現東芝)から発売された電気炊飯器ER-4は、四季があり気候環境も多様な日本において、全国いつでも手軽に安定した品質のご飯を炊き上げることを可能とした。
     その開発には、東芝の関連会社であった光伸社(現サンコーシヤ)の三並義忠とその家族等に...
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     1955年、東京芝浦電気(現東芝)から発売された電気炊飯器ER-4は、四季があり気候環境も多様な日本において、全国いつでも手軽に安定した品質のご飯を炊き上げることを可能とした。
     その開発には、東芝の関連会社であった光伸社(現サンコーシヤ)の三並義忠とその家族等による挑戦と努力の歴史があった。さらに、東芝の技術者のサポートを得て様々な課題をクリアし、販売が開始されてからは東芝営業部による農村を含む日本各地での実地販売が推進された。このER-4の革新性は「自動式」であったことと、炊事の負担を大幅に軽減したことから、人々の生活様式を一変させて〝台所革命〟とも呼び得るものとなった。 他社も次々と新製品を開発し、販売から5年後の1960年には、世帯保有率28%に達し、16年後には90%に達している。自動式電気炊飯器は、現在ではアジアにおいても広く利用されている。
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  •  1950年代初め、東京通信工業(現ソニー)の井深大や盛田昭夫は、開発されたばかりのトランジスタを使った挑戦的な課題を模索していた。発明当初のトランジスタ半導体は、ラジオに使用するには技術面で多くの問題があり、また、当時、日本のラジオの世帯普及率は74%にまで達し、成熟市場である...
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     1950年代初め、東京通信工業(現ソニー)の井深大や盛田昭夫は、開発されたばかりのトランジスタを使った挑戦的な課題を模索していた。発明当初のトランジスタ半導体は、ラジオに使用するには技術面で多くの問題があり、また、当時、日本のラジオの世帯普及率は74%にまで達し、成熟市場であると思われていた。
     1952年、同社は社運を賭してトランジスタラジオの開発・製造に取り組んだ。当時のソニーは創業7年目、従業員数269名のベンチャー企業であった。
     1955年、「SONY」の商標を冠した日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売し、さらに当時世界最小のラジオとなる「TR-63」の開発に成功した。「TR-63」は米国市場でも成功し、「ポケッタブル・ラジオ」の名を世界中に広めた。そして、トランジスタの実用化は、電子製品の小型化の地平を開いたのである。
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  •  コシヒカリは、2012年現在、日本の水稲作付面積の37.5%を占め、北海道と青森県を除く都府県で栽培されている。
     コシヒカリの育成は、1944年新潟県農事試験場(現新潟県農業総合研究所)長岡実験場での農林22号と農林1号の交配により始まる。交配により得られた雑種...
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     コシヒカリは、2012年現在、日本の水稲作付面積の37.5%を占め、北海道と青森県を除く都府県で栽培されている。
     コシヒカリの育成は、1944年新潟県農事試験場(現新潟県農業総合研究所)長岡実験場での農林22号と農林1号の交配により始まる。交配により得られた雑種第1代は、戦争による一時的な中断を経て、1948年から福井農事改良所(現福井県農業試験場)に引き継がれ、育成が再開された。育成者石墨慶一郎などにより選抜された「越南17号」は、その後全国で適応性試験が行われ、1956年に新潟県と千葉県が奨励品種に指定された後、福井県・新潟県により「コシヒカリ」と命名されたものである。
     コシヒカリは、耐冷性が強くその優れた食感もあって1979年から2013年まで35年間にわたって作付面積第1位を続けており、東南アジアを中心に海外でも栽培されるに至っている。
     1993年、「農林水産試験研究一世紀記念功績農林水産大臣賞」を受賞。
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  •  1958年、白石義明によってベルトコンベア上に寿司を乗せて提供するスタイルの店舗が大阪にオープンした。さらに大阪万博への出店で、全国的な知名度を確立した。1980年代に入ると多くの企業がこのビジネスに参入し、新たな技術開発や全国的チェーン展開によるビジネスモデルの開拓によって、...
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     1958年、白石義明によってベルトコンベア上に寿司を乗せて提供するスタイルの店舗が大阪にオープンした。さらに大阪万博への出店で、全国的な知名度を確立した。1980年代に入ると多くの企業がこのビジネスに参入し、新たな技術開発や全国的チェーン展開によるビジネスモデルの開拓によって、高級感の強かった寿司は、日本を代表するファーストフードへと変化していった。また、チェーン展開の活発化により、食材の流通にも大きな影響を与えるところとなった。
     回転寿司のビジネスモデルは、世界中に普及しつつある。寿司の内容も和食食材に限らずローカライズされた食材を使った寿司が地元資本等によって多数生み出されている。日本の大手回転寿司チェーンも海外進出を展開中であり、寿司は世界のファーストフードになりつつある。
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  •  「公文式教育法」は、高校の数学教師であった公文公(くもん とおる)が長男のために1954年に始めた学習指導法が原型となっている。
     1955年、第1号教室が開設されて以降、独自の教材と教育運営ノウハウをフランチャイズ方式で提供することにより、その規模を急速に拡大し...
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     「公文式教育法」は、高校の数学教師であった公文公(くもん とおる)が長男のために1954年に始めた学習指導法が原型となっている。
     1955年、第1号教室が開設されて以降、独自の教材と教育運営ノウハウをフランチャイズ方式で提供することにより、その規模を急速に拡大してきた。
     公文式教育法は、①自学自習、②学習内容の絞り込み、③生徒の能力・進度に合わせた教育、の3点を主な特徴としている。教材は、指導者の経験の有無にあまり左右されず、ほぼ均一な質の教育サービスを受けられるように公文が原型を作成した。高度に標準化・細分化され、進む幅は小さく「スモールステップ」となっている。また、「自学自習」が可能なように例題を活用するよう作成されており、自分の学力に適した「ちょうどの学習」からスタートし、教えずに「気づかせる」指導法に適した教材となっている。
     2013年3月現在、全世界を対象に48カ国・地域にフランチャイズ展開しており、400万人以上の学習者を擁するまでになっている。
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  •  高度経済成長が開始された1955年前後において、自動車の所有は一般庶民にとっては高嶺の花であった。その夢を現実へと近づけたのが「スバル360」をはじめとする日本の小型(軽)自動車の開発であった。
     政府は自動車産業の振興のため、小型自動車より小さな軽自動車の規格を...
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     高度経済成長が開始された1955年前後において、自動車の所有は一般庶民にとっては高嶺の花であった。その夢を現実へと近づけたのが「スバル360」をはじめとする日本の小型(軽)自動車の開発であった。
     政府は自動車産業の振興のため、小型自動車より小さな軽自動車の規格を定めるとともに、国民車育成の支援策をも構築していた。富士重工業は戦前戦中航空機メーカーとしての技術を有し、戦後はスクーターやバスの製造で実績を上げていた。富士重工業はリーダー百瀬晋六の下、「360ccのエンジンで日本のあらゆる道路を時速60km、4人乗りで走れる車の開発」という大胆な目標に挑戦し、1958年「スバル360」を開発した。同車は「テントウムシ」の愛称で広く人気を博し、各社の競争は優れた小型(軽)自動車を次々と市場に送り出すところとなった。
     現在、日本の小型自動車は世界に展開し、とりわけインドにおけるスズキの活躍に見られるように新興国でその存在感を示している。
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  •  1958年に発売された「チキンラーメン」は、日清食品の創業者である安藤百福が自宅の庭に建てたわずか10平方メートル足らずの研究小屋から生み出した商品である。インスタントラーメンという新しい市場を創出し、そのたゆまぬ熱意とベンチャー精神によって、インスタントラーメンは今や世界中で...
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     1958年に発売された「チキンラーメン」は、日清食品の創業者である安藤百福が自宅の庭に建てたわずか10平方メートル足らずの研究小屋から生み出した商品である。インスタントラーメンという新しい市場を創出し、そのたゆまぬ熱意とベンチャー精神によって、インスタントラーメンは今や世界中で最もポピュラーな即席食品の一つとなり、2013年には世界全体で約1055億食が消費されている。
     1971年には、カップヌードルも同氏によって開発・発売され、国際市場に飛躍的に広まっていった。
     同氏の死去に際し、米国ニューヨークタイムズ紙は、2007年1月27日の社説で、「インスタントラーメンの発明により、安藤氏は人類の進歩の殿堂において、永遠の居場所を占めた」と讃えている。
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  •  スーパーカブは、1958年に本田技研工業から発売された排気量50ccのオートバイである。
     スーパーカブ以前の自動二輪車の主流は補助エンジン付き自転車であった。スーパーカブは50ccながら4ストロークエンジンを搭載した小型オートバイで、4ストロークを採用したことに...
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     スーパーカブは、1958年に本田技研工業から発売された排気量50ccのオートバイである。
     スーパーカブ以前の自動二輪車の主流は補助エンジン付き自転車であった。スーパーカブは50ccながら4ストロークエンジンを搭載した小型オートバイで、4ストロークを採用したことにより高回転・高出力型でありながら、実用車として使いやすい特性を与え、燃費の良さも兼ね備えるものとなった。さらに、誰もが気軽に乗れることを徹底的に追求した操作性とデザイン性は人気を博し、オートバイは一般市民や小規模小売店の配達用の乗り物として定着した。
     スーパーカブの登場は、新しいタイプのオートバイのジャンルを誕生させたとともに、それまでの補助エンジン付き自転車を市場から退場させた。
     2013年9月末時点では、その累計販売台数は8500万台に達した。スーパーカブは今も基本的デザインは変わらないまま世界の160カ国以上で販売され続けている。
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  •  工作機械の中でも「工具と工作物の相対運動を、位置、速度などの数値情報によって制御し、加工に関わる一連の動作をプログラムした指令によって実行する工作機械」がNC(数値制御)工作機械である。このNC装置の開発は、1949年にジョン・T・パーソンズがマサチューセッツ工科大学との共同研...
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     工作機械の中でも「工具と工作物の相対運動を、位置、速度などの数値情報によって制御し、加工に関わる一連の動作をプログラムした指令によって実行する工作機械」がNC(数値制御)工作機械である。このNC装置の開発は、1949年にジョン・T・パーソンズがマサチューセッツ工科大学との共同研究で行ったのが最初である。 
     富士通信機製造(現 ファナック)で制御プロジェクトを担当していた稲葉清右衛門は、上記の成果を知ると、研究対象を数値制御に重点化してその実用化に取り組み、1959年、日本のNC化の進展を決定づけたふたつの要素技術を生み出した。「電気・油圧パルスモータ」と東京大学の元岡達らとの共同研究によって開発された「代数演算式パルス補間回路」である。
     さらに、1972年ファナックは、世界初のコンピュータを内蔵したNC装置(CNC)FANUC250を開発し、同一工作機械で多様な機能が発揮できる時代を切り開き、石油危機後には機械部門の省エネ化を決定づけた電動式DCサーボモータの開発を行って油圧式からの転換に成功した。1982年以降、わが国工作機械は世界最大の生産額を維持している。
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  • 戦後音楽教育の在り方が問われる中で、1954年4月、日本楽器製造(現ヤマハ)東京支店の地下に、ヤマハ音楽教室の前身となる「実験教室」が立ち上がった。それまでの専門家を育成することを主眼にした教育から、ヤマハは、純粋に音楽を楽しむことのできる人を育てるための教育システムの確立を目指...
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    戦後音楽教育の在り方が問われる中で、1954年4月、日本楽器製造(現ヤマハ)東京支店の地下に、ヤマハ音楽教室の前身となる「実験教室」が立ち上がった。それまでの専門家を育成することを主眼にした教育から、ヤマハは、純粋に音楽を楽しむことのできる人を育てるための教育システムの確立を目指したのである。
     生徒数150名からスタートした「実験教室」は、1959年に「ヤマハ音楽教室」へと名称を改め、1963年には、生徒数20万、会場数4900、講師2400名を数える一大組織へと成長を遂げた。①総合音楽教育、②適期教育、③グループレッスンの3つの考え方を柱として海外でもこの方針を貫き、1964年6月には、ロサンゼルス近郊に海外初のヤマハ音楽教室も開設された。
     現在では世界40以上の国と地域で、約65万人の子どもたちが学んでいる。ヤマハ音楽教室を卒業した生徒数は、全世界で500万人を超えるまでになっている。
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  •  樹木の接ぎ木は古代エジプトの時代から存在したが、野菜栽培での接ぎ木栽培は、日本で開発された技術である。野菜の多くは連作ができない。狭い国土で狭隘な平野しかない日本では、連作を行うには大量の農薬を投与するなどの手段を取らざるを得なかった。接ぎ木はこうした措置をとらずとも栽培を可能...
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     樹木の接ぎ木は古代エジプトの時代から存在したが、野菜栽培での接ぎ木栽培は、日本で開発された技術である。野菜の多くは連作ができない。狭い国土で狭隘な平野しかない日本では、連作を行うには大量の農薬を投与するなどの手段を取らざるを得なかった。接ぎ木はこうした措置をとらずとも栽培を可能とするため、早くから多くの研究者や農家が取り組み、戦前、既にスイカではその技術が開発されていた。戦後に入り全国各地で様々な野菜においてもその開発への試みがなされるようになった。特に昭和30年代に入ると、ナス、トマト、ピーマン、キュウリ、メロン等で新たな接ぎ木栽培技術が開発され、挿し接ぎ、呼び接ぎ、寄せ接ぎ、ピン接ぎなど、様々な接ぎ木方法が開発されるとともに、自動接ぎ木装置が、農業機械化研究所や企業によって開発され、大量の接ぎ木が安価に供給できるようになった。
     2009年産のスイカ、キュウリ、メロン、ニガウリ、トマト、ナス、ピーマン、トウガラシ、カラーピーマンの栽培面積のうち、約68%で接ぎ木栽培が行われている。
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  •  かつて、列車の座席予約は電話連絡をベースにした駅ないし旅行会社との台帳による管理で行われ、旅行者へ迅速に結果を出すことができなかった。日本国有鉄道(現 JR)と日立製作所は、コンピュータの導入による自動化の研究を進め、1960年、列車座席用としては世界初となる画期的なオンライン...
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     かつて、列車の座席予約は電話連絡をベースにした駅ないし旅行会社との台帳による管理で行われ、旅行者へ迅速に結果を出すことができなかった。日本国有鉄道(現 JR)と日立製作所は、コンピュータの導入による自動化の研究を進め、1960年、列車座席用としては世界初となる画期的なオンライン予約システムMARS1を東京駅に導入し、在来線特急列車「こだま」、「つばめ」を対象に試行的に運用し成功を収めた。国鉄は更にオンライン・リアルタイムシステムの開発を進め、1964年には後継のMARS101の稼働を開始し、現代につながる全国一括した予約管理システムを構築し、業務の合理化と顧客の利便性向上に大きな足跡を残した。
     また、この成功は、メインフレームと端末をつなぐ大規模オンラインシステムの利便性を示す大きな一歩となった。現在のMARS501に至るまで、MARS システムは、新幹線座席への対応、白紙ダイヤ改正への対応など、時代の要請に合わせた段階的・継続的な進化を遂げ、我が国の鉄道システムを支えている。
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  •  リンゴ「ふじ」は青森県藤崎町にあった農林省園芸試験場東北支場で行われた網羅的品種の交配により得られた4656個体から得られた「国光」のめしべと「デリシャス」の花粉の組合せから生まれたもので、1962年に「ふじ」と命名された。当初から優れた食味と貯蔵性を有していたが、色つきや果実...
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     リンゴ「ふじ」は青森県藤崎町にあった農林省園芸試験場東北支場で行われた網羅的品種の交配により得られた4656個体から得られた「国光」のめしべと「デリシャス」の花粉の組合せから生まれたもので、1962年に「ふじ」と命名された。当初から優れた食味と貯蔵性を有していたが、色つきや果実の割れやすさなどの問題があった。当時の園芸部長であった森英男は精農家の斉藤昌美や対馬竹五郎らにこれを是正する性能を引き出すための試作栽培を依頼した。斉藤等は袋かけなどの栽培方法を採用することにより、色づきもよく貯蔵性も優れた品種へと育てていった。
     1963年以降、従来のリンゴがバナナの輸入自由化や生産過剰により価格が暴落する中で、「ふじ」が日本を代表する新たな品種となった。
     「ふじ」は現在、国内にとどまらず多くの国で栽培されており、世界のリンゴ生産量の20%を超える世界で最も多く生産されるリンゴとなっている。
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  •  1963年、漫画『鉄腕アトム』の原作者手塚治虫は、彼が設立した虫プロダクションで『鉄腕アトム』をアニメ化し、日本で最初の30分枠のテレビ放映に取り組んだ。この際、それまでのアニメーションがフルモーションで製作されていたのに対し、制作コストを引き下げるために、コマ数を減らし、止め...
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     1963年、漫画『鉄腕アトム』の原作者手塚治虫は、彼が設立した虫プロダクションで『鉄腕アトム』をアニメ化し、日本で最初の30分枠のテレビ放映に取り組んだ。この際、それまでのアニメーションがフルモーションで製作されていたのに対し、制作コストを引き下げるために、コマ数を減らし、止め絵を採用するなどの工夫をこらし、また、制作費の捻出のため、キャラクターグッズの販売など数々の版権ビジネスも展開した。
     テレビ放映は大成功を収め、低コストのアニメは、国内だけでなく、海外でも広く受け入られ、海外に日本文化を普及させるさきがけとなった。この成功は、後の劇場用のアニメ、ゲームソフトの制作にも大きな影響を与えるところとなった。
     アニメ及びマンガは、いわゆる「クール・ジャパン」を代表するものとなり、「Manga」、「Anime」は国際語となった。その中で現在は新たなビジネスモデルが追及されている。
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  •  1960年代、日本の天然皮革需要は2倍に増大したが天然皮革は3分の2を輸入に頼り、価格は食肉需要に左右され極めて変動的であった。
     「クラリーノ」は、1964年に倉敷レイヨン(現クラレ)が開発した人工皮革である。通常の繊維の数千分の一という極細繊維の束を作る技術を...
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     1960年代、日本の天然皮革需要は2倍に増大したが天然皮革は3分の2を輸入に頼り、価格は食肉需要に左右され極めて変動的であった。
     「クラリーノ」は、1964年に倉敷レイヨン(現クラレ)が開発した人工皮革である。通常の繊維の数千分の一という極細繊維の束を作る技術を開発し、靴、ランドセル、スポーツ用品など様々な分野で用途を拡大し、人工皮革のパイオニアとなった。
     「エクセーヌ」は、東レが1970年に商品化した世界初の超極細繊維製スエード調の人工皮革である。東レが開発した超極細繊維技術と人工皮革技術が組み合わさって生まれたもので、衣料、スポーツ、資材、雑貨、工業用など、幅広い用途に用いられている。欧州では「アルカンターラ」というブランド名で製造販売されている。
     クラレは1972年、日本化学会「化学技術賞」等を受賞。東レは1979年、全国発明表彰「内閣総理大臣発明賞」(岡本三宜)、2001年、「レオナルド賞」(岡本三宜)等を受賞。
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  •  新幹線は、日本国有鉄道が1964年10月1日に営業運転を開始した世界で初の高速都市間鉄道システムである。
     高密度・大量輸送性、正確な運行スケジュール、高い安全性は鉄道の利便性を一段と高め、それまでのビジネスや旅行の移動の概念を変え、世界に高速鉄道時代をもたらすこ...
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     新幹線は、日本国有鉄道が1964年10月1日に営業運転を開始した世界で初の高速都市間鉄道システムである。
     高密度・大量輸送性、正確な運行スケジュール、高い安全性は鉄道の利便性を一段と高め、それまでのビジネスや旅行の移動の概念を変え、世界に高速鉄道時代をもたらすこととなった。東海道からスタートしたルートは、現在全国に展開されつつあり、我が国の経済活動を支える大動脈となった。
     新幹線の成功は、鉄道による都市間高速輸送システムの有効性を、国内だけでなく世界的にも再評価させるものとなり、フランスやドイツをはじめとする高速鉄道網の実現を促すものとなった。
     1999年、「東海道新幹線」が「IEEEマイルストーン」に選定された。
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  •  かつて計算器具は、熟練を要するそろばんや計算尺が代表的なものであった。電卓は、これを誰でもできる簡便な機器とし、かつ半導体産業や液晶産業の発展に大きな影響を与えている。
     1964年、早川電機工業(現シャープ)が演算素子にトランジスタを使った計算機を開発し、販売を...
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     かつて計算器具は、熟練を要するそろばんや計算尺が代表的なものであった。電卓は、これを誰でもできる簡便な機器とし、かつ半導体産業や液晶産業の発展に大きな影響を与えている。
     1964年、早川電機工業(現シャープ)が演算素子にトランジスタを使った計算機を開発し、販売を開始した。これが世界初の電卓とされる。その後、我が国を中心として電卓の激しい開発競争が繰り広げられ、小型軽量化と低価格化が進んだ。これに伴い、使われる素子もトランジスタからIC、そしてLSIへと進化した。
     1972年にカシオ計算機が発売した「カシオミニ」は、驚異的な低価格と小さなサイズから、電卓を個人や家庭にも普及させる画期的な商品となった。シャープは、1973年に液晶を使用した電卓を開発し、更なる薄型化への道を切り開いた。電卓は究極的に0.8ミリにまで薄くなり、生産台数は、1985年にピークの8600万台を記録した。
     「日本半導体イノベーション50選」、2005年「IEEE マイルストーン」(シャープ)などに選定された。
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  •  電子レンジは、1940年代半ばに米国のレイセオン社で開発されたが、高価格のため一般には普及しなかった。
     日本では1958年に新日本無線が小型で安価なマイクロトロンを開発したのを契機に、60年代に入ると相次いで家電メーカーが製造を開始し、東芝が開発した電子レンジは...
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     電子レンジは、1940年代半ばに米国のレイセオン社で開発されたが、高価格のため一般には普及しなかった。
     日本では1958年に新日本無線が小型で安価なマイクロトロンを開発したのを契機に、60年代に入ると相次いで家電メーカーが製造を開始し、東芝が開発した電子レンジは新幹線に搭載されるなどして注目を集め、まず業務用として使用されるところとなった。
     1965年には松下電器産業(現 パナソニック)によって家庭用電子レンジが開発販売され、操作の手軽さもあり急速に普及していった。その後もターンテーブルや扉の横開き方式の開発、さらにはオーブン機能の追加などにより、70年代後半には米国でも人気が高まり販売品の大多数が日本製品で占められるまでになった。
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  •  田植えと刈取脱穀は古来農民にとり重労働の最たるものであった。田植機の発明は、長野県の農業試験場技師であった松田順次が室内育苗(箱育苗)法を開発したことにより可能となった。〝田植えの苗は成苗〟という当時の常識を破り、育苗箱で育てた稚苗は軽量で斉一で機械化に適した。これを用いた田植...
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     田植えと刈取脱穀は古来農民にとり重労働の最たるものであった。田植機の発明は、長野県の農業試験場技師であった松田順次が室内育苗(箱育苗)法を開発したことにより可能となった。〝田植えの苗は成苗〟という当時の常識を破り、育苗箱で育てた稚苗は軽量で斉一で機械化に適した。これを用いた田植機を発明したのは、農業には無縁の一技術者関口正夫であった。一方、自脱型コンバインの開発には、先行する欧米由来の改良案と我が国独自のそれを新規に開発すべきとの意見が並立した。前者の意見が多数を占める中で自脱型を選択したのは農家であった。麦と違い、ジャポニカ稲は脱粒しにくい。機械化第一号試作機は農林省農事試験場(当時)の狩野秀男らによってなされ、やがて全国の技術者の知恵を集め、数々の技術革新が加わっていった。
     この2つの発明は、農村労働力の都市集中を進め、高度経済成長を支える柱となった。
     1969年、全国発明表彰「発明賞」(関口正夫 ※カンリウ工業)、1970年、同「発明賞」(井浦忠 ※井関農機)
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  •  コンデンサはエレクトロニクス産業に不可欠な基本電子部品であり、現在ではスマートフォンをはじめとした小型・薄型のICT機器、一般家電製品、自動車、医療・ヘルスケアなどあらゆる分野で積層セラミックコンデンサが主流となっている。
     セラミックコンデンサの最初の開発は米国...
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     コンデンサはエレクトロニクス産業に不可欠な基本電子部品であり、現在ではスマートフォンをはじめとした小型・薄型のICT機器、一般家電製品、自動車、医療・ヘルスケアなどあらゆる分野で積層セラミックコンデンサが主流となっている。
     セラミックコンデンサの最初の開発は米国で、戦後も長らくその競争力は強固であった。1970年代に入り、米国でコンデンサの能力を飛躍的に高める表面実装化と誘電体の積層化技術が開発されたが、生産の歩留まりが低く量産化には成功しなかった。
     一方、日本企業は、ユーザー企業との協業化によって量産化とそれに伴うコストダウンに成功した。1977年に発売された「ペッパーラジオ」(松下電器産業)には、積層チップセラミックコンデンサが搭載され大ヒット商品となった。
     1990年代に入ると、日系企業は安価で信頼性の高いニッケル内部電極の開発に成功するとともに、顧客企業との協業型ビジネスモデルの進化により、欧米ライバル企業に対する圧倒的優位性を獲得し、現在、積層セラミックコンデンサ市場の生産は、日系企業の村田製作所、TDK、京セラ及び太陽誘電の3社で6割以上のシェアを占めている。
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  •  2012年、日本のカラオケの参加人口は4680万人、市場規模は6146億円と推計されている。
     カラオケ産業は、我が国の優れた音響技術、映像記録・再生技術、情報処理技術、通信技術等の技術力を背景とし、その進歩に即したビジネスモデルの展開によって成長してきた。カラオ...
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     2012年、日本のカラオケの参加人口は4680万人、市場規模は6146億円と推計されている。
     カラオケ産業は、我が国の優れた音響技術、映像記録・再生技術、情報処理技術、通信技術等の技術力を背景とし、その進歩に即したビジネスモデルの展開によって成長してきた。カラオケ機器の発明、カラオケボックスの誕生、伴奏データのデジタル化とネットワーク化による通信カラオケへの転換等である。
     カラオケ産業が社会に与えた影響は多岐にわたり、老若男女問わず国民が日常的に歌を歌う機会を増やし、音楽市場の裾野を拡大した。
     日本で始まった“KARAOKE”は、いまや世界共通語となり、各国に進出している。近隣諸国では、日本に似たシステムのカラオケ文化が定着している。また、欧米はじめ世界の多くの国・地域でカラオケは人気を博している。
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  •  1960年代、大都市圏の通勤ラッシュは大きな社会問題となっていた。このような状況を救ったのが自動改札システムである。
     1964年2月、近畿日本鉄道と大阪大学は、自動改札機開発のため大阪大学によるグラフ理論的手法をもとに共同研究を開始した。同年9月からは、立石電機...
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     1960年代、大都市圏の通勤ラッシュは大きな社会問題となっていた。このような状況を救ったのが自動改札システムである。
     1964年2月、近畿日本鉄道と大阪大学は、自動改札機開発のため大阪大学によるグラフ理論的手法をもとに共同研究を開始した。同年9月からは、立石電機(現オムロン)も参加し、1965年から試作機を製作、実証実験を開始した。上記実験を受けて、立石電機は1966年からは阪急電鉄との共同研究を開始し、1967年、大阪万博を控えた阪急電鉄北千里駅に初めて実用機が導入された。
     自動改札の技術はその後も格別の進歩を続けている。現在の日本の自動改札システムでは、ICカードの採用をはじめとして、利便性は更に向上し続けている。
     2007年、「IEEEマイルストーン」に選定された。
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  •  現在、日本にも数多くの高層ビルが林立しているが、1960年代以前の建物の高さは100尺、すなわち31メートルまでに制限されていた。
     東京大学の武藤清らは、それまでも論じられていた柔構造理論を具現化し、壁に弾力性のある部分を設ける工法を開発した。この工法を基に東京...
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     現在、日本にも数多くの高層ビルが林立しているが、1960年代以前の建物の高さは100尺、すなわち31メートルまでに制限されていた。
     東京大学の武藤清らは、それまでも論じられていた柔構造理論を具現化し、壁に弾力性のある部分を設ける工法を開発した。この工法を基に東京霞が関に日本初となる本格的高層ビル(霞が関ビルディング)の設計計画が提起されたのである。
     柔構造理論による超高層建築の実現には、新しい材料や工法の開発、強風への対処、建設コストの増大等の問題に対し、生産工程のパターン化や部品の工場生産、材料の標準化など、科学的生産管理を推進した。同時にH形鋼の適用、タワークレーンのクライミング工法の開発を実現し、その後の建築業を近代産業化することに貢献するものとなった。
     1980年、全国発明表彰「恩賜発明賞」(武藤清 外)など受賞。
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  •  日本の近代郵便制度は創設以来、長らく手作業による手紙の区分が行われてきた。経済成長とともに郵便物の量は急拡大し、配達の遅延が発生するようになった。
    1964年、郵政審議会は長期的な年次計画による機械化の推進プロジェクトを行うこと、また、郵便番号制度を導入することを...
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     日本の近代郵便制度は創設以来、長らく手作業による手紙の区分が行われてきた。経済成長とともに郵便物の量は急拡大し、配達の遅延が発生するようになった。
    1964年、郵政審議会は長期的な年次計画による機械化の推進プロジェクトを行うこと、また、郵便番号制度を導入することを答申した。日本電気、東芝は、郵政省(当時)とともに自動処理のための開発を進め、日本電気は、1966年度より大宮局による実験を開始し、また東芝は、1967年に世界初の手書き文字読取試作機等を開発し、1968年には読取区分機を同年7月の郵便番号制度開始時に東京中央郵便局に設置した。
     1989年には住所の全てを光学読み取りによって自動認識できるようになり、現在では引受局における配達人単位への自動区分も行う事ができるまでになっている。
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  •  ヤクルトの創始者である医学博士の代田稔は、1930年に胃液や胆汁などの消化液に負けずに生きたまま腸内に到達して有益な作用を発揮する乳酸菌「ラクトバチルス カゼイ シロタ株」の強化培養に成功した。代田はこの乳酸菌を一人でも多くの人の健康に役立ててもらうため、有志とともに製品化し、...
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     ヤクルトの創始者である医学博士の代田稔は、1930年に胃液や胆汁などの消化液に負けずに生きたまま腸内に到達して有益な作用を発揮する乳酸菌「ラクトバチルス カゼイ シロタ株」の強化培養に成功した。代田はこの乳酸菌を一人でも多くの人の健康に役立ててもらうため、有志とともに製品化し、1935年に「ヤクルト」の商標で発売した。
     1963年にはいわゆるヤクルトレディによる販売システム「婦人販売店システム」がスタートし、1968年にはそれまでのガラス瓶にかわり特徴的なデザインのプラスチック容器を導入した。プラスチック容器は、軽くて回収の手間がかからないため、ヤクルトレディの労働環境を大きく変えた。労力の低減のみならず、空容器の回収にかかる時間を本来の“ヤクルトの普及”に振り向ける効果をもたらし、販売実績も大きく伸長した。
     日本で生まれた「ヤクルト」は、今や世界の多くの国と地域で親しまれるようになり、現在、「ヤクルト」をはじめとする乳製品は、日本を含めて世界33の国と地域で、毎日約3500万本が愛飲されている。
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  •  レトルト食品は、1958年、米国で軍隊用として開発され、アポロ計画などでも採用されたものであるが、米国市場では民生用として普及しなかった。
     1968年、大塚食品工業(当時)は市販用としては世界初のレトルトカレーを発売したが、輸送中の損傷や賞味期限の短さなどから阪...
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     レトルト食品は、1958年、米国で軍隊用として開発され、アポロ計画などでも採用されたものであるが、米国市場では民生用として普及しなかった。
     1968年、大塚食品工業(当時)は市販用としては世界初のレトルトカレーを発売したが、輸送中の損傷や賞味期限の短さなどから阪神地区に限定しての発売となった。一方、東洋製罐では米国の会社との技術提携により3層遮光性パウチを開発したが、大塚食品工業はこれを両社で改良することとし、1969年、従前に比し強度を増し賞味期限も大幅に長期化したレトルト食品「ボンカレー」を発売した。また東洋自動機の給袋式充塡機によって、難しかった液体のカレーの包装も大量生産化が可能となった。
     大塚食品工業は、この商品への経営資源の集中的な投下を進め、看板は営業マンによって全国に展開され、また印象的なテレビCM等の効果と相まって「ボンカレー」は大ヒット商品となった。この成功によりレトルト食品市場が形成され、アジアを中心に国際的な展開も進むこととなった。
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  •  天然ガスは、都市ガス燃料源として古くから注目されていた。しかし、それを液化したLNGは、その取扱い上の困難性や海上輸送の安全性が確保されなかったことから、1950年代においても国際取引商品として扱われることは極めて少なかった。
     一方、高度経済成長期にあって、都市...
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     天然ガスは、都市ガス燃料源として古くから注目されていた。しかし、それを液化したLNGは、その取扱い上の困難性や海上輸送の安全性が確保されなかったことから、1950年代においても国際取引商品として扱われることは極めて少なかった。
     一方、高度経済成長期にあって、都市ガス需要の増大に直面していたガス業界と公害問題から火力発電の立地難に直面していた電力業界は石炭、重油に代わる新たな燃料の確保が必要となっていた。
     東京ガスは、12年の歳月をかけてLNGの導入を決断し、東京電力は、東京ガスの呼びかけに応じ、これを共同事業とすることで世界初のLNG発電を実現した。1969年11月アラスカから日本へのLNG輸入が初めて実現した。
     このプロジェクトの成功により、LNGは全国のガス事業、電力事業に導入されていった。さらに海外諸国の輸入も活発化し、いまやLNGはスポット市場も成立するほどの国際商品になった。
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  •  クオーツ腕時計とは、水晶に電圧を加えた際に発生する振動を利用した水晶(クオーツ)振動子を基幹部品とした腕時計である。1969年にセイコーが開発に成功し、世界で初めて発売した。
     水晶時計を腕時計サイズで実現するには消費電力を従来の1000万分の1である10μ...
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     クオーツ腕時計とは、水晶に電圧を加えた際に発生する振動を利用した水晶(クオーツ)振動子を基幹部品とした腕時計である。1969年にセイコーが開発に成功し、世界で初めて発売した。
     水晶時計を腕時計サイズで実現するには消費電力を従来の1000万分の1である10μWにまで省電力化する必要があった。1964年の東京オリンピックで、セイコーグループは様々な計測を公式計時として担当し、それらを総合的にクオーツをベースとする電子計時を導入することに成功した。東京オリンピック以後、より小型の水晶振動子、分周回路のIC化、そして小型モーターの開発を行って腕時計サイズにまで小型化したのである。
     これによって腕時計産業は熟練職人による手工業から大量生産システムへと移行し、高級品であった時計は、誰もが持つことのできる日常品となった。
     2004年、「IEEEマイルストーン」(セイコー クオーツ アストロン35SQ)に選定された。
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  •  日本のテレビ開発は1926年に浜松高等工業学校(現静岡大学)の高柳健次郎が世界初のブラウン管を用いたテレビ実験に成功したことに始まる。しかし、戦中戦後のほぼ10年にわたる実験中断時代が訪れる。
     実験再開は1950年、その前後から日本の電機メーカーは進んだ海外の技...
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     日本のテレビ開発は1926年に浜松高等工業学校(現静岡大学)の高柳健次郎が世界初のブラウン管を用いたテレビ実験に成功したことに始まる。しかし、戦中戦後のほぼ10年にわたる実験中断時代が訪れる。
     実験再開は1950年、その前後から日本の電機メーカーは進んだ海外の技術を取り入れ、それに改良を加えて競争力を確保していった。
     白黒テレビに続くカラーテレビの時代には、輝度の改善、広角化、真空管からトランジスタ、ICへの駆動装置の高度化等が技術的な競争の焦点となった。日本メーカーは、トランジスタに続くIC化を積極的に推進し、1970年代には世界一のテレビ輸出国となる。
     また、ソニーによるトリニトロンテレビの開発は、シャドーマスク方式全盛のテレビ製造業界にあって、新たな市場を開拓するものとなった。
     1973年、「エミー賞」(トリニトロンカラーテレビジョン・システム)を受賞、2009年、「IEEEマイルストーン」(高柳健次郎)に選定された。
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  •  大気汚染の要因である硫黄酸化物、窒素酸化物そして煤じん対策は高度経済成長期後半の我が国にとって最重要課題の一つであった。脱硫方法に革新をもたらしたのは、東北大学の村上恵一教授・堀一朗教授等により開発された「石灰-石膏法排ガス脱硫技術」である。この技術は工業技術院東京工業試験場(...
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     大気汚染の要因である硫黄酸化物、窒素酸化物そして煤じん対策は高度経済成長期後半の我が国にとって最重要課題の一つであった。脱硫方法に革新をもたらしたのは、東北大学の村上恵一教授・堀一朗教授等により開発された「石灰-石膏法排ガス脱硫技術」である。この技術は工業技術院東京工業試験場(当時)の設備を用いて実用化試験が行われ、1956年、三菱重工業により実機が納入された。排煙からの窒素酸化物の除去(脱硝)については、触媒アンモニア接触還元法用の開発が焦点となり、担体として酸化チタンに着目した企業数社によって実用化され、世界の窒素酸化物による大気汚染問題を解決する主流技術となった。集じんについては、高性能集じん装置である電気集じん装置の操作温度制御によりその集じん効率を飛躍的に向上させた。
     日本が「公害列島」という汚名をそそぐことができたのも、国を挙げての様々な革新的技術の開発とともに、それに対する積極的投資、社内管理体制の構築と、これを支える人材の育成によりはじめて実現したものである。
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  •  戦後日本の高度経済成長期、石油の一次エネルギーに占める比重は年々上昇していた。しかし、1973年、1979年と二回にわたる石油危機は、エネルギー多消費型の日本の産業構造の転換と経済活動全般にわたる省エネルギー化を国民的な課題とした。
     産業におけるエネルギー消費量...
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     戦後日本の高度経済成長期、石油の一次エネルギーに占める比重は年々上昇していた。しかし、1973年、1979年と二回にわたる石油危機は、エネルギー多消費型の日本の産業構造の転換と経済活動全般にわたる省エネルギー化を国民的な課題とした。
     産業におけるエネルギー消費量の削減は、製造業とりわけ鉄鋼、化学といったエネルギー多消費型の素材産業で推進され、技術、運転の両面から徹底した省エネ化を実現した。また、過剰設備の廃棄を産業単位で実施し、エネルギー原単位が素材産業に比してはるかに低い機械産業を中心とする知識集約型産業構造への移行を加速した。一方、自動車や家電、エアコンといった耐久消費財や住宅、オフィス関連機器などを製造する産業分野では省エネ型製品の開発に向けた激しい競争が展開され、それは、民生部門での省エネ化に寄与するとともに当該製品の国際競争力の強化と産業構造の高度化へとつながった。
     その結果、日本の製造業の鉱工業生産指数当たりエネルギー消費原単位は、1990年には1975年の半分の水準にまで引き下げることに成功した。
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  •  トヨタ生産方式は、トヨタ自動車が「自働化」と「ジャスト・イン・タイム」を柱として、戦前から築き上げてきた生産方式である。前者は、機械自身に異常の有無を把握する機能を組み込むことにより後工程への不良品の供給を回避するものであり、後者は徹底したムダの排除による、リードタイムの短縮化...
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     トヨタ生産方式は、トヨタ自動車が「自働化」と「ジャスト・イン・タイム」を柱として、戦前から築き上げてきた生産方式である。前者は、機械自身に異常の有無を把握する機能を組み込むことにより後工程への不良品の供給を回避するものであり、後者は徹底したムダの排除による、リードタイムの短縮化とともに生産効率の改善を実現しようとする考え方である。
     トヨタ生産方式は、これを動かす「人」を育成することにより初めて実現するものであり、これまでの常識にとらわれない意識改革が重要と考えられていた。
     1974年の石油危機以後の不況期を乗り切ったトヨタの躍進とともに世界的に注目されるものとなり、社内で使用されてきた「カンバン方式」や「カイゼン」という言葉は国際的にも普及した。現在では、製造業にとどまらず様々な産業や一部行政機構にまでその思想は導入されるところとなっている。
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  •  電界放出形走査電子顕微鏡(FE-SEM)は、電子顕微鏡の一種である。電子顕微鏡は、光の代わりに電子を用いることで、光学顕微鏡よりもはるかに高い倍率を実現することができる。
     この実用化は、1972年米国人研究者の電界放出型電子源のアイデアを具体化した日立製作所の商...
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     電界放出形走査電子顕微鏡(FE-SEM)は、電子顕微鏡の一種である。電子顕微鏡は、光の代わりに電子を用いることで、光学顕微鏡よりもはるかに高い倍率を実現することができる。
     この実用化は、1972年米国人研究者の電界放出型電子源のアイデアを具体化した日立製作所の商用機によってである。
     当初、FE-SEMの用途は理化学分野の研究に限定されていたが、半導体LSI(大規模集積回路)用の微小寸法自動計測装置である「測長SEM」の登場によって、その用途は抜本的に拡大し、半導体産業に不可欠なツールへと発展した。さらに最近では、ウイルスの観察・撮影などの医療・バイオ分野の研究や、触媒、電池の電極材料、ナノチューブなどのナノテク分野の研究にも幅広く使用されるに至っている。
     2008年、大河内賞「大河内記念生産賞」を受賞、2012年、「IEEEマイルストーン」、「日本半導体イノベーション50選」に選定された。
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  •  産業用ロボットは、ISO(国際標準化機構) によれば、「3軸以上の自由度を持つ、自動制御、プログラム可能なマニピュレータ」とされ、溶接、搬送、塗装、検査等に用いられる。
     米国において開発が進められたが、日本では1968年に川崎重工が米国の技術を導入し国産化を図っ...
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     産業用ロボットは、ISO(国際標準化機構) によれば、「3軸以上の自由度を持つ、自動制御、プログラム可能なマニピュレータ」とされ、溶接、搬送、塗装、検査等に用いられる。
     米国において開発が進められたが、日本では1968年に川崎重工が米国の技術を導入し国産化を図ったのが最初である。1973年の第一次石油危機以降、省力化のための産業用ロボットへの需要が高まった。日本のロボットメーカーは70年代後半以降サーボモーターやマイクロプロセッサーをいち早く導入し、いわゆるメカトロニクスの世界を現出させてこれに対応していった。1980年、ロボット工業会はこの年を「ロボット普及元年」とする提唱を行ったが、これを一つの契機とし自動車産業をはじめとする多くの産業がロボットの活用を進め、それは重要な生産財へと成長した。90年代には液晶・半導体製造ロボットなどへと市場は拡大し、汎用品からヒューマンインターフェースを重視した専用品化も進展した。2000年には全世界の産業用ロボットの生産の7割が日本でなされるまでになった。
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  •  CVCC(複合渦流調速燃焼方式)エンジンは、本田技研工業及び本田技術研究所が当時、実現不可能といわれた米国の改正大気浄化法(マスキー法)による自動車排出ガス規制基準を、世界に先駆けて、後処理を行うことなくクリアした低公害エンジンである。
     CVCCエンジンの開発成...
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     CVCC(複合渦流調速燃焼方式)エンジンは、本田技研工業及び本田技術研究所が当時、実現不可能といわれた米国の改正大気浄化法(マスキー法)による自動車排出ガス規制基準を、世界に先駆けて、後処理を行うことなくクリアした低公害エンジンである。
     CVCCエンジンの開発成功は、世界の自動車メーカーに低公害車の本格的開発を促すとともに、ホンダの四輪車メーカーとしての地位を確固たるものとし、我が国自動車産業の技術力を内外に示すものとなった。ホンダの四輪自動車の海外への輸出は、1975年は19万1274台に過ぎなかったが、1980年には65万8986台と3.5倍に増大した。CVCCエンジン搭載のシビックは米国連邦環境保護庁(EPA)の燃料経済性調査において販売以来4年連続して1位を記録した。
     1973年、「科学技術功労者表彰」等を受賞。
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  •  「コンビニエンスストア」は、スーパーマーケットと小規模小売店が激しく対立した1970年代に誕生した。
     当時、イトーヨーカ堂の役員であった鈴木敏文は、チェーン店方式による生産性の向上によって小規模小売店でも大型店に対抗し得る競争力を確保できると考えていた。米国視察...
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     「コンビニエンスストア」は、スーパーマーケットと小規模小売店が激しく対立した1970年代に誕生した。
     当時、イトーヨーカ堂の役員であった鈴木敏文は、チェーン店方式による生産性の向上によって小規模小売店でも大型店に対抗し得る競争力を確保できると考えていた。米国視察の中で出会った「セブン- イレブン」を運営するサウスランド社との事業提携をまとめ、1974年、東京都江東区に第1号店をオープンさせた。しかし、その後のセブン- イレブン事業の展開は米国型のビジネスモデルにとどまらず大きく進化を遂げた。
     独自の流通網の構築、独自ブランド商品の開発、金融、サービス部門への展開等々、日本のコンビニは地域住民の多様な要望に応え得る様々な機能を有する店舗となっていった。現在、コンビニ産業全体での売上規模は百貨店を上回り、スーパーマーケットに接近しつつある。海外展開も活発で、セブン- イレブンでは全世界で5万1587店(内海外3万5736店)に及んでいる。
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  •  1960年代前半から半ばにかけて日本に警備会社が相次いで誕生した。欧米と異なり「水と安全はタダ」という考えが根強いといわれた当時の我が国においては、警備部門への民間企業の参入は厳しいものがあった。しかし、東京オリンピックや大阪万博での民間警備の必要性、警備員を主人公としたテレビ...
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     1960年代前半から半ばにかけて日本に警備会社が相次いで誕生した。欧米と異なり「水と安全はタダ」という考えが根強いといわれた当時の我が国においては、警備部門への民間企業の参入は厳しいものがあった。しかし、東京オリンピックや大阪万博での民間警備の必要性、警備員を主人公としたテレビドラマ人気、更には高度経済成長に後押しされる形でその需要は増大していった。一方で、警備員の目による監視の限界が見え始めていた。
     1966年、日本警備保障(現 セコム)がオンラインによる警備システム「SPアラーム」を発売し、翌年には綜合警備保障が「総合ガードシステム」を開発した。24時間オンラインで監視し、事が起きれば警備員が駆けつけるシステムは我が国独自のものである。この機械警備システムは、連続銃撃犯逮捕のきっかけともなり、オンライン警備システムへの社会的信用の獲得につながった。
     2015年9月30日現在、機械警備対象施設数は275万件に達し、20年前の6.6倍になり、一方、侵入盗犯件数は10万7000件と20年前の4割強にまで減少している。
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  •  落雷や開閉サージなどで発生する過電圧から電力機器を保護する「避雷器」は、20世紀初めから用いられてきた。1930年代からは炭化ケイ素素子と直列ギャップを用いた避雷器が主流となったが、信頼性とコンパクト化の点で課題があった。
     1967年に松下電器産業(現 パナソニ...
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     落雷や開閉サージなどで発生する過電圧から電力機器を保護する「避雷器」は、20世紀初めから用いられてきた。1930年代からは炭化ケイ素素子と直列ギャップを用いた避雷器が主流となったが、信頼性とコンパクト化の点で課題があった。
     1967年に松下電器産業(現 パナソニック)が酸化亜鉛を主成分とするセラミックス半導体素子(バリスタ)を発明すると、電力用避雷器に適用することを目的に、1970年から明電舎と松下電器産業による電力用酸化亜鉛素子の共同開発が進められ、1975年に九州電力隼人変電所へ世界で初めて電力用酸化亜鉛形避雷器が納入された。
     1979年IEC TC37 ワルシャワ会議で日本から正式にギャップレス避雷器規格の制定を提案したが、規格化に17年を要し1991年にIEC-60099-4-1991として制定された。日米ではJEC-217-1984、IEEE C62.11-1987が制定され、先行して本格的に使用された。
     酸化亜鉛形避雷器の実現により従来の課題が一気に解消し、落雷事故の低減、電力機器の低絶縁設計によるコンパクト化が進められ大きな経済的効果をもたらした。
     避雷器の主流技術として世界中で使用され、2014年、「IEEEマイルストーン」に選定された。
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  •  炭素繊維は、1959年に進藤昭男博士によりアクリル繊維を用いたPAN系炭素繊維が、次いで1963年に大谷杉郎教授によりピッチを用いたピッチ系炭素繊維が発明され、その後産学官の連携により材料革命を実現したイノベーションである。
     1963年に行われた進藤の論文発表は...
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     炭素繊維は、1959年に進藤昭男博士によりアクリル繊維を用いたPAN系炭素繊維が、次いで1963年に大谷杉郎教授によりピッチを用いたピッチ系炭素繊維が発明され、その後産学官の連携により材料革命を実現したイノベーションである。
     1963年に行われた進藤の論文発表は多くの研究者に衝撃を与え、これを複合材に用いる試みが拡大した。国内では、東洋レーヨン(現 東レ)によってその商品化が成功し、さらに東邦レーヨン(現 東邦テナックス)、三菱レイヨンも参入した。
     1970年代半ばに米国連邦航空宇宙局によって東レの炭素繊維が部材として採用されたことにより、その活用が多方面から注目され、その需要は自動車、建築材料、環境・エネルギー、エレクトロニクス、医療、産業機械にまで拡大した。
     一方のピッチ系炭素繊維は、1970年に呉羽化学工業(現 クレハ)が世界で初めて工業化した。軽量で柔軟性があり、また耐熱性にも優れるため、高温工業用炉の炉内材料などに活用されている。
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  •  日本電信電話公社(現 NTTグループ)では、1979年に世界に先駆けてアナログセルラー方式による「自動車電話サービス」を開始した。また、それに先立つ1975年には、現在でも世界の音声符号化の標準化に必須となった要素技術である「LSP方式」をも開発していた。
     自動...
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     日本電信電話公社(現 NTTグループ)では、1979年に世界に先駆けてアナログセルラー方式による「自動車電話サービス」を開始した。また、それに先立つ1975年には、現在でも世界の音声符号化の標準化に必須となった要素技術である「LSP方式」をも開発していた。
     自動車電話は重量等から持ち運ぶのに難があり、需要層は限られたものであったが、1984年までには全国的な展開を見るまでになった。
     このような技術的蓄積等を踏まえ、民営化されたNTT は1987年「携帯電話サービス」を開始した。電話機の小型化は米国モトローラ社との熾烈な競争ともなったが、日本電気、松下通信工業(当時)、三菱電機、富士通の4社の協力のもとに「世界最小・最軽量」のそれを開発するプロジェクトをスタートさせ、1990年に完成した試作機は、当時世界最小の体積150cc、重量250gを実現し、1991年に「ムーバ」として市場に投入された。この発売は携帯電話に関する関心を一気に高め、携帯電話は、ビジネスツール、更にはプライベートツールとして定着するものとなった。
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  •  高張力鋼とは、ハイテン(High Tensile StrengthSteel)とも呼ばれる高強度鋼の総称である。造船用厚板、鋼管、棒線など、あらゆる鉄鋼材料においてハイテンの開発が進められ、中でも、自動車用ハイテンは、鉄鋼メーカーが生産する高級鋼の代名詞ともいえる。
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     高張力鋼とは、ハイテン(High Tensile StrengthSteel)とも呼ばれる高強度鋼の総称である。造船用厚板、鋼管、棒線など、あらゆる鉄鋼材料においてハイテンの開発が進められ、中でも、自動車用ハイテンは、鉄鋼メーカーが生産する高級鋼の代名詞ともいえる。
     1950年代は、モータリゼーションの幕開けと同時に薄鋼板製造技術の基盤整備を進め、鉄鋼メーカーと自動車メーカーが共同で薄鋼板成形技術研究会を開き、その後のハイテン開発の方向性を示し、1960年代に入ってからは、品質と供給能力の面で自動車産業の要請に応える薄鋼板の製造体制が整えられた。1970年代から1980年代までは、今日の自動車用薄鋼板の基本製造法と設備が整備され、高成形性鋼板や各種のハイテンの基本形が開発された。1990年代に入ると地球環境問題がクローズアップされ、アルミ、樹脂などとの競合のなかで新たなハイテンの開発が進められ、2000年代には安全性確保から超ハイテンが適用され自動車のハイテン使用比率は急激に増加した。
     ハイテンは戦後日本の鉄鋼業におけるイノベーションの連鎖の軌跡といえよう。
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  •  「映画を自宅で観られる」「テレビを録画して楽しむ」という夢を実現したのが家庭用ビデオである。
     1975年5月、ソニーはベータマックス方式による最初の家庭用カラーVTR(SL-6300)を発売した。次いで、1976年9月、日本ビクター(現 JVC ケンウッド)はV...
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     「映画を自宅で観られる」「テレビを録画して楽しむ」という夢を実現したのが家庭用ビデオである。
     1975年5月、ソニーはベータマックス方式による最初の家庭用カラーVTR(SL-6300)を発売した。次いで、1976年9月、日本ビクター(現 JVC ケンウッド)はVHS方式とその最初の機種である「HR-3300」を発表した。ここに両者による国内外のVTRのハードウエア、ソフトメーカーを二分した激しい規格競争が始まる。日本企業による激しい競争の中で、欧米企業は次々と撤退あるいは日本からのOEM供給を受けるものとなり、我が国は世界のVTR 生産の中心地となった。ソニー、ビクターの競争は80年代まで続いたが、80年代後半になりVHSが世界標準となった。この間にVTRの生産額は1981年に1兆円を超え、1984年には2兆円を超えてテレビを上回り、家電売り上げ最大の製品となった。
     1990年代、家庭用ビデオは日本の全世帯の70%以上にまで普及するものとなった。
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  •  1976年、ヤマト運輸は「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達」という新しい宅配サービスを開始し、これを「宅急便」と名付けた。
     当時、一般家庭向けの個人宅配を全国規模で行っているのは郵便局のみであり、個人宅配のビジネスは採算が取れないという考えが支配的で...
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     1976年、ヤマト運輸は「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達」という新しい宅配サービスを開始し、これを「宅急便」と名付けた。
     当時、一般家庭向けの個人宅配を全国規模で行っているのは郵便局のみであり、個人宅配のビジネスは採算が取れないという考えが支配的であった。ヤマト運輸の社長であった小倉昌男は、ニューヨークを訪れた際に、日本でも個人宅配ビジネスの可能性を見出し、それを実行する上での様々な課題に挑戦していった。全国的規模での集配ネットワークの構築や「翌日配達」を中心としたサービスの差別化などに取り組む一方、政府による路線ごとの免許制度の壁にもぶつからざるを得なかった。
     こうした課題を一つひとつ解決した結果、ヤマト運輸の宅急便は一般利用者に広く普及し、民間による個人宅配便市場を確立した。1976年1月20日、わずか11個の荷物からスタートしたサービスは、2013年の宅配便市場において36億3700万個にまで拡大し、世界的なネットワークも広げつつある。
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  •  三元触媒システムは、エンジンに送られるガソリンと空気を最適な比率(理論空燃比)に制御することにより、排出ガスに含まれる一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を同時に浄化するシステムである。米国で1970年改正大気清浄化法(マスキー法)が成立し、自動車排気ガスの規制が一段と強化されると...
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     三元触媒システムは、エンジンに送られるガソリンと空気を最適な比率(理論空燃比)に制御することにより、排出ガスに含まれる一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を同時に浄化するシステムである。米国で1970年改正大気清浄化法(マスキー法)が成立し、自動車排気ガスの規制が一段と強化されると、世界の自動車関連企業は競って対応技術の開発に取り組んだ。理論空燃比制御のカギを握る酸素センサー(ラムダセンサー)が欧州で開発されると、三元触媒システムは一躍この問題の有力な解決手段として注目された。早くから電子制御式燃料噴射技術を開発していた日本メーカーは、酸素センサーと電子式燃料噴射技術の組み合わせに着目し、1977年に新たに開発したシステムを搭載した量産車を市場に投入した。その後、三元触媒システムは排出ガス浄化の標準的技術となり、多くのガソリン車に採用されるものとなる。コンピュータを搭載したこの技術は、今日のIT化された乗用車の先駆けともなった。
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  •  米国で発明され開発されてきたCCD(Charge-Coupled Device)は、1970年代に入ると日本メーカーによって新たな展開がなされるところとなった。1978年、東芝の山田哲生は、強い光が入射したときに縦線の偽信号を発生させるブルーミングを抑制する縦型オーバフロードレ...
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     米国で発明され開発されてきたCCD(Charge-Coupled Device)は、1970年代に入ると日本メーカーによって新たな展開がなされるところとなった。1978年、東芝の山田哲生は、強い光が入射したときに縦線の偽信号を発生させるブルーミングを抑制する縦型オーバフロードレイン構造を発明し、1979年には日本電気の寺西信一らが、残像や転送ノイズを解消する埋込フォトダイオードを発明した。これらの結果、CCDはまずムービーそしてコンパクトデジタルスチルカメラが主な市場となった。
     CCD撮像素子の開発では、ソニーの岩間和夫らによって世界に先駆けて、実用感度11万画素のCCD撮像素子(ICX008)が開発され、1980年には、世界初のCCDカラーカメラ(XC-1)に搭載された。
     現在ではほとんどのスマートフォンやコンパクトデジタルカメラ、デジタル一眼レフカメラの高級機にはCMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)センサーが多く採用されている。
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  •  1964年、IBM等が英文のワードプロセッサを発表したが、日本語のそれは文字数の多さ、漢字転換などの複雑さ等の面から開発はきわめて困難とみられていた。東芝の研究グループは、日本語ワープロの研究開発を進め、様々な試行を試みて1976年「カナ漢字変換システム」の実用化技術と学習機能...
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     1964年、IBM等が英文のワードプロセッサを発表したが、日本語のそれは文字数の多さ、漢字転換などの複雑さ等の面から開発はきわめて困難とみられていた。東芝の研究グループは、日本語ワープロの研究開発を進め、様々な試行を試みて1976年「カナ漢字変換システム」の実用化技術と学習機能等を開発することで「編集機能」も可能とした。さらに、機器のダウンサイジング化をも実現し、1978年世界初の日本語ワープロJW-10を発表した。価格も東芝が1985年に販売を開始した「Rupo JW-R10」は10万円を下回るまでになった。
     日本語ワープロ開発によって生み出された「カナ漢字変換技術」と「編集技術」等は、その後のパソコンや携帯電話など日本のあらゆるICT/IoT 分野の日本語入力手段として引き継がれ、発展を続けている。
     2008年、日本語ワードプロセッサ「JW-10」は、IEEE マイルストーンに選定された。
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  •  島精機製作所は、1960年代初頭の手袋の自動編機の開発に始まり、1978年にはニット製品全般に及ぶコンピュータ制御式自動横編機の開発を成し遂げた。
     コンピュータ制御式自動横編機は、ニット産業をして石油危機以後の大量生産型経済成長から安定成長下の多品種少量生産型へ...
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     島精機製作所は、1960年代初頭の手袋の自動編機の開発に始まり、1978年にはニット製品全般に及ぶコンピュータ制御式自動横編機の開発を成し遂げた。
     コンピュータ制御式自動横編機は、ニット産業をして石油危機以後の大量生産型経済成長から安定成長下の多品種少量生産型への切り替えを可能とした。さらに1995年の完全無縫製型横編機は、情報化時代の到来によって生じたデザインインの必要性やグローバル化時代の繊維産業が抱えた産業空洞化等の課題に挑戦した繊維機械の画期的なイノベーションとなった。
     単なる自動横編機というハードウエアの開発にとどまらず、それを使いこなすためのデザインシステム、編成技術、ノウハウ、デザインなどのソフトウエア面での開発を複合的に推進し、主なユーザーであるファッション業界での新たな価値を創造した。
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  •  フォトレジストとは、光に反応してエッチングに耐える性能を持つ液状の化学薬剤で半導体製造において基板に回路を転写する工程で使用される。
     1980年代以降、日本の半導体産業はDRAM をはじめとする製造において圧倒的な強さを発揮するようになったが、それは多くの部品、...
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     フォトレジストとは、光に反応してエッチングに耐える性能を持つ液状の化学薬剤で半導体製造において基板に回路を転写する工程で使用される。
     1980年代以降、日本の半導体産業はDRAM をはじめとする製造において圧倒的な強さを発揮するようになったが、それは多くの部品、素材メーカーの発展とも軌を一にするものであった。フォトレジストもその一つで、1968年、東京応化工業は国内で初めて半導体デバイス製作向けネガ型フォトレジストの開発に成功し、製造販売を開始した。また1972年には、国内で初めて回路の高集積化に対応した高解像度ポジ型フォトレジストを開発し、1980年代の64KBDRAM製造用の世界の標準品としての地位を確立した。
     現在、日本のフォトレジスト業界は、東京応化工業に加えJSR、信越化学工業、富士フイルム、住友化学の5社によって、世界のフォトレジスト需要の80%を供給し、世界の半導体産業を支えている。
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  •  レーザープリンターは1969年、米ゼロックスによって発明されたレーザーによる感光を利用する印刷機である。発明直後から日米欧の多くの企業がその実用化を目指して開発に取り組んできた。
     キヤノンはゼロックスの特許を使わずに独自の電子写真方式NP方式の開発に成功し、19...
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     レーザープリンターは1969年、米ゼロックスによって発明されたレーザーによる感光を利用する印刷機である。発明直後から日米欧の多くの企業がその実用化を目指して開発に取り組んできた。
     キヤノンはゼロックスの特許を使わずに独自の電子写真方式NP方式の開発に成功し、1970年複写機として発売していたが、このNP方式を採用したレーザープリンターを世界に先駆けて国際展示会に出品し、1976年に販売した。さらに、1979年にはそれまでのヘリウムネオンレーザーに代えて半導体レーザーを使用したLBP-10を発表した。LBP-10は大幅な低価格化・小型化に成功した。この技術と単価は後継機に引き継がれてそれまでは大企業等の需要に限られていたレーザープリンターを広範な需要層に普及させることに成功した。さらにヒューレット・パッカード社やアップルコンピュータ社など世界のコンピューターメーカーを含む多くの企業に技術供与ないしOEMで販売した実績がある。現在でもなおレーザープリンターの技術分野で大きな世界シェアを保持している。
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  •  「ウォークマン®TPS-l2」は、1979年にソニーによって開発・発売されたステレオカセットプレイヤーである。世代を問わず、あらゆる場所でステレオ音楽を楽しむライフスタイルを確立した。
     小型化の追求のために数々の工夫がこらされ、斬新なデザインとともに新た...
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     「ウォークマン®TPS-l2」は、1979年にソニーによって開発・発売されたステレオカセットプレイヤーである。世代を問わず、あらゆる場所でステレオ音楽を楽しむライフスタイルを確立した。
     小型化の追求のために数々の工夫がこらされ、斬新なデザインとともに新たな技術が開発されてきた。例えば、ステレオ・ミニジャックや小型モーター、そしてガム型電池など、この製品によって開発された部品は、他の多くのオーディオ製品・ポータブル製品にも採用され、その小型化を可能とした。
     「ウォークマン®」の名称は世界的に普及し、『広辞苑』や『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー』などの辞書にも記されるに至っている。
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  •  ファクシミリの発明は19世紀前半とされているが、電話やテレックスに比べその普及は進まなかった。1960年代に入り、半導体技術等の進歩や電話網の解放などによって各種のファクシミリが開発されたが、異なるメーカーとの機器間では通信ができず、高額料金などもあって、使用は限られた分野にと...
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     ファクシミリの発明は19世紀前半とされているが、電話やテレックスに比べその普及は進まなかった。1960年代に入り、半導体技術等の進歩や電話網の解放などによって各種のファクシミリが開発されたが、異なるメーカーとの機器間では通信ができず、高額料金などもあって、使用は限られた分野にとどまっていた。
     1971年の公衆電気通信法改正は、一般電話回線での接続を可能とし、ファクシミリ普及の一つの転機となった。
     しかし、国際的には依然として異なるメーカー間の通信ができなかった。NTT とKDDIは各々の独自技術を融合した符号化方式を開発し、標準規格作成を急いでいた国際電信電話諮問委員会(CCITT)に国際標準規格として提案した。CCITTはこれに各国の要望を取り入れ若干の修正を施しG3ファクシミリの国際標準規格として勧告した。
     G3規格の国際標準化を機に、日本メーカーの機器は、世界市場を席巻することとなった。G3ファクシミリは、世界のファクシミリ普及に日本の技術、標準化戦略が大きく貢献したイノベーションである。
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  •  半導体露光装置とは、シリコン基板上にIC回路パターンを焼き付ける装置であり、基板をステップ状に移動して露光することからステッパーと呼ばれる。
     1976年、通商産業省は「超LSI技術研究組合」共同研究所を発足させ、ステッパーを含む様々な研究を行ったが、垂井康夫所長...
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     半導体露光装置とは、シリコン基板上にIC回路パターンを焼き付ける装置であり、基板をステップ状に移動して露光することからステッパーと呼ばれる。
     1976年、通商産業省は「超LSI技術研究組合」共同研究所を発足させ、ステッパーを含む様々な研究を行ったが、垂井康夫所長の「基礎的共通的」理念のもとに、機械、素材、装置関連メーカーを結集し、官も加わっての様々な研究者等が一体となった研究が進められた。
     研究所は、日本光学工業(現 ニコン)には縮小投影露光装置の開発を、キヤノンには等倍投影露光装置の開発を進めさせることとした。
     1980年、ニコンはステッパーを開発し、キヤノンもこれに続いた。両社の製品は80年代半ばには先行していた米国GCA社の性能を凌駕するまでになった。両社が実現した露光エリアの拡大や光源の短波長化に伴う様々な機構の複雑化は、光学メーカーとしての技術を生かし、その世界シェアを70~80%に高めるまでになった。
     ステッパーの開発は、共同研究組合方式が寄与したイノベーションでもあった。
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  •  1980年、米国ドジャースタジアムに三菱電機の制作による世界初のフルカラー大型映像表示装置が設置された。大画面映像を通じて選手たちの活躍を目の当たりにした観客は、球場での一体感を高め、テレビ放映により減少していた観客を球場に呼び戻すことにも成功した。
     独自開発し...
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     1980年、米国ドジャースタジアムに三菱電機の制作による世界初のフルカラー大型映像表示装置が設置された。大画面映像を通じて選手たちの活躍を目の当たりにした観客は、球場での一体感を高め、テレビ放映により減少していた観客を球場に呼び戻すことにも成功した。
     独自開発した3種類(赤、緑、青)の小型ブラウン管を数万個並べ、また屋外での風雨にも耐え得るよう船舶用電機品以上の過酷な環境評価試験を実施した上での設置であった。この結果、気候条件の異なる海外における使用でも十分な信頼を得ることに成功した。さらにスタジアムのコントロールルームには、ビデオ機器および文字・グラフィック画像のコントローラをコンピュータ制御し、観客を盛り上げる運用ソフトを創り上げた。
     ドジャースタジアムでの実績が注目を集めると、各社が開発に着手し、以後、急速に多くの施設への導入が進んだ。
     スポーツ・競技での「新しい楽しみ方」を創造したオーロラビジョンは、その後スポーツに限らず屋内外での人の集まる場所に設置され、1990年代にはLEDの使用によりさらに高画質かつ大型の表示が可能となり、町の光景を変貌させるものとなった。
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  •  ウォシュレット®は、東陶機器(現TOTO)が1980年に発売開始した温水洗浄便座である。開発に当たっては、座り心地、洗浄角度、温度、水勢などに関する多くのデータが収集・解析され、最適な洗浄感の達成が追及された。
     また、発売から二年後、「おしりだって洗って...
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     ウォシュレット®は、東陶機器(現TOTO)が1980年に発売開始した温水洗浄便座である。開発に当たっては、座り心地、洗浄角度、温度、水勢などに関する多くのデータが収集・解析され、最適な洗浄感の達成が追及された。
     また、発売から二年後、「おしりだって洗ってほしい」というコピーによるユニークなCMなど、独自のマーケティング手法との相乗効果もあり、知名度を一気に上げることとなった。
     ウォシュレット®の登場は、衛生面での格段の清潔性向上にとどまらず、トイレに関するマイナスのイメージを、快適感を与える空間へと変化させた。
     発売開始から25年で、温水洗浄便座の販売台数は2000万台を超えたとされる。
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  •  イベルメクチンは熱帯地方の風土病オンコセルカ症およびリンパ系フィラリア症等の線虫による寄生虫の感染症根絶に大きな貢献をしている医薬品である。
     発見したのは北里研究所・北里大学の大村智博士である。各地の土壌を集め、入念な観察力と独創的な方法で静岡県伊東市内の土壌中...
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     イベルメクチンは熱帯地方の風土病オンコセルカ症およびリンパ系フィラリア症等の線虫による寄生虫の感染症根絶に大きな貢献をしている医薬品である。
     発見したのは北里研究所・北里大学の大村智博士である。各地の土壌を集め、入念な観察力と独創的な方法で静岡県伊東市内の土壌中から、新種の放線菌「ストレプトマイセス・アベルメクチニウス」を発見し、共同研究していた米製薬大手メルク社とともに、これが産生するエバーメクチンを改良したイベルメクチンを動物用及びヒト用薬剤として開発した。
     新薬はオンコセルカ症等に劇的な成果をあげ、人体への副作用も少なくWHOによれば年一回の集団投与によってほぼ制圧されると見込まれるまでになっている。この功績に対して2015年ノーベル生理学・医学賞が授与された。
     この薬剤は、多額の特許料をもたらしたが、発明者・大村智博士はアフリカ等では無償供与に協力するとともに、得られた資金によって大学でのさらなる研究を推進し、一方、新たな病院を設立するなど社会へ還元している。産学連携、大学発知財戦略のみごとなイノベーションである。
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  •  1982年に東京芝浦電気(現 東芝キャリア)が発売した家庭用インバーターエアコンRAS-225PKHVは、空気調和機の心臓部である圧縮機に印加する電源周波数を変えることによりその回転数を制御し、必要負荷に追随して冷房・冷房能力を制御することを実現した世界で初めての家庭用エアコン...
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     1982年に東京芝浦電気(現 東芝キャリア)が発売した家庭用インバーターエアコンRAS-225PKHVは、空気調和機の心臓部である圧縮機に印加する電源周波数を変えることによりその回転数を制御し、必要負荷に追随して冷房・冷房能力を制御することを実現した世界で初めての家庭用エアコンである。
     本来、ヒートポンプシステムは、電気を直接熱源として使用しないことからエネルギー利用効率が高い冷暖房システムであるが、温度調整によるエネルギーロスが大きかった。そこでインバータ装置の搭載に取り組んだ東芝は、大電力トランジスタとマイコン制御による「正弦波近似パルス幅変調方式」を採用し、業務用エアコンのインバータ化を実現した。また、「倍電圧整流方式」や「ジャイアントトランジスタ」を開発し、小型化とコストの引き下げに成功するとともに、数々の試作と性能確認の繰り返しにより冷凍サイクルの課題を克服し、世界初の家庭用インバーターエアコンが誕生した。
     インバーターエアコンのエネルギー効率は海外でも高く評価され、国内外で急速に普及した。地球規模のエネルギー問題・環境問題に貢献したイノベーションである。
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  •  1981年、本田技研工業は「車両の現在位置」「走行軌跡」及び「これから進むべき方向」を地図上に可視的に表示する最初の地図型ナビゲ―ションシステム「エレクトロ・ジャイロケータ」を製品化し、同社のアコード、ビガーに搭載した。
     その後、自動車メーカーのみならず電機メー...
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     1981年、本田技研工業は「車両の現在位置」「走行軌跡」及び「これから進むべき方向」を地図上に可視的に表示する最初の地図型ナビゲ―ションシステム「エレクトロ・ジャイロケータ」を製品化し、同社のアコード、ビガーに搭載した。
     その後、自動車メーカーのみならず電機メーカーも加わってカーナビゲーションシステム(カーナビ)の開発が加速されるようになった。1987年にトヨタ自動車と日本電装(現 デンソー)は世界初のデジタル・マップデータを用いた「CD-ROMナビゲーションシステム」を開発し、クラウンに搭載した。
     さらに、米国政府によりGPSの利用が一般に可能となると、1990年に三菱電機とマツダによって、世界初のGPS方式のカーナビが開発され、続いて同年には、パイオニアが市販型としては世界初のGPS方式カーナビ「カロッツェリアAVIC- 1」を発売するなど急速な展開をみるところとなった。
     カーナビは現在では我が国の乗用車の7割程度に搭載され、出荷台数は2010年には526万台に達した。欧州をはじめとしてアジアにも普及しつつある。
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  • ATM
     ATM(automated teller machine:現金自動預け払い機)は、先進国ではキャッシュディスペンサーとして多くはスタートしている。日本でも1960年代後半から、銀行業務へのコンピュータ利用とともに発展してきた。
     1969年に三菱銀行虎ノ門支店はA...
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     ATM(automated teller machine:現金自動預け払い機)は、先進国ではキャッシュディスペンサーとして多くはスタートしている。日本でも1960年代後半から、銀行業務へのコンピュータ利用とともに発展してきた。
     1969年に三菱銀行虎ノ門支店はATMの前身ともいえるオンラインキャッシュディスペンサーを設置、1971年に三井銀行は24時間年中無休のキャッシュディスペンサーを設置し、ATM時代の幕開けを示すこととなった。
     日本のATMは、諸外国に比べて多くの機能を付加してきた。通帳への印字機能やキャッシュカードの共通化さらには入金と払い出しの双方を可能とする無人金融自動機を装備するまでになった。さらに1985年には、入金した紙幣を支払いにも使用し得る還流型ATMが沖電気工業によって開発された。また給与の自動振り込みによって銀行での個人の預金、払い出し業務はATMによるものが主となり窓口業務の大幅な合理化を推進するとともに、個人での銀行間資金移動や休日での預金の引き出しなども可能とし、利用者の利便性を著しく向上させた。
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  •  オランダのフィリップス社とソニーの共同開発により開発された音楽用CD は、1982年、世界に先駆けて我が国でCDとそのプレイヤーが発売されると、4年後にはアナログレコード・カセットテープを凌駕し、音楽文化をアナログからデジタルへと転換させた。
     さらに1985年に...
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     オランダのフィリップス社とソニーの共同開発により開発された音楽用CD は、1982年、世界に先駆けて我が国でCDとそのプレイヤーが発売されると、4年後にはアナログレコード・カセットテープを凌駕し、音楽文化をアナログからデジタルへと転換させた。
     さらに1985年に登場したコンピュータ用データのための記録方式(CD-ROM)は、フロッピーディスクの400倍を超える容量を持ち、1988年にはISO 9660が制定され、一気にその普及が進んだ。
     日本メーカーはCDのドライブ等の開発にも積極的に取り組み、1995年には我が国の製品が世界市場の90%近くを占めるまでになった。また、1988年に太陽誘電はCD-Rメディアを、ソニーはCDレコーダーをそれぞれ開発し、CDと完全互換性を持つ世界で初めての書き込み可能なコンパクトディスクを誕生させ、その後のCD-Rドライブの普及による価格下落とともに、その利用は広く一般消費者にも拡大した。2003年、世界のCD-R 販売数は100億枚、CD-Rドライブの出荷数は9000万台を超えた。
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  •  1981年、富士写真フイルム(現 富士フイルム)は、X線のレントゲン写真をフィルムに焼き付けるのではなく、X線画像の蓄積記録が可能なイメージングプレートを用いてこれをデジタル信号として取り込む世界初のデジタルX線画像診断システム「FCR(FujiComputed Radiogr...
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     1981年、富士写真フイルム(現 富士フイルム)は、X線のレントゲン写真をフィルムに焼き付けるのではなく、X線画像の蓄積記録が可能なイメージングプレートを用いてこれをデジタル信号として取り込む世界初のデジタルX線画像診断システム「FCR(FujiComputed Radiography)」を発表した(CR 方式)。現像を必要としないため、診断の早期化、フィルムや現像薬品、保管場所等の節約がなされるとともに、コンピュータによるデータ処理を可能とした。
     また、キヤノンは、1998年アモルファスシリコンを用いた薄膜で撮像素子を構成し、この撮像素子で蛍光を光電変換し、この電気信号を即座に増幅し、AD 変換してデジタル信号とする「LANMIT(Large AreaNew MIS Sensor and TFT)」を搭載した「CXDI-11」を開発発売し、これによりリアルタイムでX 線画像を表示できることとなった(DR 方式)。
     こうしたX線フィルムのデジタル化により、病院内さらには外部とのデジタルネットワーク化が促進され、医療の進歩に大きく寄与した。
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  •  ネオジム磁石(Nd - Fe- B 磁石)は、ネオジム・鉄・ホウ素の三元素から成る永久磁石であり、それまでの磁石の2倍近い磁力を有するものである。
     ネオジム磁石は、1982年に佐川眞人と米国ゼネラル・モータースのJohn Croatによりそれぞれ独立して発明され...
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     ネオジム磁石(Nd - Fe- B 磁石)は、ネオジム・鉄・ホウ素の三元素から成る永久磁石であり、それまでの磁石の2倍近い磁力を有するものである。
     ネオジム磁石は、1982年に佐川眞人と米国ゼネラル・モータースのJohn Croatによりそれぞれ独立して発明され、翌1983年には住友特殊金属(現 日立金属)、1986年に米国マグネクエンチ社によってそれぞれ製品化・量産化された。
     ネオジム磁石は、1980年代中盤、小型ハードディスクドライブの回転モータやヘッドアクチュエータに用いられその競争力を支える大きな要素となった。また1990年代からは、車載用モータや家電用モータ・コンプレッサへのネオジム磁石の適用が検討され始め、現在ではこれらの製品を含む幅広い分野で用いられている。廉価かつ磁気特性にも優れているネオジム磁石はサマリウム・コバルト磁石を代替する形で、その生産量を拡大し続けてきた。ネオジム磁石の世界の生産量は2000年に年間1万トンを超え、2013年には年間約3万トンに達している。
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  •  我が国の家庭用ゲーム機のハードウエア・ソフトウエア総出荷額は、2007年、有料携帯電話ゲームコンテンツ等を加えると3兆円を超えるものとなった。
     1983年に任天堂株式会社が発売した「ファミリーコンピュータ」は、ゲーム機と言えばゲームセンターに置かれた業務用が中心...
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     我が国の家庭用ゲーム機のハードウエア・ソフトウエア総出荷額は、2007年、有料携帯電話ゲームコンテンツ等を加えると3兆円を超えるものとなった。
     1983年に任天堂株式会社が発売した「ファミリーコンピュータ」は、ゲーム機と言えばゲームセンターに置かれた業務用が中心であったものを、家庭のテレビ画面で楽しむことを可能にした画期的な商品であった。それまでのいわゆるアーケードゲームに劣らないグラフィック機能を有し、「スーパーマリオブラザーズ」などのソフト人気と相まって「ファミリーコンピュータ」は家庭用ゲーム機市場を席巻した。
     ソニー株式会社が1994年に発売したゲーム機「プレイステーション」は、先進的3D画像処理技術を採用した画期的な家庭用ゲーム機であり、新たな3D用ソフトの人気と相まって全世界の累計出荷台数は初めて1億を超えた。
     家庭用ゲーム機の普及にはハードの開発とともに優れたゲームソフトの制作による相乗効果も大きく、その人気は長いシリーズ物となって現在にまで続くものも多い。
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  •  1980年、ソニーは、従来のフロッピーディスクの弱点を克服した3.5インチフロッピーディスクを発売した。それまでのフロッピーディスクでは、外装が変形しやすく、データを記憶する磁性体がヘッド部や円盤中心部で露出していたため、塵や埃が内部に侵入する危険性があった。
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     1980年、ソニーは、従来のフロッピーディスクの弱点を克服した3.5インチフロッピーディスクを発売した。それまでのフロッピーディスクでは、外装が変形しやすく、データを記憶する磁性体がヘッド部や円盤中心部で露出していたため、塵や埃が内部に侵入する危険性があった。
     そのためソニーは、外装をプラスチック製の硬質なケースに改め、更にヘッド部に自動開閉シャッターを採用することにより、従来の脆弱性を克服するとともに、磁性体にコバルト・ガンマ酸化鉄を採用し、高密度化も図った。
     3.5インチフロッピーディスクは、1982年、ワープロからパソコンにもその用途を広げ、また、同年にヒューレット・パッカード社に、1983年にはアップルコンピュータ社のマッキントッシュにも採用されることとなり、1984年にはISO会議で規格承認もされた。1987年にはIBMでも採用されるに至り、ほとんどのパソコンの標準装備となった。1995年には、年間45億枚が生産された。
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  •  1964年、NHKは東京から米国へ、衛星による世界初のオリンピック中継を実施した。翌1965年に難視聴地域を含めた日本全国への効率的送信手段として衛星を利用する方針を発表し、独自に小型周回衛星の製作、試験まで行った。
     この研究・開発で得た成果をもとに国の計画とし...
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     1964年、NHKは東京から米国へ、衛星による世界初のオリンピック中継を実施した。翌1965年に難視聴地域を含めた日本全国への効率的送信手段として衛星を利用する方針を発表し、独自に小型周回衛星の製作、試験まで行った。
     この研究・開発で得た成果をもとに国の計画として1978年に打ち上げた実験用放送衛星BSで、高出力増幅器の動作やアンテナ指向精度把握などについての経験、実績を得て、1984年、世界初の実用放送衛星BS -2 aの打ち上げに成功した。
     1990年に打ち上げた第二世代実用放送衛星BS-3aからは民放も参加、更に1997年にはBS-3後継衛星に移行して、2016年現在、受信世帯数は2000万を超え、20事業者以上が高精細度テレビジョンを中心に30を超えるデジタル放送サービスを提供している。
     2011年に、世界初の実用衛星放送開始までの研究、開発の技術的功績でIEEEマイルストーンに選定された。
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  •  1970年代以降、家庭用ビデオデッキが普及し、自分たちでも画像を撮りたいという消費者の要求が大きくなり、家庭用のビデオカメラが注目されるようになってきた。それまでの家庭用ビデオカメラは、撮像部と録画部がそれぞれ独立していたが、それを一体化したものがカムコーダであり、1980年以...
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     1970年代以降、家庭用ビデオデッキが普及し、自分たちでも画像を撮りたいという消費者の要求が大きくなり、家庭用のビデオカメラが注目されるようになってきた。それまでの家庭用ビデオカメラは、撮像部と録画部がそれぞれ独立していたが、それを一体化したものがカムコーダであり、1980年以降、各社により開発が進められた。
     1983年、ソニーがベータマックス規格を採用した民生用のカムコーダ「ベータムービー」(BMC-100)を発売し、1984年にはVHSの小型テープであるVHS-C規格を採用した「GR-C1」が、日本ビクターから発表された。
     1984年には8 mmビデオフォーマットの規格統一が実現し、1985年、ソニーから「CCD-V 8」が発売され、その後、ハンディカム®の名称で次々に小型機が開発された。特に1989年に発売されたパスポートサイズの「CCD-TR55」は空前の大ヒットとなり、家庭に新たなビデオ文化を広めるところとなった。
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  •  1908年、東京帝国大学の池田菊苗教授は、グルタミン酸ナトリウム(以下「MSG」)の発見により、古来考えられてきた「甘酸鹹苦」という4つの味(甘味、酸味、塩味、苦味)とは別に第5の基本味が存在することを主張し、それを「うま味」と名付けた。
     しかしながら、うま味成...
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     1908年、東京帝国大学の池田菊苗教授は、グルタミン酸ナトリウム(以下「MSG」)の発見により、古来考えられてきた「甘酸鹹苦」という4つの味(甘味、酸味、塩味、苦味)とは別に第5の基本味が存在することを主張し、それを「うま味」と名付けた。
     しかしながら、うま味成分を生かした代表的な食品である和食に海外の関心は低く、時には忌避される傾向すらあった。
     戦後、味の素によるMSGの海外普及、そして、キッコーマンによる醤油の海外生産販売、更には多くの和食関連企業の海外展開により、80年代には海外に寿司ブームが起きるなど、うま味関連食品、和食への関心は次第に高まっていった。
     1985年、ハワイで第一回のうま味国際シンポジウムが開催され、「UMAMI」は国際的に認識されるようになった。2002年カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究グループにより舌にグルタミン酸の受容体が発見され、うま味が第5の基本味覚であることが立証された。そして、2013年、和食はユネスコの無形文化遺産となり、「UMAMI」の代表である和食は国際的文化産業へと認定されることとなった。
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  •  パソコンは、「場所を選ばずに使いたい」というニーズに合わせて小型軽量化が追求されてきた。1985年、東芝は、重量4.1kgのラップトップパソコン「T1100」を開発した。これはモノクロ液晶ディスプレイを搭載し、当時米国の標準であったIBMパソコンとの互換性を有していた。さらに、...
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     パソコンは、「場所を選ばずに使いたい」というニーズに合わせて小型軽量化が追求されてきた。1985年、東芝は、重量4.1kgのラップトップパソコン「T1100」を開発した。これはモノクロ液晶ディスプレイを搭載し、当時米国の標準であったIBMパソコンとの互換性を有していた。さらに、1989年に東芝が発売した「Dynabook J3100SS」は、薄型バックライト液晶ディスプレイを搭載し、A4サイズで厚さ44mm、重さは2.7kgと画期的な小型軽量で、しかも20万円を切る価格となった。同年、セイコーエプソンや日本電気もほぼ同スペックの製品を発表し、ラップトップを超えるノートパソコンと呼ばれる新たなジャンルが、日本企業によって確立された。
     さらに日本企業は、ノートパソコンのサイズにデスクトップパソコン並みの機能を組み込む開発をリードし、2000年にはノートパソコンの売り上げはデスクトップパソコンを上回るところとなった。
     2013年、東芝T1100は、IEEEマイルストーンに選定された。
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  •  プレハブ住宅を中心とする工場生産住宅は、戦前から欧米を中心に研究が進められてきた。我が国においても、戦後の都市住宅不足を補うという期待を担って推進されてきた。
     大和ハウス工業は、1955年、事務所用としてのパイプハウス、さらに1959年には初のプレハブ住宅「ミゼ...
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     プレハブ住宅を中心とする工場生産住宅は、戦前から欧米を中心に研究が進められてきた。我が国においても、戦後の都市住宅不足を補うという期待を担って推進されてきた。
     大和ハウス工業は、1955年、事務所用としてのパイプハウス、さらに1959年には初のプレハブ住宅「ミゼットハウス」を発表して大きな注目を集めた。次いで多くのベンチャー精神あふれる企業が参入し、様々な工法を開発し市場を拡大し、昭和40年代に入ると年間10万戸以上を販売する一大産業となった。
     1973年の第一次石油危機とともにプレハブ住宅産業は大きな危機を迎えたが、企画提案型やユニット工法といった新たなプレハブ住宅を開発するとともに、品質の向上を図りそのブランド力によって顧客の安心を確保するビジネスモデルを確立していった。
     1986年には、プレハブ住宅新築件数は20万戸を突破し、現在年間約4兆円の産業にまで成長している。プレハブ住宅が産業になったのは世界で日本のみである。
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  •  1987年、花王は従来の4分の1の容量である酵素入りコンパクト洗剤「アタック」を販売した。「スプーン1杯で驚きの白さに」というキャッチコピーで販売されたアタックは、包装材料の省資源化や生産物流面での消費エネルギー削減など、環境問題にもいち早く対応した、当時では先進的なコンパクト...
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     1987年、花王は従来の4分の1の容量である酵素入りコンパクト洗剤「アタック」を販売した。「スプーン1杯で驚きの白さに」というキャッチコピーで販売されたアタックは、包装材料の省資源化や生産物流面での消費エネルギー削減など、環境問題にもいち早く対応した、当時では先進的なコンパクト洗剤であった。
     当時の市場では、消費者に割安感を出すため洗剤容器の大型化競争が中心となっていた。他方、オイルショックを契機に省資源化としての「小型化」が課題となるとともに、環境配慮のための無リン化に伴う洗浄力低下も課題となっていた。
     小型化にあたっては、トナー用の粉体加工技術を応用して洗剤粒子の体積を小さくすることに成功し、また、アルカリセルラーゼという酵素を配合することにより洗浄力を飛躍的に向上させた。
     日本から波及する形で、軽くて洗浄力の強い洗剤は海外でも一般化し、酵素入りコンパクト洗剤は世界の主流となった。
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  •  光通信にはレーザ・エレクトロニクス技術そしてファイバーの材料技術が重要である。また、光通信の伝送媒体であるガラス光ファイバーの工業化が不可欠であった。
     半導体レーザは、1962年に米国で開発されていたが、その用途は極めて限定された条件下でしか機能しなかった。東京...
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     光通信にはレーザ・エレクトロニクス技術そしてファイバーの材料技術が重要である。また、光通信の伝送媒体であるガラス光ファイバーの工業化が不可欠であった。
     半導体レーザは、1962年に米国で開発されていたが、その用途は極めて限定された条件下でしか機能しなかった。東京工業大学の末松安晴はその研究室の協力の下に、それまでの半導体レーザの材料であったガリウム・ヒ素(GaAs系)を基板としたものからインジウム・リンを基板とした半導体レーザを開拓するとともに、大量の情報伝送に必要な単一モードでの発振を可能とする動的単一モードレーザ(DSMレーザ)を提案し、1981年その実験に成功した。これによって大容量長距離光通信への途が大きく開拓されるところとなった。
     光ファイバーの量産化は、日本電信電話公社(現NTT)によって古河電気工業、住友電気工業、藤倉電線(現 フジクラ)との連携の下に開発が進められ、1977年、NTTの伊澤達夫らはVAD(Vapor-phase Axial Deposition Method)法という画期的な製法を開発しこれを実現した。現在も全世界の光ファイバー生産のほぼ6割を占める製法となっている。
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  •  ポリエステルは、1941年に英国の会社によって開発された合成繊維で、日本では、1958年に東洋レーヨン(現 東レ)と帝国人造絹糸(現 帝人)によって工業化がなされた。
     ポリエステルの開発改良の歴史は、その品質をいかにして天然繊維に近づけるかという歴史でもあった。...
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     ポリエステルは、1941年に英国の会社によって開発された合成繊維で、日本では、1958年に東洋レーヨン(現 東レ)と帝国人造絹糸(現 帝人)によって工業化がなされた。
     ポリエステルの開発改良の歴史は、その品質をいかにして天然繊維に近づけるかという歴史でもあった。1960年初頭にデュポン社が絹の光沢の理由と考えられてきた三角断面に関する特許を取得した。東レはこの特許に抵触しないよう開発を進め、1963年に絹の風合いに近いシルックの生産を開始し注目を集めた。その後も合繊メーカー各社はそれぞれの製品の差別化を目指してナチュラル感やむら感など様々な研究を進めていった。
     1980年代になると、日本の合成繊維メーカーは、プラザ合意成立後の円高、天然繊維ブーム、さらには、台湾・韓国などの安価な製品の出現によって転機を迎えた。そして、製品差別化の究極の発想として、むしろ合成繊維でしか実現できない品質を引き出すことに集中し成功した。その結果、誕生した「新合繊」はシルク調、ウール調、ピーチスキン調など多彩な外観・肌触わり・着心地を実現し、世界中の注目を集めるものとなった。
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  •  フラッシュメモリは、電源を切ってもデータが保存される不揮発性メモリの一種であり、電気的に一括消去できることを特徴とする。
     フラッシュメモリにはNOR型とNAND型の2種類あり、NOR 型は1984年に、NAND 型は1987年に、ともに舛岡富士雄ら東芝の研究者に...
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     フラッシュメモリは、電源を切ってもデータが保存される不揮発性メモリの一種であり、電気的に一括消去できることを特徴とする。
     フラッシュメモリにはNOR型とNAND型の2種類あり、NOR 型は1984年に、NAND 型は1987年に、ともに舛岡富士雄ら東芝の研究者によって発表された。 NOR型は信頼性が高く、読み込みが速いという特徴から、マイコンやルーター、プリンター等のファームウエアに主に利用されている。また、NAND 型は、大容量化しやすく書き込みが速いという特徴から、従来のフロッピーディスクに代わるPC用のUSBメモリや、デジカメ、携帯電話、携帯音楽プレーヤー等の外部記憶媒体に主に利用され、2004年には全世界で70億ドルを超す市場規模となった。 
     近年では、さらに大容量化、低価格化、高速化が進み、SSDなど次世代の大容量記憶メディアとしての発展も期待されている。
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  •  1980年代、テレビはゲーム機や、ビデオのディスプレイとしても使用される一方で、放送自体が衛星放送や有線放送へと拡大し、また画面も多重文字、多重音声そして高画質化が推進された。テレビ機能の大きな変化は、回路の構成を複雑化するとともに、視聴者にとっても画面の大型化を求めるようにな...
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     1980年代、テレビはゲーム機や、ビデオのディスプレイとしても使用される一方で、放送自体が衛星放送や有線放送へと拡大し、また画面も多重文字、多重音声そして高画質化が推進された。テレビ機能の大きな変化は、回路の構成を複雑化するとともに、視聴者にとっても画面の大型化を求めるようになり、従来のブラウン管テレビではその限界が明らかになりつつあった。
     1988年にシャープにより14型カラー液晶テレビが開発され、1990年代後半には、プラズマテレビが登場し、ブラウン管テレビ、液晶テレビとの大型化競争も熾烈となった。1999年シャープが世界で初の20型液晶テレビを発売すると、その後の薄型テレビの製造技術は飛躍的に発展を遂げるところとなった。テレビ放送のデジタル化への転換も薄型であるプラズマテレビや液晶テレビへの需要を高め、ブラウン管テレビを凌駕するところとなった。
     主流となった液晶テレビの日本国内生産台数は、2000年には47万台にすぎなかったが、2005年には422万台、2010年には2519万台にまで達した。
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  •  スタチンは、LDL(低密度リポタンパク)コレステロール(悪玉コレステロール)を効果的にかつ少ない副作用で下げる高脂血症に対する医薬品群である。
     1960年代から体内でのコレステロール吸収阻害剤は存在したが、スタチンは、動脈硬化の原因となる血中のLDLコレステロー...
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     スタチンは、LDL(低密度リポタンパク)コレステロール(悪玉コレステロール)を効果的にかつ少ない副作用で下げる高脂血症に対する医薬品群である。
     1960年代から体内でのコレステロール吸収阻害剤は存在したが、スタチンは、動脈硬化の原因となる血中のLDLコレステロールを下げるという医薬品である。このメカニズムの解明、実証においては当時、三共(現 第一三共)に在籍した遠藤章の研究が決定的な役割を果たした。遠藤は、「カビとキノコの中には他の微生物との生存競争に打ち勝つための武器として、コレステロールの合成阻害物質(抗生物質)を作るものが存在する」という仮説を実証し、1976年青カビから発見したスタチンの一種であるコンパクチンを特許化し、同年論文発表した。この解明によって、世界の多くの科学者そして医薬品企業にコレステロールの体内合成を阻害する様々なコンパクチン同族体(スタチン)の医薬品開発に取り組む展望を与えるところとなり、日本でも三共によるプラバスタチンのような優れた医薬品が開発され今日に至っている。
     遠藤は日本人として初めて「全米発明家殿堂」入りを果たしている。
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  •  ハイビジョンは、NHK放送技術研究所が開発した高精細テレビの一方式である。NHKは、東京オリンピック開催の1964年より高品位テレビに関する基礎研究に着手し、ハイビジョンの「伝送規格」であるMUSE方式(アナログ方式伝送のための画像圧縮技術)を用いて、1989年6月に世界初の衛...
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     ハイビジョンは、NHK放送技術研究所が開発した高精細テレビの一方式である。NHKは、東京オリンピック開催の1964年より高品位テレビに関する基礎研究に着手し、ハイビジョンの「伝送規格」であるMUSE方式(アナログ方式伝送のための画像圧縮技術)を用いて、1989年6月に世界初の衛星によるハイビジョン定時実験放送を開始した。しかし、デジタル方式への本格的な移行に伴い、日米欧それぞれ異なるデジタル伝送規格が開発・採用され国際規格としては拡大しなかった。
     一方、ハイビジョンの「スタジオ規格」については、NHKが前述のMUSE方式などの研究開発で培った技術をもとに、総走査線数1125本方式の規格を定め、1985年、国際標準化機関のCCIR に米国、カナダと共同で提案した。当初、欧州はこの規格に反対したものの、日本でのハイビジョン放送実績が評価され、2000年3月に1125本方式が世界統一スタジオ規格となった。
     2016年4月、NHKが開発した「ハイビジョン」は、IEEE マイルストーンに認定された。
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  •  IH(Inducting Heating)とは、誘導加熱のことであり、コイル状の導線に交流電流を流すことで発生する磁力線を鍋等に当てることにより、それ自体を発熱させている。この原理を応用し、1970年に米国ウエスティングハウス社が世界初のIH調理器を販売し、国内では、1974年...
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     IH(Inducting Heating)とは、誘導加熱のことであり、コイル状の導線に交流電流を流すことで発生する磁力線を鍋等に当てることにより、それ自体を発熱させている。この原理を応用し、1970年に米国ウエスティングハウス社が世界初のIH調理器を販売し、国内では、1974年に松下電器産業(現 パナソニック)が高周波型のIH 調理器を商品化した。
     初期のIH調理器は、大型で高コストだったため、一般家庭向けではなかったが、パナソニックは、電流を高周波に変換するための高周波インバータの小型化、低コスト化に成功し、1978年に卓上IH調理器を商品化した。1983年にはGE開発の新型半導体素子技術を取り入れた小型化高周波インバータにより、世界初のIH ジャー炊飯器も開発している。
     1989年から90年にかけて、東芝、中部電力、パナソニック等が火力が強くてもノイズの小さな200VのIHクッキングヒーターの開発に成功し、これによってIHクッキングヒーターの大衆化が更に大きく進展、2002年にはオールメタル加熱型IHクッキングヒーターも商品化され、一般家庭への普及を更に推進するところとなっている。
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  •  中空糸(中空繊維)は、1980年代から90年代にかけて生み出された新合繊の一つである。繊維内部に空洞の部分がある異形断面形状の化学繊維であり、内部が空洞のため通常の糸より多くの空気を含み、保温性が高く軽量であり、かつ吸水性に富むため、衣料用や寝具などに多く用いられている。加えて...
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     中空糸(中空繊維)は、1980年代から90年代にかけて生み出された新合繊の一つである。繊維内部に空洞の部分がある異形断面形状の化学繊維であり、内部が空洞のため通常の糸より多くの空気を含み、保温性が高く軽量であり、かつ吸水性に富むため、衣料用や寝具などに多く用いられている。加えて、中空糸膜は繊維壁面に多数の超微細孔があり、分離膜の機能(精密な分離機能)も有している。1980年代後半から、我が国繊維業界はこの分離機能を利用した中空糸を医療分野(血液透析、人工肺、ウイルス除去、無菌水製造など)や海水の淡水化、浄水器など広範な分野での利用を可能とする製品を開発した。
     これにより、新興国を中心とした人口増加と工業化の進展に伴って水需要が急速に高まる国での大型海水淡水化プラントにおいて、多くの納入実績を挙げるとともに、医療分野でも人工腎臓などの製品で世界的に高いシェアを占めている。また、家庭用浄水器としては2015年全消費者の40.5%にまで普及している。
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  •  1968年6月、米国RCA社のハイルマイヤーらによる液晶の試作品を知った日本メーカーは、自社製品への利用可能性に注目し次々とこれを利用した製品を開発し、世界の液晶ディスプレイ(LCD)開発の先駆けとなって行った。LCDはわずか30年を経ずして時計や携帯機器など小画面のものから大...
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     1968年6月、米国RCA社のハイルマイヤーらによる液晶の試作品を知った日本メーカーは、自社製品への利用可能性に注目し次々とこれを利用した製品を開発し、世界の液晶ディスプレイ(LCD)開発の先駆けとなって行った。LCDはわずか30年を経ずして時計や携帯機器など小画面のものから大画面まで幅広い製品に応用されていった。
     現在、事務所、交通機関、生産現場、流通産業、家庭、学校等至るところでLCDが使用されている。LCDの出現とその利用の拡大は、ディスプレイの利用環境を一変させただけでなく、電卓やノート型パソコンそしてスマートフォン等、新たな製品を次々と生み出す元ともなった。
     現在、LCD は10兆円を超える巨大な産業に成長し、これを用いた商品は世界に展開されている。1990年代後半には我が国のLCD生産が世界のトップに立ち、2000年代前半に韓国・台湾メーカーの激しい追い上げに直面するまでの間その優れた品質により、LCD市場を席巻することとなったのである。
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  •  リチウムイオン電池は、充電が可能な電池で、現在では、スマートフォン、ノートパソコン、ハイブリッド自動車、航空機等、様々な分野において不可欠な電源となっている。
     1979年に英国オックスフォード大学のジョン・グッドイナフ教授と留学中の東京大学・水島公一(後に東芝)...
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     リチウムイオン電池は、充電が可能な電池で、現在では、スマートフォン、ノートパソコン、ハイブリッド自動車、航空機等、様々な分野において不可欠な電源となっている。
     1979年に英国オックスフォード大学のジョン・グッドイナフ教授と留学中の東京大学・水島公一(後に東芝)が、電極活物質としてリチウムコバルト酸化物が利用できることを発見した。次いで旭化成工業(現 旭化成)の吉野彰らは、その酸化物を正極活物質とし、当初はポリアセチレンを負極活物質とした二次電池を、その後ポリアセチレンに代えて特定の結晶構造を持つ炭素材料を負極活物質とする二次電池を開発し、現在のリチウム二次電池の基礎を確立した。
     一方、独自に開発を進めていたソニーは、西美緒らによりハード・カーボンを負極活物質とするリチウム二次電池を開発し、1991年に出荷を開始した。1992年には旭化成が合弁会社を設立して生産を開始し、以後続々と日本企業の参入によって20世紀の世界のリチウムイオン市場は日本製品が圧倒するものとなった。
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  •  免疫抑制剤はがん治療や移植治療などに欠かせない医薬品である。藤沢薬品(現 アステラス製薬)は、1982年に免疫抑制剤の研究開発に着手し、カビ約8000株、放線菌約1万2000株の培養液をスクリーニングした結果、日本国内の土壌から分離した新菌種に強力な免疫抑制作用があることを発見...
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     免疫抑制剤はがん治療や移植治療などに欠かせない医薬品である。藤沢薬品(現 アステラス製薬)は、1982年に免疫抑制剤の研究開発に着手し、カビ約8000株、放線菌約1万2000株の培養液をスクリーニングした結果、日本国内の土壌から分離した新菌種に強力な免疫抑制作用があることを発見した。
     この活性物質はタクロリムスと命名され、1989年に最初の臨床試験が米国ピッツバーグ大学によって行われた。その結果、重篤な拒絶反応に極めて有効であることが判明した。その後、1990年に米国と欧州5ヵ国で大規模な臨床試験が行われ、タクロリムスは肝移植後1年目の生存率が80%以上という成績に加え、従来の免疫抑制剤に比べて急性拒絶反応の発生頻度が少なく、ステロイドの使用量が減量できるなどの優れた有用性が確認された。
     タクロリムスは1993年に世界に先駆けて日本で承認を受け、同年に免疫抑制剤として発売された。
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  •  スーパーコンピュータは、一般のコンピュータの数十倍の計算速度を持つ科学技術計算を主目的として開発されたものである。
     1970年代から80年代にかけて、日本のコンピュータメーカーは「エレファント」と呼ばれたIBMへのキャッチアップを目指していた。富士通、日立製作所...
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     スーパーコンピュータは、一般のコンピュータの数十倍の計算速度を持つ科学技術計算を主目的として開発されたものである。
     1970年代から80年代にかけて、日本のコンピュータメーカーは「エレファント」と呼ばれたIBMへのキャッチアップを目指していた。富士通、日立製作所、日本電気は、汎用ならびにスーパーコンピュータ分野で官民協力を含む優れた集積回路の開発、産学共同でのプロジェクトの推進、そしてアメリカとの技術提携などを通じ技術力を向上させ、世界市場に進出していった。
     1990年代に入り、スーパーコンピュータの性能評価プログラムであるTOP500において、「数値風洞(NWT)」「SR2201」「CP-PACS」「地球シミュレータ」と日本製スーパーコンピュータ4台が世界ランクのトップに位置付けられ、この製造能力をもって、各社はスーパーコンピュータを数多く世界市場に送り出した。2011年にも富士通の「京」がTOP500において一位となり、科学分野、工学分野の発展に寄与したのである。
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  •  暮らしを豊かに彩る「道の駅」。多様な可能性への期待を集め「地方創生」の拠点施設としても注目される。基本コンセプトは「休憩・情報交換・地域連帯の機能をもった、地域とともにつくる個性豊かなにぎわいの場」である。
     最大の特徴は市町村が設置する公共施設であり、地域の創意...
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     暮らしを豊かに彩る「道の駅」。多様な可能性への期待を集め「地方創生」の拠点施設としても注目される。基本コンセプトは「休憩・情報交換・地域連帯の機能をもった、地域とともにつくる個性豊かなにぎわいの場」である。
     最大の特徴は市町村が設置する公共施設であり、地域の創意工夫を生かした自由な運営にある。個性的で特色ある地場の特産物を生かし、地域独特の気候・風土や文化・慣習まで感じさせ、かつ、地域のニーズに応えたアイデアやデザインをもって、地域の拠点として広く国民に受け入れられている。また、「道の駅」自体が観光目的となるほど集客力を発揮している「道の駅」や、住民サービスの向上にも寄与している「道の駅」、さらには、新潟県中越地震の際には、防災拠点としての機能が注目され、東日本大震災や熊本地震でも大きな役割を果たしている「道の駅」もある。平成27年には、地域の実情に応じた個性的な運営が評価され、公共施設として初めて、第7回日本マーケティング大賞を受賞。平成5年の制度創設時103駅でスタートして以来、平成28年10月現在全国1107駅に増え、進化し続ける。この道の駅は、国際用語「Michi-no-Eki」として通用するまでになり、世界に輪を広げている。
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  •  1972年、東京大学の本多健一と藤嶋昭は、酸化チタン電極と白金電極からなる電気化学系に光を当てると水が分解され、酸化チタン側から酸素が、白金側からは水素が発生するという現象を発見し、これを論文としてネイチャー誌に発表した。この現象は、発見者の名前を取って「ホンダ・フジシマ効果」...
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     1972年、東京大学の本多健一と藤嶋昭は、酸化チタン電極と白金電極からなる電気化学系に光を当てると水が分解され、酸化チタン側から酸素が、白金側からは水素が発生するという現象を発見し、これを論文としてネイチャー誌に発表した。この現象は、発見者の名前を取って「ホンダ・フジシマ効果」と称されるところとなった。当初は太陽エネルギー変換としての活用が期待され、その後、1980年代になり酸化チタン粉末を光触媒として用いた水分解や廃液浄化、さらに大気浄化への研究がなされたが、効率が低く実用技術までには発展しなかった。
     1989年、東京大学の藤嶋と橋本和仁は、薄膜上の酸化チタン光触媒を建築材料にコーティングすることにより材料に抗菌性を付与できることを見出した。さらにTOTOと共同で研究を進める中、酸化チタンの表面に光が当たると水の濡れ性が非常に高くなる「超親水性」が見出されるところとなった。この発見から防曇、防汚にも有効なことが解明され外壁やガラスなど種々の建築材料に使用されて新たな市場が生み出された。
     酸化チタン光触媒は従来、紫外線を必要としたが、近年は可視光に応答する光触媒が開発されるなど、室内でも優れた効果が得られつつある。
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  •  QRコード®は日本電装(現 デンソー)が開発したマトリクス型二次元コードである。大容量データを高密度記録し、高速で読み取ることを可能とした。機能的にも全方向からの読み取りを可能にし、コード歪みにも強く、データの復元面でも優れている。
     当初、QR...
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     QRコード®は日本電装(現 デンソー)が開発したマトリクス型二次元コードである。大容量データを高密度記録し、高速で読み取ることを可能とした。機能的にも全方向からの読み取りを可能にし、コード歪みにも強く、データの復元面でも優れている。
     当初、QRコード®の用途は、自動車工場の部品管理や製品管理であったが、やがて在庫管理など流通でも使用されるようになった。オープンコードであったこと、ISO による国際規格化(2000年)がなされたこと、さらにデンソーは特許権を取得したがその権利行使はしないと宣言したことなどにより、全世界に急速に普及した。
     21世紀に入るとJ-フォン(現 ソフトバンク)が、初めてシャープ製端末でQRコード®読み取り(バーコード・リーダー)機能をプレインストールした携帯電話を発売したことから、携帯電話での使用が可能となりその需要はさらに拡大した。
     その後も電子チケット、空港の発券システム、入退出システム、勤怠管理システム、帳票管理システムなど業務システムでも、QRコード®の利用が新たな展開をみせている。
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  •  デジタルカメラは、レンズを通して入った光をイメージセンサー(撮像素子)により取り込み、デジタル信号として記録するカメラである。
     デジタルカメラの商品化の試みは、1970年代以降国内外の多くの企業によって行われ、数々の技術的な進歩はみられたものの、大きな市場の形成...
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     デジタルカメラは、レンズを通して入った光をイメージセンサー(撮像素子)により取り込み、デジタル信号として記録するカメラである。
     デジタルカメラの商品化の試みは、1970年代以降国内外の多くの企業によって行われ、数々の技術的な進歩はみられたものの、大きな市場の形成には至らなかった。
     1995年にカシオ計算機が発売した「QV-10」は、低価格であったことに加え、液晶画面を備え付けていたことから撮った画像をその場で見ることができ、そして画像を同時にパソコンへ取り込むことが可能であったことから、大ヒット商品となった。
     その後、カメラメーカーや家電メーカーなどが次々に新技術を開発し、デジタルカメラの機能は飛躍的に改善、強化されていった。さらにパソコン、インターネットの普及や画像処理ソフトの発展によって、デジタルカメラ市場はさらに急激に成長していった。
     デジタルカメラの出荷台数は、1999年には509万台であったものの、その10年後の2008年には1億1976万台にまで増大している。
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  • DVD
     1990年代に入り、米国映画産業等から、劇場で観るものと同じような臨場感を持ち、映画を1枚に記録できる光ディスクの開発が要請された。開発各社の競合が進む中で、技術は二つの規格に二分されることとなったが、最終的に両者の規格からそれぞれベストな技術を組み合わせた革新的光ディスク「D...
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     1990年代に入り、米国映画産業等から、劇場で観るものと同じような臨場感を持ち、映画を1枚に記録できる光ディスクの開発が要請された。開発各社の競合が進む中で、技術は二つの規格に二分されることとなったが、最終的に両者の規格からそれぞれベストな技術を組み合わせた革新的光ディスク「DVD」が誕生した。1996年11月には、最初のDVDプレーヤーが東芝及びパナソニックにより発売された。
     DVDプレーヤーの低価格化と普及は、2000年にソニー・コンピュータ・エンタテインメントが発売したDVDドライブ搭載の家庭用ゲーム機「プレイステーション2」によってさらに加速された。発売3日間で販売台数98万台という大ヒット商品となった。
     DVDプレーヤーは、日本以外でも製造されたが、DVDレコーダについては我が国の技術が世界市場をリードし続け、また、記録型のDVDドライブはPCの標準機能として搭載され、高速記録の技術や薄型ドライブの技術を進化させ続けた。
     2010年段階で、日系企業の記録型DVDドライブは世界市場の約80%を占めていた。
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  •  発光ダイオード(LED)は、半導体に電流を流すことで、発光現象を得る電子部品である。
     赤色や黄緑色のLEDは、西澤潤一らの研究により開発されていたが、青色のLEDはなかなか実用化に至らなかった。これを赤﨑勇らの研究グループや松岡隆志、中村修二らの研究活動により実...
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     発光ダイオード(LED)は、半導体に電流を流すことで、発光現象を得る電子部品である。
     赤色や黄緑色のLEDは、西澤潤一らの研究により開発されていたが、青色のLEDはなかなか実用化に至らなかった。これを赤﨑勇らの研究グループや松岡隆志、中村修二らの研究活動により実用化に至ったものである。
     青色LEDとそれに伴う白色LEDの実用化によって、液晶ディスプレイのバックライトや、スキャナーの光源、さらに街路灯、屋内照明などもLEDに置き換えられつつある。白色LEDの寿命は4万時間以上、また、消費電力でも既存の光源に比し10%から40%程度小さく、二酸化炭素排出の削減にも貢献している。
     赤﨑勇は、2011年「IEEEエジソンメダル」、2014年「恩賜賞・日本学士院賞」を受賞。中村修二は、2011年「エミー賞技術開発部門」等受賞。
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  •  シールド工法の歴史は古く19世紀前半に既に英国で開発されている。一方、世界初の海底トンネルは1944年に完成した日本の関門トンネルである。
     1970年代までのシールド工法では掘削の先端における安定性確保が困難であった。先端部分を含む高い密閉型のシールド工法(第2...
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     シールド工法の歴史は古く19世紀前半に既に英国で開発されている。一方、世界初の海底トンネルは1944年に完成した日本の関門トンネルである。
     1970年代までのシールド工法では掘削の先端における安定性確保が困難であった。先端部分を含む高い密閉型のシールド工法(第2世代のシールド)は1980年代において我が国で主として開発された「泥水加圧式」「泥土圧式」といった工法により克服され世界に普及していった。
     これにより東京湾アクアラインのような大規模海底トンネルが実現し、また、地下鉄等の都市トンネル工事の実施に大きな進歩をもたらすものとなった。
     このシールド工法の進展は一方でメーカーによる優れたシールドマシンの開発に裏打ちされており、それは英仏海峡トンネルなど国際プロジェクトでも使用されている。
     現在は特殊な形状や大規模地下空間などを構築する第3世代のシールド工法の開発が我が国を先頭に開発されつつある。
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  •  非接触ICカード技術とは、ICカードや対応携帯電話を読み取り機(リーダー/ライター)にかざすだけで無線通信を行い、決済や認証を実現する技術である。
     ソニーによって開発されたFeliCa は、1995年に香港のクリエイティブ・スター社によって採用され、1997年に...
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     非接触ICカード技術とは、ICカードや対応携帯電話を読み取り機(リーダー/ライター)にかざすだけで無線通信を行い、決済や認証を実現する技術である。
     ソニーによって開発されたFeliCa は、1995年に香港のクリエイティブ・スター社によって採用され、1997年にオクトパスカードとして本格的に導入された。日本では、1998年にICチケットへの導入を皮切りに、1999年には、ビットワレット社(現 楽天Edy)によるEdyの実証実験が行われ、非接触ICカード電子マネーシステムの普及が進んでいった。2001年にはJR東日本の首都圏424駅でSuicaサービスが開始されている。
     現在は、交通機関の乗車券、電子マネー、航空搭乗券、学生証、ポイントクーポンカード等にFeliCaが用いられており、インドネシア、ベトナムやバングラデシュ等、海外でも利用されている。
     FeliCaの通信方式は世界的にも高く評価され、ISO/IEC 14443タイプAとともに、ISO/IEC 18092として国際標準規格とされた。
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  •  日本における印刷業は、単に書籍・雑誌の印刷にとどまらず、一貫してその技術・ノウハウを多方面に活用し、事業領域を開拓してきた。中でも大日本印刷(DNP)や凸版印刷は、世界でも稀な“総合印刷業”として、その領域をパッケージや建装材から、エッチング技術等の応用...
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     日本における印刷業は、単に書籍・雑誌の印刷にとどまらず、一貫してその技術・ノウハウを多方面に活用し、事業領域を開拓してきた。中でも大日本印刷(DNP)や凸版印刷は、世界でも稀な“総合印刷業”として、その領域をパッケージや建装材から、エッチング技術等の応用によるエレクトロニクス関連部材(液晶ディスプレイや有機ELディスプレイ用の部材、半導体製品用フォトマスク等)へ、そして電池部材等のエネルギー分野やバイオマーカー等の医療分野へと広げている。戦後このような事業領域の拡大を、DNPは「拡印刷」と呼び、それは広く通称されるようになった。
     例えば、包装物への印刷技術は、1970年代には、飲料などを無菌環境下で充塡・包装する製品(システム)を開発し、1994年にはDNP により、試験管のような小さな材料(プリフォーム)をPETボトルの形に成型加工しながら無菌充塡する技術にまで発展させた。現在では粘度の高いデザートや流動性食品までも無菌充塡包装が可能となり、ここに、戦後、パッケージの印刷からスタートした「拡印刷」という継続的イノベーションの一つの到達点を見ることができる。
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  •  ドネペジル塩酸塩(商品名アリセプト)は、エーザイが創出・開発したアルツハイマー型認知症(AD)治療薬である。ADの治療薬としては、米国で最初に承認されたタクリン(肝毒性が強くあり広く使われていなかった)に次ぎ2番目に開発承認された治療薬であるが、事実上、ADへの有効性、ならびに...
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     ドネペジル塩酸塩(商品名アリセプト)は、エーザイが創出・開発したアルツハイマー型認知症(AD)治療薬である。ADの治療薬としては、米国で最初に承認されたタクリン(肝毒性が強くあり広く使われていなかった)に次ぎ2番目に開発承認された治療薬であるが、事実上、ADへの有効性、ならびにその有用性が確立された世界初のAD 治療薬である。
     1970年代に神経伝達物質の研究からADの病態が解明され始め、AD患者脳ではコリン作動性神経が障害を受けていることが明らかとなった。ドネペジル塩酸塩は、アセチルコリンエステラーゼ(記憶や学習に関係する神経伝達物質アセチルコリンを分解する酵素)を阻害する薬理作用を有し、脳内コリン作動性神経を賦活することにより、ADにおける認知症症状の進行を抑制する治療薬である。
     米国ならびに英国では1997 年、日本においては1999 年から販売され、ドネペジル塩酸塩は世界90カ国以上で承認されている。日本とフィリピンにおいては、レビー小体型認知症の適応も取得している。
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  •  石炭火力発電は、コスト面では優れるもののCO2の発生量が多く、省資源、地球環境対策の面から高効率化が不可欠とされ、これまで蒸気条件の高温化・高圧化によって効率向上が行われてきた。
     我が国は1980年代初めに電力会社、プラント・素材メーカーが一体となり、長らく世界...
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     石炭火力発電は、コスト面では優れるもののCO2の発生量が多く、省資源、地球環境対策の面から高効率化が不可欠とされ、これまで蒸気条件の高温化・高圧化によって効率向上が行われてきた。
     我が国は1980年代初めに電力会社、プラント・素材メーカーが一体となり、長らく世界の技術をリードしてきた欧米でさえ実用化できなかった「超々臨界圧発電」(USC)の開発に取り組み、国も、国家プロジェクトとして推進した。
     これらの成果を踏まえ、1993年に中部電力碧南3号で再熱蒸気条件593℃が採用され、これを皮切りに、1997年、電源開発松浦2号では世界で初めて主蒸気、再熱蒸気ともに593℃が採用された。その後も継続的に向上が図られ、電源開発磯子2号では主蒸気圧力25MPa、蒸気温度600/620℃を実現し、現在も世界最高レベルにある。さらに、我が国は、優れた運転・管理ノウハウにより、長期にわたりその性能を維持している。温暖化対策が焦点となる中、USC技術の適用により、省資源と合わせ大幅なCO2の削減が可能となることから現在メーカー、電力会社等は、多くの国々にその高い技術力と信頼性を武器にシステム輸出等を推進しており、着実に成果を挙げている。
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