公益社団法人発明協会

現代まで

拡印刷(PETボトル用無菌充填システム)

イノベーションに至る経緯

(1)印刷技術と日本の印刷業

 近代印刷術の祖となったグーテンベルグが金属活字による活版印刷を開発したのは15世紀央であった。聖書をはじめ大量の出版物の普及を可能にしたことにより、ルネサンスや宗教革命に大きな影響を与えている

 日本における本格的な印刷技術の導入は、幕末から維新期において急速にみられるようになった。オランダ語通詞であった本木昌造による活字印刷の誕生や、1855年に幕府が設立した洋学所でも、欧州の書物の翻訳出版のため活版印刷が手掛けられた

 明治に入ると、出版物や新聞の発行が活発化し、これによる印刷需要は急増し、民間印刷会社が相次いで設立された。現在の大日本印刷の前身・秀英舎も、明治9(1876)年の設立である。一方、政府は紙幣の印刷を自国で行うため、大蔵省紙幣司(現・国立印刷局)においてその海外技術の習得に努力し、明治10(1877)年には第1号1円紙幣を製造している。この先端的な凸版印刷技術(エルヘート凸版法)を習得した人々が、民間事業会社として設立したのが現在の凸版印刷で明治33(1900)年に設立されている。

 グーテンベルグの登場後、欧米では次々に画期的な印刷技術が開発されてきた。17世紀には銅板を腐食させて版とするエッチング技術が、18世紀には石版を用いた平版のリソグラフィー技術が、そして、19世紀から20世紀にかけては凹面製版によるグラビア印刷技術やリソグラフィーの発展型であるオフセット印刷技術、そして孔版によるスクリーン印刷技術が開発される。これらは20世紀前半の日本にも導入され、多くの印刷関係者の努力によって色彩豊かなカラー印刷など新たな世界を切り開いていった

 戦前における日本では、印刷物の対象素材は基本的に出版を中心とする紙が中心であった。玩具や製缶用のブリキ印刷そして紙器への印刷技術も開発されていったが、戦火の拡大は、この分野での生産規模を次第に縮小させ、その本格的な拡大は戦後まで待たざるを得なかった

 戦後、活字に飢えた人々によって出版、新聞需要は一気に増加し、印刷需要もそれに呼応して急増した。しかし、設備の多くが被災によって失われ、他方で激しい労働争議が各社で続発し、多くの印刷企業の経営は赤字続きの厳しい状況に置かれるところとなった。大日本は労使紛争を経て職員の協力を求め、昭和26(1951)年、むこう5年間での経営健全化を目指して、「再建五カ年計画」を発表した。紙器・紙以外の媒体への印刷分野(特殊印刷)への進出、証券・ビジネスフォーム印刷といった商業印刷受注の確保など、積極的な製品の多角化を目指し大胆な設備投資を実施した。『大日本印刷株式会社百三十年史』には、この五カ年計画について「その後の当社の発展を支えた基本戦略としての『労使協調』、『営業第一主義』、『拡印刷』がうたい込まれていた」と記述されている

 凸版は、困難を極めた労使紛争に直面したが、創業以来の精密印刷技術を戦後も継承し、政府による新日銀券、郵便切手や宝くじなど偽造の許されない分野での印刷需要の多くを獲得し、また、証券などセキュリティーが求められる商業印刷分野でもその技術の高さによって大きな市場を獲得していった。しかし、1958年、それまでの業界トップの座を大日本に譲ることとなり、その危機感から昭和35(1960)年「経営5カ年計画」を策定し、①受注産業の「壁」の打破、②出版から新たな需要に応じた技術の応用(商業印刷とパッケージ)、③マーケティングやセールスプロモーションの推進、④製版技術等の印刷技術の他産業への展開といった方針を鮮明にしたのである

 両社は、この方針のもとにその後一貫して多様なニーズにこたえる製品、サービスを次々に開発していった。

 そして、例えば凸版においては上記「経営5カ年計画」から40年後の2000年、同社の創業100年に際し当時の凸版の社長・足立直樹は、その社史『凸版百年』の巻頭において次のように述べている。

 「未知なる対象への挑戦、(中略)、印刷技術の応用開発を進めることによって、フレキシブル・パッケージや超精密電子デバイス製造に代表されるような、様々な分野への“拡印刷”事業を展開してきたのである」

(2)拡印刷の系譜

 21世紀現在(2017年)の印刷産業は、終戦時に比べて格段に広範な分野の事業を行っている。大日本、凸版においては、共に、これらを情報コミュニケーション、生活・産業そしてエレクトロニクス部門ないし分野として統括整理し、事業を展開している

 それぞれの部門・分野(以下「分野」)における戦後の発展過程、すなわち“拡印刷”の展開は以下のようになる。

 

(情報コミュニケーション分野の拡印刷)

 終戦直後、活字に飢えた人々は書籍・雑誌の出版を強く求め、印刷業界も焼け残った生産設備に加えて設備の拡張を行い時代の要請にこたえていった。1950年代には短時間で大量の印刷が求められる週刊誌ブームの時代が到来し、60年代は高度成長による帳票類の大量需要が生まれた。大胆な設備投資によってこれらに対応した大日本と凸版は、その後の日本の印刷産業組織において二大企業として切磋琢磨する存在となり、受注対象企業を広範な分野に広げる一方、例えば高度成長期に行われた東京五輪、大阪万博などの大イベントにあたっては、その広報活動に参加して情報発信機能を強化するとともに、メディアプロデュース活動やマーケティング更にはイベント企画サービスなどに通じる経営資源を蓄積させていった。

 70年代から80年代には、紙媒体にとどまらない新たな情報伝達手段の大量生産を担う産業となった。オフセット印刷技術や、昇華転写技術などに加えてデータ加工技術を駆使して磁気カードやホログラム、さらにICカードの生産技術を確立し、大量生産体制を整えていったのである。90年代に入り、インターネット時代を迎えると、それまでに培ったコンピューター関連技術を活用してホスティングサービス事業やオンライン出版事業を展開した。さらに21世紀には、カードビジネスによって蓄積されたデータ処理技術を駆使したセキュリティー関連のソリューションビジネスや、電子書籍、地図検索サービス、電子ペーパー事業、さらに近年では電子チラシやデジタルカタログなど紙媒体に代わる新たな情報コミュニケーションメディアビジネスを展開している。

 

(生活・産業分野の拡印刷)

 大日本、凸版をはじめとする印刷産業は、50年代初めから印刷対象素材を、インキ使用技術の開発、向上などによりセロファン、プラスチックそして昇華転写技術によるポリエステル繊維など紙以外の分野へ広げることに成功し、さらに、グラビア印刷技術を使用した鋼板への直接印刷や壁紙用の木目印刷など硬質素材分野の印刷にも成功した。「水と空気以外は何でも印刷する」との認識は日本中の多くの印刷業が共有するまでになり10、印刷がカバーする製品分野は急速な拡大を遂げていった。包装分野でも、上記プラスチック印刷の成功がインスタントラーメンの包装に使用されて大ヒットの一因となるなど、とりわけ技術的に困難な軟包装分野での積極的な印刷技術開発が次々になされていった。さらに、印刷から進んで、印刷対象素材そのものの開発にも挑戦し、60年代には、ラミネートチューブやプラスチックブロー成形容器などのフレキシブル容器、70年代に入るとレトルトパウチや液体紙容器においても独自の製品を開発した。そして、90年代初頭に凸版が開発した透明蒸着バリアフィルム「GL FILM」は、食品用のみならず産業資材から医療分野等幅広い分野で使用される包装素材となった。

 一方、1976年にはコーヒークリームの小分けパックの無菌充填システムが大日本によって開発された。このシステムは発展し、1997年には、PETボトルに成形する前のプリフォームを工場でふくらませながら無菌充填する「インライン成形方式」を実用化して食品包装に画期的なシステムをもたらすこととなった。

 

(エレクトロニクス分野の拡印刷)

 印刷産業が有する製版やエッチングなどの印刷技術は、その精密加工性から50年代前半、テレビ受像機用のブラウン管やトランジスタ製造のための微細加工技術として注目されるところとなった。大日本は1958年にはテレビのブラウン管に欠かせないシャドウマスクの試作にフォトエッチング技術を活用して成功し、60年には凸版が写真製版技術を高精細なパターンの形成に応用して、トランジスタマスクの開発を成功させている。さらに、半導体製造に欠かせないフォトマスクはグラビア印刷技術の応用によるフォトリソグラフィー技術によって、1959年に大日本が最初の試作に成功している。半導体製造に欠かせないプリント基板や、積層セラミックコンデンサーの回路形成には孔版印刷技術の一種であるスクリーン印刷技術が応用されている。これらのエレクトロニクス部品の高度化、生産体制の整備は20世紀末まで大日本、凸版の2社が世界をリードし、半導体メーカー自らによるその内製化が進んだ2000年時点でも、例えばフォトマスクにおける両社の世界シェアを合計すると33%に達している11。80年代後半には日本の液晶等薄型ディスプレイが世界市場を席巻したが、この最重要部品の一つであるカラーフィルターの製造も71年にビデオカメラ撮像管用のそれが凸版により開発されている。その開発技術もフォトリソグラフィー技術の応用によって実現されている。現在、急速に増大しつつある有機ELのカラーフィルターやメタルマスクもこの印刷技術を用いて両社が積極的に開発に取り組んでいる。

 

 このような印刷技術を応用して極めて多様な分野での製品、サービスの開発を行い新たな市場を開拓してきた印刷企業は、世界に大日本、凸版の2社以外には見当たらない。

(3)イノベーションの背景

 印刷産業は、かつてはその売上規模や従業員数に比して「表舞台に登場することの少ない産業であった」12。その一つの要因には「受注産業」として「完成品ではなく得意先の中間製品を製造させてもらう黒子産業だから」13といった認識が業界のみならず広く一般にも浸透していたように思われる。戦後1955年から大日本の社長を務めた北島織衛は、「私たちの育った時代には、印刷業というものは、受注産業という特質があったかもしれないが、(中略)得意先に行っても必要以上に卑屈になったり、(中略)これ命従う、という(中略)みじめさとか、つらさは、今の若いものには味わせたくない」14と述べている。また、前述のように凸版は、60年の「経営5カ年計画」において「受注産業の壁を打ち破る」ことを第一の目標に掲げていた。「拡印刷」はこの壁に対する業界共通の戦略的な考えであった。

 大日本の社長・北島義俊は2006年、その社史『大日本印刷百三十年史』の巻頭において、「創業から昭和20年までの約70年間は、出版印刷を専門に行ってきましたが、戦後、印刷技術を応用発展させ、(中略)一見すると印刷とは関係がないように思われるものもありますが、(中略)印刷技術の応用発展、すなわち『拡印刷』によって業態もかつての『印刷業』から『総合印刷業』『情報加工産業』『情報コミュニケーション産業』へと変貌を遂げてきました」と述べている15

 そして大日本、凸版という2社は、ライバルとして切磋琢磨するなかで、技術の向上、市場の開拓、需要の探求などにおいて相乗的な効果を生んできた。共に、開拓してきた拡印刷の分野は、前述のように同じ名称の3部門・分野体制に発展しているが、その売上対象製品範囲の多様性とともに、売上額においても両社が1位を争ってきた。2017年の単体決算では大日本が、連結では凸版が1位を占めている。世界的に見ても凸版、大日本に並ぶ規模の総合印刷会社といえるのは米国のダネリー社であるが、同社は2016年分割されて単体売上では大日本が世界一、第2位が凸版となる。しかも、ダネリー社はエレクトロニクス部門を有していない16

 受注産業であることにより時には経験せざるを得なかった屈辱感を挑戦者としてのエネルギーに変え、受注産業であるからこそ多方面の多様なニーズに接する機会を捕らえ、それを積極的に取り込むこと、それによって出版のみならず受注対象を拡大し、「他に類をみない発展形態」17(前掲北島)を実現してきたのが、日本の印刷業であったといえよう。 

 「拡印刷」は戦後の印刷業が受注産業の特性をむしろ活用しつつ、そのマイナス面を打ち破って連続的なイノベーションを実現させる道しるべとなった概念である。そして、21世紀に入り、凸版は「印刷テクノロジーで、世界を変える。」との理念のもとに受注産業から創注産業への展開を目指している。大日本は自身が“変化そのもの”を生み出すべく、印刷(print)と情報(1nformation)を掛け合わせて発展してきた強みを生かし、更なる革新的な価値創出をしていく「P&Iイノベーション」を追求している。


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