公益社団法人発明協会

安定成長期

オーロラビジョン

イノベーションに至る経緯

 オーロラビジョンは、太陽光下でフルカラーのビデオ映像を表示できる世界初の大型表示装置である。三菱電機は、構想からドジャースタジアムにおけるデビューまで約2年の短期間で実用化した。ここでは、オーロラビジョン誕生の背景と経緯について紹介する。

(1)開発の背景

 三菱電機長崎製作所では、第二次オイルショックが船舶用電機品事業を直撃し、新分野への進出が求められていた。当時の船舶技術者は、日本初のマイコンショーに舶用機器のマイコン応用品を出展するなど新技術の導入には積極的であったが、地理的ハンディゆえ新分野につながる情報が不足していた。当時の本社には、システム商談に対応する部門に各種の情報が集まることから、1978年6月に新事業創出の期待を託された長崎の船舶技術者が本社に駐在することになった。この異例の人事には、新分野の開拓を奨励していた当時の所長のリーダーシップと、技術者の派遣を実現した課長の行動力、さらに、派遣される技術者の並々ならない決意があった。

 オーロラビジョンの開発は、このような背景の中で開始された。開発の契機となったのは、国内球場におけるスコアボードのフルカラー化の商談である。屋外用大型表示装置は、競技場におけるスコアや広告の表示に白熱電球を配置した電光掲示板が使われており、電光掲示板の一種にモノクロのビデオ表示が適用され始めたころである。当時、本社において、この分野が伸びると判断され、技術的な検討が開始された。当初、発光素子として白熱電球を配列する案が評価された。白熱電球は、カラー化すると発光効率が大幅に低下し、太陽光の下で十分な輝度を得るには、消費電力が大きすぎてスクリーンを構成する材料が熱に耐えられなかった。計画が難航する中、長崎の船舶技術者が小型のCRTを配列する案を着想した。CRTは発光効率が高く、大型表示装置の発光素子に適用すると、消費電力が白熱電球の約10分の1に低下する。早速ブラウン管技術者が加わり、計画が動き始めた。

(2)試行錯誤の開発

 開発は、本社を推進役として社内の技術者が組織を超えて取り組んだ。光源管は京都製作所のブラウン管技術者、表示の制御は中央研究所の技術者、スクリーンは新事業に挑戦する長崎の船舶技術者が主な役割を果たした。

 発光素子は、直径約28mmの小型CRTである。開発を推進する本社の部長が、否定的な意見もある中で開発費を捻出し、赤・青・緑の光の三原色に対応した3種類の光源管を開発し、縦横約2×1mのプロト機を試作した。プロト機の評価は、課題も見えたが新たなアイデアも生まれ、開発が大きく前進した。例えば昼間の点灯試験では、太陽光が直射すると光源管の表面の反射が大きく、画像が全く確認できなかった。そこで各光源管にひさしで影をつくり、さらに、光源管のガラスを発光色と同じ色に着色し、発光色を透過させつつ外光の反射を抑制することで屋外における画像のコントラストを確保した。光源管の配列は、中央研究所の技術者がシミュレーション画像で画質を評価し、緑2本、赤、青各1本の4本から成る画素構造のQuad配列が適していることを見いだした。この構造は32本の光源管から成る表示ユニットをタイル状に配列する大型スクリーンの開発に役立った。

(3)超短納期の初号機出荷

 オーロラビジョンの初号機は、野球場での有用性を高く評価した米国ドジャースタジアムの商談となった。1980年2月にドジャースタジアムの会長が長崎で試作機を視察し、受注が正式に決定した。7月に開催される全米オールスターゲームに使うことが条件であり超短納期の受注である。光源管は、短期間での量産立ち上げとなり、急ごしらえの設備で手作業も多く、退職した元従業員などの協力も得て急場をしのいだ。それでも初期の製造能力では、光源管の本数が不足することから、オールスターゲームではサイズを縮小して運用し、その後正規サイズに更新された。

 スクリーンを担当する長崎製作所においても、大型スクリーンに必要な部品類、金型類の新規設計・製作、信頼性の検証、多彩なコンテンツを表示できる画像処理装置の開発など、超短納期受注ゆえに解決すべき課題が山積しており、技術者は毎日、遅くまで残業が続いた。米国への出荷は、安全規格への対応も必要であり、長崎製作所の部長以下、現地出向中の担当者も巻き込み、三菱電機の総合力が発揮された。スクリーンは、時津工場(当時)の奥に設置された鉄骨構造物に組み上げられ、5 月の下旬に初めて大画面の画像を表示して画質を検証し、ドジャースの副社長の立会い検査を受けて直ちに米国へ空輸された。

(4)運用ソフトの開発と設置の効果

 オーロラビジョンは、ドジャースタジアムに据え付けられると、表示を制御するコントロールルームの仕様について、球場関係者から厳しい要求があった。仕様の実現に向けて、船舶技術者たちが現地でコントロールルームの設計、組立に取り組んだ。ここでは外部のサポートが、得難い洋上における問題解決の経験豊かな技術者の経験が役立った。コントロールルームには、ビデオ機器および文字・グラフィック画像のコントローラーが配備され、これらをコンピュータでー制御し、観客を盛上げる運用ソフトを作り上げた。優れた画質と球場のニーズに合致した仕様を満足することでオーロラビジョンが誕生した。

 オーロラビジョンは、$3 millionの価格が当時の複数の新聞に開示され、殊更、高価なシステムであることが印象づけられた。それでもスタジアムへの集客と特に設置翌年の1981年、ドジャースの16年ぶりのワールドシリーズ優勝に貢献したことで、優れた設置効果が認知され、他球団への導入にもつながり、国内外で本格的に市場が立ち上がった。

(5)オーロラビジョンの発展

 オーロラビジョンは、ドジャースタジアムへの納入を契機に新事業として立ち上がった。スクリーンをコンテナ化する案が生まれて据付工事を簡素化し、当時未熟であったソフトウエアの開発は、香港の競馬場において海外のソフトウエア会社と協力して多様化するニーズに応え、充実したコンテンツを提供することで、その後の公営競技上向け市場の基礎を築いた。大型映像表示装置の分野は、各社の参入も相次ぎ、オーロラビジョンには近距離から映像を楽しむことができる新たな応用が求められ、技術開発が活発化した。

 1982年、真空容器内に赤・青・緑の発光部を格子状に形成した蛍光表示管を配列する近距離型オーロラビジョンの開発に取り組み、画像の表示に成功した。この開発は、任意の表示デバイスを大型映像表示装置に適用する独自の表示方式を実現し、1986年の新発光素子FMCRTの開発に結実した。FMCRTは、解像度を飛躍的に向上させてオーロラビジョンを屋外の高輝度用途から屋内の高解像度用途まで幅広いニーズに応え得る製品とし、市場を拡大した。1993年に青色LEDが実用化されると、LEDの3原色がそろい1995年ごろから大型表示装置への適用が始まった。コストの低下とともにオーロラビジョンへのLEDの適用が本格化し、高画質の大型映像表示装置として市場の成熟に貢献した。最近は、ギネス級の超大型・高精細の表示装置が各地に設置されており、スポーツ観戦やエンターテインメントに欠かせない製品に成長した。世界中から人々が集まるニューヨークのタイムズスクエアでは、ビル壁面に多数のディスプレイが設置され、街の景観にも影響を与えている(図2)。

図2 タイムズスクエアの4Kオーロラビジョン

図2 タイムズスクエアの4Kオーロラビジョン

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