公益社団法人発明協会

安定成長期

三元触媒システム

イノベーションに至る経緯

(1)三元触媒システムの発明

 三元触媒は1970年代初頭に米国エンゲルハルト社のカール・D・キースとジョン・J・ムーニーにより発明された2。この触媒は排出ガスに含まれる3つの有害物質を同時に除去できるという画期的なものであったが、触媒が有効に作用するためにはエンジンに供給する空気と燃料の比率をいわゆる理論空燃比近くに制御することが必要であった。このためには、排出ガスの空燃比を正確に検知し、検知した情報をECUにフィードバックし、理論空燃比とするために必要なガソリンの量を計算し、ガソリンを正確に供給できる電子燃料噴射装置が求められた。

 電子制御による最初の燃料噴射装置は、1957年に米国ベンディックス社により開発された。この噴射装置は、エンジンの出力の向上を目指して開発されたものであったが、ドイツのロベルト・ボッシュ社(以下「ボッシュ社」と呼ぶ)とフォルクスワーゲン社はこの装置が空燃比制御を飛躍的に向上できることに注目した。ボッシュ社はベンディックス社から技術供与を受け、トランジスターにより制御される燃料噴射装置を開発し、1968年型フォルクスワーゲンに搭載した3

 排出ガス中の酸素濃度を検知する「酸素センサー」もボッシュ社により手掛けられた。ボッシュ社は電池製造のための溶融鉛の酸素比を測定する技術を用いてその実用化を試みたが、プロトタイプ発表後も開発は困難を極めた4。多くの試行錯誤の末、1975年に登場した酸素センサーもそのサービス寿命は250時間にすぎなかった5

 これらの技術をシステム化した三元触媒システムは、スウェーデンのボルボ240に搭載され、1976年の秋に米国市場に投入された6。当時、カリフォルニア州大気資源局(CARB)は、この車を「米国で最もクリーンな車」と認定したが7、耐久性、信頼性、コスト等、その普及のためには多くの課題が残されていた。

(2)三元触媒システムの実用化

①産業界の動向

 1970年に米国で「改正大気清浄化法」(Clean Air Act Amendments of 1970:マスキー法)が成立し、自動車排気ガス中の環境汚染物質の規制が更に厳しいものとなった。米国に続き我が国でも環境庁が「自動車排出ガス規制」を告示し、米国と同水準の基準値が定められたことから、日本の自動車メーカーにはこの基準値を克服することが避けては通れないものとなった。

 自動車メーカーはそれぞれ独自の方式を用いて対応技術の開発を進めた。本田技研工業は1972年に複合渦流調速燃焼エンジン(「CVCC」)を開発し、米国1975年基準値をクリアし、翌年、東洋工業(現「マツダ」)もロータリーエンジンと改良したサーマルリアクター8との組み合わせにより対応し、三菱自動車工業は噴流制御超希薄燃焼方式(MCA-JET)9、富士重工業は二次空気導入式燃焼制御方式(SEEC-T)10を開発した。当時、国内乗用車市場の8割以上を占めていたトヨタ及び日産のフルラインメーカーにとって、全車種においてこの条件を乗り越えることは容易な問題ではなかった。両社はホンダやマツダの開発したものを含む対応技術を一つ一つ精査し、全車種をカバーできる最適な組合せを模索した。

 

②トヨタ自動車の取組

 トヨタは1965年に排出ガス対策を検討するプロジェクトチームを社内に設置した。プロジェクトチームの一部は、その後東富士自動車性能試験場に移り、サーマルリアクター、触媒、排出ガス再循環装置(EGR)11、アフターバーナー12などの開発と燃焼制御の研究を続けた13

 デンソー(当時「日本電装」)は、技術提携をしていたボッシュ社から「エンジンへの『ガソリン噴射』が馬力の向上だけでなく、空燃比の調整を容易にする効果もある」という情報を得ていた14。デンソーは、1957年に既にスポーツカーのための機械式ガソリン噴射技術の研究を行っていたトヨタとガソリン噴射システムの共同研究を始めた15。その10年後、デンソーにボッシュ社が電子制御式燃料噴射システムを開発し、このシステムを「フォルクスワーゲンVW1600TL」に搭載するという情報がもたらされた。これが引き金となり、トヨタの電子制御式燃料噴射システム(EFI)16の開発もスタートした。開発の中で、エンジン制御の要となるECUをボッシュ社と同じグループ噴射方式とするか、独立噴射方式とするかが議論となったが、当時のボッシュ方式は、トランジスター、抵抗、コンデンサーという簡単な回路で制御するものであったことから、将来のIC化も見据えていたトヨタとデンソーは、独立噴射方式を採用し、複数のパルス発生回路を制御する独自の方式を目指すことになった17

 1970年の夏ごろには、産業界も触媒を使うことを意識するようになり、当時の通商産業省も、すべての触媒メーカと自動車メーカとの議論の場を設けるようになっていた。この年の暮れ、トヨタは石油精製の触媒で実績のある米国の触媒メーカーとの接触を開始した。このメーカーから触媒を購入し、その評価を始めると、すぐに触媒のペレット(粒子)が振動で磨滅するという不具合が発生した。この問題に対して、触媒メーカーは触媒の分析を行うことを拒否しただけでなく、触媒が入ったコンバーター(容器)を開けることさえ許さなかった。トヨタは1973年までに米国政府の認証を得ることを目指していたことから、このような事態が生じる外部調達では当初のスケジュールを達成できないと判断し、豊田中央研究所の協力を得て触媒を内製することを決断し18、さらに、1978年規制への対応は「触媒方式」を主体として取り組むという方針を決定した19

 1972年、ボッシュ社が酸素センサーの開発に成功したとういう情報がデンソーに入った。トヨタとデンソーはその有効性を検討し、翌年には電子制御式燃料噴射システムと酸素センサーを組み合わせれば1978年規制値をクリアできるポテンシャルがあると判断した。直ちにプロジェクトチームが編成され、酸素センサーの先行開発が始まった。

 酸素センサーの開発は予想以上に困難を伴うものであった。センサーの電極は常に高温の排出ガスにさらされるため、初期の試作品は、電極の剥離や素子割れを起こし、耐久性を満足させることができなかった。トヨタは素子の基礎的な物性調査と劣化解析を豊田中央研究所に依頼するとともに、デンソーと共同で素子そのものの熱衝撃に耐える構造の設計・開発と各種の特性評価法を開発した。これにより、1975年には量産時の信頼性を確保しつつ、優れた性能と耐久性をもつ自動車用酸素センサーのプロトタイプが完成した20。並行してトヨタは1972年から触媒に使用するプラチナやパラジウムなどの貴金属を確保するため、産出国との直接購入のための接触を始めた。

 企業の存亡を懸けて開発されたトヨタの三元触媒システムは、トヨタM-EU型エンジンに採用され、1977年6月に「クラウン2000」に搭載され発売された。翌年には三元触媒システムを搭載した「マークⅡ2000」が発売され、更には「チェイサー」にも搭載された。

 「自動車という以上、少なくとも従来の性能を維持しながら、しかも規制数値を達成しなければ意味がない」という豊田英二社長の信念はここに達成された21

 

③日産自動車の取組

 日産も1965年ごろには自動車排出ガス対策を本格化していた22 。早い時期から燃料噴射システムが将来の排出ガス対策に欠かせない技術になると考えていた日産は23、燃料噴射装置の開発に着手した。1969年に始まった最初の「電子制御式燃料噴射システム」(EGI)の研究開発は、日立製作所(以下「日立」と呼ぶ)との共同研究の下で行われ、ボッシュ社が開発した吸入マニホールドの圧力を測定して噴射量を決める方式の研究が開始された。この研究の成果は、ボッシュ方式で1972年に「ブルーバードSSS-E」に搭載され、商品化された24。続いて、ボッシュ社の別の方式である吸入空気量計測センサーを使用して電子的に燃料噴射量を制御する方式についても研究が続けられた。

 1971年にボッシュ社が酸素センサーの可能性について提案を行うと、日本でも酸素センサー及びこれを用いた三元触媒システムが注目されるようになる。日産はそれまで酸化(二元)触媒を中心に研究を進めていたが、1974年ころから、新たに三元触媒についても研究開発を開始し、酸素センサーの応用研究も開始した25。加えて、開発を始めていた燃料噴射システムと酸素センサーを組み合わせたフィードバック制御方式の研究も始めた。

 日産が三元触媒システムを選択したブレークスルーは、実用的「酸素センサー」が開発されたことにあったと言われる26。初期の酸素センサーは、高温にさらされることから信頼性が十分なものではなく、表面にクラックが入り、はげ落ちてしまい、長期間もたないということで必ずしも高い評価は得られていなかったが、コーティングの改良やセラミックスの製造方法の開発によりこの問題が解決できることが明らかになるとともに、三元触媒についての評価は一気に高いものとなった。

 新たに採用を予定していた技術の目途も立ったことから、日産は1977年に車種ごとの排出ガス浄化対策の基本的方針を整理した。この中で三元触媒システムは「プレジデント」や「セドリック」などの大型車に搭載することが決まり、「ブルーバード」や「スカイライン」などの中型車には新たに開発した急速燃焼方式(ファーストバーン)27を搭載、「サニー」や「チェリー」といった大衆車には、これまで開発してきた酸化触媒方式と燃焼を改善したエンジンにより対応することとなった。

 日産はY-44エンジンに三元触媒システムを採用し、1977年9月にこのエンジンを搭載したプレジデントを市場に投入した。

 プレジデントに搭載された三元触媒システムはアナログ式のもので、センサーの検出量の変化を瞬時に演算結果に反映できる利点を有していたが、演算式の自由度が低く、エンジンの運転状態に応じて演算式を緻密に変更することが難しいという問題も有していた28。日産の研究部門と日立の自動車機器開発グループは、1973年から自動車の電子制御へのデジタル演算技術適用の共同研究が始めていた29。その3年後、米国GEがマイコンを用いた電子点火時期制御装置を市販車に搭載して発売すると、日本でも自動車へのマイコン活用可能性について議論されるようになる。

 1977年3月、日産の研究部門、商品開発を担当する設計部門とエンジン制御部品のサプライヤー(ユニシアジェックス、日立)を加えた共同開発チームが編成された。このチームのターゲットは、マイコンを使った精密なエンジン制御装置を開発し、排気規制のクリアと高い動力性能を同時に実現することであった。チームの発足と同時に、日産は日立に専用の周辺用ASIC(特定用途向け集積回路)を発注した。日立は全社を挙げてこの開発に取り組んだ30。この成果は、1979年に世界で初めてのデジタル制御によるエンジン集中制御コントロールシステム(ECCS)31として日産「セドリック」に搭載され、商品化された。ここにコンピューター制御による三元触媒システムが実現した。

M-EU型エンジン

M-EU型エンジン

画像提供:トヨタ自動車

(3)三元触媒システムの普及と市場の拡大

 1971年にモノリス担体(ハニカム型)の開発を始めた日本ガイシは、その押出法による製造技術の開発に成功し、デンソーもこれに続いた。これらの技術開発には日本の伝統的ファインセラミックス技術が取り入れられたとも言われている。各社は更に耐熱衝撃性を中心とした技術開発を進め、ハニカム型が十分な信頼性を持つようになると、それまでペレット型を採用していた日本の自動車メーカーも、次第にハニカム型を採用するようになる。その後の三元触媒コンバーターはハニカム型が主流となり、この分野の世界市場は、日本ガイシ、デンソーと米国のコーニング社がほぼ独占するものとなった32

 三元触媒システムが、世界中の自動車メーカーにより、広く採用されるようになり33、また、三元触媒システム技術に関連した多くの特許問題が解決すると、国内外の多くの企業が三元触媒システム関連市場に参入し、市場は急速に拡大した。2005年の「自動車用酸素センサー」の世界市場規模は1800億円、同じ年の「自動車用触媒担体」は1000億円とみられている34。この中で、日本企業の占有率は、酸素センサーが67%、触媒担体が50%と圧倒的な強みを示している。

 エンジンの燃焼制御に始まった自動車のマイコン制御技術は、1980 年代にはシャーシ系、ボディ系、情報系(運転室内)へとその対象を広げ、現在では自動車のほとんどの機能が多数のセンサーとコンピューターによりコントロールされるようになっている。三元触媒システムは、自動車のエレクトロニクス化をけん引したものでもある。

 


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