公益社団法人発明協会

高度経済成長期

接ぎ木(野菜)

イノベーションに至る経緯

(1)農家が拓いた野菜の接ぎ木栽培

 我が国で、初めて野菜の接ぎ木栽培の実用化に成功したのは、兵庫県明石郡林崎村(現・明石市林崎町)の農家竹中長蔵で、スイカをカボチャの台木に割り接ぎしたのが最初という。1927年のことで、産地に蔓延する土壌病害、つる割れ病の回避のため、抵抗性をもつカボチャの台木にスイカを接ぐことを考えたのである。兵庫県のスイカ栽培はこれを契機に急増し、1932年には1350ha(全国1位)に達し、明石スイカの名声は全国に及んだ。

 とはいえ、竹中の実用化の以前から、試験場では接ぎ木用耐病性台木の選抜試験が行われていた。なかでも成果をあげたのは、スイカ産地の奈良県農試技師村田寿太郎と千葉県農試技師渡辺誠三、奈良県立添上農学校(現・添上高校、天理市)の立石恆四郎校長である。竹中の成功の背景に、彼らの地道な努力があったことは十分想像できる。彼らの努力により1935年ころには、ユウガオ(カンピョウ)台木が選定され、普及していった。

(2)様々な接ぎ木法

 ここで野菜の主な接ぎ木法について述べておこう。これこそ名も知れぬ農家や農業技術者たちが成し遂げた技術革新だからである。図2に、おもな野菜接ぎ木の3方法を示した。最も早くから実施されていたのは「割り接ぎ」で、竹中のスイカはこの方法によっている。つぎは「挿し接ぎ」で、戦前に実用化された。最も遅いのは「呼び接ぎ」で、戦後の1964年ころから普及している。それぞれの接ぎ木法には得失があり、スイカでは挿し接ぎ、キュウリ・メロンでは呼び接ぎ、ナスでは割り接ぎ、トマトでは呼び接ぎと割り接ぎが一般的である。

図2 野菜の主な接ぎ木法

図2 野菜の主な接ぎ木法

出典:山川邦夫「野菜の生態と作型」(農山漁村文化協会、2003年)

(3)スイカ以外にもつぎつぎ広がる

 スイカに次いで、接ぎ木栽培が検討されたのはナスである。だが、まもなく太平洋戦争が勃発し、じっさいに広く普及したのは戦後の1955年ころからであった。1958年には京都府農業試験場が土壌病害に加えて長期間草勢を維持する効果のある台木としてヒラナス(アカナス)を選定、関西地方で普及した。

 キュウリの接ぎ木栽培は1960年ころ実用化した。1959年に千葉県農試の石橋光治らによって、カボチャ「白菊座」「新土佐」などの台木がつる割病の防除や低温下の伸長促進・連作対策に有効であることが認められてからである。ただし全国的に普及したのは、1964年に千葉大学園芸学部の藤井健雄によって、呼び接ぎクリップ止め方式の簡易接ぎ木技術が開発されてからである。1984年にはナント種苗によってブルームレス台木が育成され、今日ではほとんどの産地でブルームレス台木が使われている。

 メロンの場合は、つる割れ病と低温伸長性の強化を目的に、1960年ころから接ぎ木栽培が行われている。メロンは他の果菜類以上に品質が重視されるため、台木の選択が難しく台木の選択が制限された。現在はほぼ100%接ぎ木栽培の温室メロンは1964年に静岡県農試の神谷円一らが取り組んだ研究が原点だろう。

 トマトの場合、1960年代後半には一部で呼び接ぎが行われていたが、じっさいに実用化したのは、青枯れ病抵抗性台木が開発され、実用化されるようになった1970年代になってからである。最近は長期多段とりの促成栽培が増えたため、高温性の病害青枯れ病や低温性の病害根腐れ萎ちょう病にも抵抗性をもつ台木品種が育成されている。

(4)セル成型苗がもたらした幼苗接ぎ木法

 1980年代の後半になると、今日世界的な広がりをみせている幼苗接ぎ木法の開発が求められるようになった。セル成型苗が登場したからである。プラスチックなどの成型連結ポットで育苗する方式で、プラグ苗とも呼ばれる(図1参照)。生育が均一で、管理が容易、大量生産に向き、移植も容易であるため、種苗産業を中心に急速に普及した。

 セル成型苗が登場すると、野菜栽培で育苗の分業化や大量育苗がみられるようになった。施設園芸はさらに増え、施設内の連作は避けられなくなるが、そこで期待が高まったのが接ぎ木栽培である。1987年の「モントリオール議定書」採択は接ぎ木栽培の需要をさらに増大させたもうひとつの要因である。土壌消毒剤として利用されていた臭化メチルがオゾン層破壊物質として使用禁止されたためで、これに代わる接ぎ木栽培が強く求められたからである。だが問題は、苗が軟らかすぎて接ぎ木が難しいことである。「全農式幼苗接ぎ木苗生産システム」が開発されたのはこのときで、この方法の開発によって、セルトレイ上での接ぎ木が簡単にできるようになった。


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