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発光ダイオード

イノベーションに至る経緯

 発光ダイオードは、p型半導体とn型半導体からなるp-n接合型の半導体に電流を流すことで、発光現象を得る電子部品である。1950年代前半頃より半導体の発光現象が確認され、研究として報告されるようになった。リン化ガリウム(GaP)やヒ化ガリウム(GaAs)の単結晶が製造可能になることで、1960年代頃には赤色LEDや黄緑色のLEDが作成されるようになった2

 発光ダイオードの研究開発の歴史は、半導体材料の探索の歴史でもある。そもそも、“半導体”とは、電子が自由に動くことのできる導体と、電子が動くことのできない絶縁体の中間的な物質であり、材料を変えることで、電子の動きを制御することができることから、多様な用途に対して応用が試みられてきた。半導体の一種であるp-n型発光ダイオードの場合、価電子帯にある電子がバンドギャップ(禁止帯)を越えて、別の伝導帯に移る際に余ったエネルギーが放出され、そのエネルギーが光となる。半導体の材料を変えることで、バンドギャップの大きさを変え、光の波長を変えることができる。

 もう少し詳細にその仕組みを確認しておくことにしよう。p-n型発光ダイオードはp型半導体とn型半導体を接合して作られる。p型半導体は、真性半導体よりも価電子の少ない元素を付加し、正の電荷を帯びたホール(正孔)が移動することで電流を生じさせる。n型半導体は、真性半導体よりも価電子の多い元素を付加し、自由電子が移動することで電流を生じさせる。このようなp型半導体とn型半導体を接触させると、接合部分に電気的に絶縁状態となったバンドギャップができる。n側に正の電圧をかけると、バンドギャップが大きくなり、次第に電流が流れなくなる。逆に、p側に正の電圧をかけると、電子とホールがバンドギャップを越えて再結合する。このときに余分なエネルギーが光や熱として放出される。発光ダイオードはこの光を活用した製品である。

 発光ダイオードの発光色は、バンドギャップの大きさに依存する。p-n接合半導体の元となる真性半導体の材料や、そこに注入した元素の組合せによってバンドキャップは変化する。このバンドギャップが大きいほど、電子が移動した際に発生するエネルギーが大きくなる。エネルギーの大きな光子は激しく動くために、波として観察すると波長の短い光となる。エネルギーが小さく波長の長い赤い光から始まった発光ダイオードの研究は、よりエネルギーが大きく波長の短い青い光を発生させる半導体材料の探索へと進んでいく。

 青色LEDの発明で難関となったポイントは、3点にまとめられる。①窒化ガリウム(GaN)の単結晶を作成すること、②ガリウムの一部を、価電子の少ない亜鉛やマグネシウムに置き換えることでp型半導体を作成しp-n接合を実現すること、③バンドギャップが大きすぎて紫外線になってしまっているLEDを青色可視光線に戻すためにインジウムを付加すること、以上の3点である。

(1) 窒化ガリウムの単結晶の作成

 青色LEDを作成するためには、まず半導体を作る元となる結晶の純度を高め、高品質の半導体材料を得る必要があった。窒化ガリウムの単結晶の作成は、赤﨑勇(以下「赤﨑」と呼ぶ)とその研究グループによる貢献が大きい3。名古屋大学から松下電器産業の東京研究所に移籍した赤﨑は、様々な発光ダイオード関連の研究を行っていた。赤﨑が本格的に青色LEDの研究を始めるのは1973年のことである。当時、青色LEDの材料候補はセレン化亜鉛、炭化ケイ素、窒化ガリウムの3つが考えられていた。赤﨑は、他の物質よりもはるかに結晶を作ることが難しい窒化ガリウムに惹かれていた。物理的にも化学的にも安定した“タフ”な材料であり、結晶を実現できれば、半導体素子としての性能は安定したものになると期待されていた。1975年、通産省の未踏革新技術プロジェクトとして「青色発光素子研究委員会」が発足、産学官のコンソーシアムとして、青色LEDの研究は進められ、1978年にはHVPE法によってその開発に成功した。p型結晶ができていなかったので、p-n接合型ではない、MIS型と呼ばれる方法であった。松下電器産業が量産化を試みるものの、性能が安定せずに未実現のまま終わってしまう。

 結晶を成長させるための方法を探索していた赤﨑は、1979年にMOVPE法(有機金属化合物気相成長法)を採用し、更なる研究を進めていた。しかし、松下電器産業としては国家プロジェクトである超LSI共同研究所の後の大型国家プロジェクトであった光プロジェクト(光応用計測制御システム技術組合)へと研究の重点を移行しつつあった。

 赤﨑は青色LEDの研究を続けるために古巣である名古屋大学に再度移籍した。名古屋大学にクリーンルームを建設し、松下電器産業から譲り受けたMOVPE用の装置や、その他使われていなかった古い装置、新しく買い足した装置などを組み合わせて、専用の実験装置を制作した。

 作成する単結晶は薄く、何らかの別の基板の上に結晶を作成することになる。らは基板としてサファイア(酸化アルミニウム)を用いることにしたが、サファイアと窒化ガリウムの両者の結晶の格子定数が最大で16%も異なっていることが問題となった。そのため、赤﨑はサファイア基板と窒化ガリウムの間にバッファ層を設けることが重要であろうと考えていた。窒化アルミニウムほか4物質を候補とし、バッファ層とすることで、窒化ガリウムの結晶をサファイア基板上で成長させる実験が繰り返された。

 1985年、赤﨑の指導する大学院生であった天野浩(以下「天野」と呼ぶ)が高品質な窒化ガリウムの作成に成功し、無色透明な窒化ガリウムの単結晶を得た。窒化ガリウムのエピタキシー温度が1000度であったところ、通常の半分ほどの温度である500度で電子炉を動かすことによって、窒化ガリウムの単結晶を得ることができるようになったことから、後に低温堆積バッファ層技術と呼ばれるようになる。MOVPE法による研究が始まってから4年が経過しようとしていた。

(2) p型半導体の作成

 窒化ガリウムの単結晶ができたので、今度は不純物をドープすることによってp型半導体を作成することが赤﨑らの目標となった。ガリウム原子の一部を亜鉛で置き換えると、青色発光が得られるようになったものの、p型半導体には至らない不安定な状態が続いた。1987年の夏、電子顕微鏡で亜鉛を添加した窒化ガリウムに電子線ビームを浴びせて観察しようとすると、窒化ガリウムが光り始めたことを天野が発見する。低速電子線照射(LEEBI)処理をすることでより強い光を得ることができることに気付いた赤﨑と天野は、共同研究先であった豊田合成で最先端の電子顕微鏡を借り受け、更に実験を続けた。LEEBI処理との相性の関係から、不純物として用いていた亜鉛を有機マグネシウム化合物に変更する。海外から材料を輸入し、研究を進めることで、1989年、p型窒化ガリウムの作成に成功した。同年、p-n接合型青色LEDの試作にも成功している。

(3) 青色可視光線に戻すためのインジウムの付加

 このほか、安定した青色LEDとするためには、いくつかの問題が残されていた。まず、n型半導体の伝導度を安定させる必要があった。また、初期の青色LEDはバンドギャップが大きすぎて、発生する光が紫外線になってしまうという問題があった。可視光線の青い光にするためには生まれる光のエネルギーをやや低くする必要がある。そのためにはガリウム原子の一部をインジウムに置き換えるという方法が検討されていた。この問題を解決したのはNTTの松岡隆志であった4。赤﨑らの研究をキャッチアップした松岡は、化学反応の計算を繰り返し、1989年3月、大量のアンモニアガスを用いてインジウムの注入に成功し、ガリウムとインジウムの混晶の作成に成功した。

(4) 青色LEDと青色レーザーダイオードの実用化

 1988年頃から日亜化学が青色LEDの研究開発に参入する5。日亜化学の中村修二は青色LEDの開発のためにフロリダ大学に留学し、結晶成長の研究を行い、1989年4月に帰国していた。帰国後、中村は市販のMOVPE装置を購入し改造する。1990年の夏、中村は高品質な窒化ガリウムの単結晶を作成する方法を発見する。原料のガスが高温のため、横からサファイア(酸化アルミニウム)の基板に吹き付けても、対流で上に昇ってしまう。そのため、上からもガスを吹き付けるツーフロー法を考え出したのである。さらに、バッファ層に用いていた材料を、赤﨑らが行っていた窒化アルミニウムから窒化ガリウムに変更し、高品質の窒化ガリウム結晶を作成することに成功する。

 p型半導体の作成時にも中村は独自の工夫を行った。窒素中で熱処理し、アンモニアガスから発生した水素を除去することで、従来よりも容易に窒化ガリウムがp型化したのである。1992年、中村は青色発光ダイオードの実用化に成功し、1993年11月に青色LEDは発売された。1996年には波長376ナノメートルの青色レーザーダイオードの実用化も発表した。青色LED及びその関連技術は商用化の段階に至ったのである。赤﨑が窒化ガリウムの研究を始めてから20年の歳月が過ぎようとしていた。赤﨑の地道な研究蓄積に、松岡隆志や中村修二などの参入が加わることで、青色LEDは達成困難と思われていた実用を成し遂げることとなった。

(5) 白色LEDの作成

 青色LEDが実用化したことで、白色LEDに対する期待も高まることとなった。白色LEDが完成すれば、多様な用途で使うことができると見込まれていた。当初は光の三原色である赤・緑・青の3つのLEDをまとめ、3色の混合で白色LEDを作成する方法が考えられていた。しかし、この方法では色相スペクトルに3つのピークができ、また、3種類の光の強さを合わせるためには緑のLEDが輝度不足となってしまうなどの問題があった。このような方法に代わって日亜化学は、青色LEDと補色である黄色の発光蛍光体(YAG:Ce、イットリウム・アルミニウム・ガーネット結晶にセリウムを添加したもの)を組み合わせて、白色光を作る方法を開発する。蛍光体を用いた白色LEDは、元々蛍光体事業を行っていた日亜化学の得意とするところであった。自然な色相スペクトルが得られるとともに構造的にも単純であった白色LEDは、1996年に製品化され、発売された。

(6) 補論:他の材料の動向

 青色LEDの開発において、候補となる材料は3つあった6。赤﨑らが成功したGaN(窒化ガリウム)のほかに、 ZnSe(セレン化亜鉛)による方法とSiC(炭化ケイ素)による方法が研究対象となっていた。日亜化学や豊田合成以外の大企業は、セレン化亜鉛を本命の候補として研究していた。例えば、1974年にRCAが窒化ガリウムの研究を中止、Philipsも1977年に窒化ガリウムの研究を中止している。このような状況で1991年に3MがZnSeで青色レーザーの実験室レベルでの成功を発表すると、ほとんどの企業がZnSeを研究するようになった。松岡隆志の所属していたNTTも、1992年にZnSe系に研究を一本化させる。奇しくも、中村修二が青色LEDに実験レベルで成功した年のことであった。セレン化亜鉛が本命と目されていた理由の一つは、窒化ガリウムよりも早くp型半導体の作成に成功していたからかもしれない。また、セレン化亜鉛の性質が、赤色レーザー等で利用されていたヒ化ガリウムと似ている部分があったことから、見込みの良い材料だと思われていた。

 

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