公益社団法人発明協会

アンケート投票トップ10

家庭用ゲーム機・同ソフト

イノベーションに至る経緯

(1) 家庭用ゲーム機の誕生

 最初の家庭用ゲーム機「Odyssey」は1972年にマグナボックス社により発売された6。続いて1976年にはフェアチャイルド社がVideo Entertainment System(VES)を発売した。このゲーム機は、マイクロプロセッサを搭載し、ROMカートリッジでゲームソフトを提供するなど、家庭用ゲーム機のベースとなるものであった。この年の家電ショー(CES)には20社を超える企業がゲーム機を出品し、その出荷台数は300万台を超えた7。翌年、アタリ社がAtari  VCE (後のAtari 2600)を発売し、そのブームは明らかなものとなった。

(2) ヒットゲームの誕生

 1978年に太東貿易から発売された「スペースインベーダー」は、我が国最初のヒットゲームとなった。西角友宏が開発したこのゲームは、ゲームとしてのユニークなものだっただけでなく、我が国で初めてMPUを採用するなど技術的にも画期的なものであり、国内外で50万台が販売され、500億円を超える売上げを記録した8。ゲームの成功は、人気にただ乗りする模倣品・侵害品を市場に氾濫させ、ゲームの知的財産保護の議論を引き起こし、法律の改正をも促すものとなった9。このゲームはアーケードゲームとして誕生したが、その後、パーソナルコンピュータ、家庭用ゲーム機等にも移植され、それらのプラットフォームの普及にも寄与するものとなったが、深夜にインベーダーハウスやインベーダー喫茶店に集う青少年が社会問題ともなった。

 1980年にナムコが発売した「パックマン」は、銃撃音が飛び交うシューティングゲームが中心で、暗くて怖いというイメージのあったゲームセンターを、女の子が入りやすいものにしたいというコンセプトのもとで岩谷徹により開発された10。同じ年米国ミッドウエイ社にライセンスが供与され、その販売は世界中に広がった。それまでのゲームにはないキャラクターデザインと、ゲーム展開の意外性から初年度だけで10万台が販売されるヒットゲームとなった。アーケードゲームとして開発されたこのゲームは、その後多くのプラットフォームに移植された。また、「ザ・パックマンショー」としてアニメ化され、そのテレビ放送は56%という瞬間最高視聴率を記録した11。さらに、CDやキャラクターグッズなど430種類のライセンス商品が誕生し、ゲームキャラクターによる商品展開というビジネスの先駆けとなった12。「ギネス世界記録」は、発売から7年間で29万3800万台を販売(ロイヤルティを含む)した「パックマン」を高く評価し、2005年に「世界で最も成功した業務用ゲーム機」と認定した13。2012年にはタイムズ社の「100のビデオ・ゲーム」にも選ばれ、その中で最も多くの支持を集めたゲームともなった14

(3) 「ファミリーコンピュータ」の誕生

 国産最初の家庭用ゲーム機は、1975年にエポック社により「テレビテニス」として発売された。

 任天堂による家庭用ゲーム機の開発は1976年に始まる。6種類のゲームが遊べる「カラーテレビゲーム6」は9800円で、15種類のゲームが遊べる「カラーテレビ15」は1万5000円で1977年に発売された。

 また同じ頃、任天堂はアーケードゲーム市場へ参入を決めた。複数のアーケードゲームが開発された後、1980年に「レーダースコープ」が発売された。このゲーム機にはそれまでのハードウエアを超える技術が数多く組み込まれたものであったが、激しい競争の中で売上げを伸ばすことができなかった。しかしながら、宮本茂が提案したゲームデザインと、当時のハードウエアやシステムの表示能力の限界を踏まえたシンプルなキャラクターを採用した「ドンキーキング」は、1981年に発売されると同時にユーザーの心を捉えることに成功し、大ヒットゲームとなった。

 1980年代に入ると、海外では「インベーダーゲーム」や「パックマン」の移植を受けた家庭用ゲーム機が爆発的に売れ始め、国内では日本電気のPC8000シリーズ、PC6000シリーズがヒットし、パソコン上でのゲームソフトも注目されるようになった。

 任天堂は再び家庭用ゲーム機へ取り組むこととなり、上村雅之のもとで新たなプロジェクトが開始された。プロジェクトでは、まずゲーム機のLSIの開発とCPUを決めることが行われ、画像表示専用LSIの開発は半導体事業に参入したばかりのリコーと共同で行うこととなり、CPUはリコーが提案した6502互換CPUとなった。本体の設計を始める時、上村は、本体にはキーボードを付けないこと、パソコン・イメージから抜け出すこと、ゲーム専用機であるがオモチャ臭を除くことなど、7つの基本仕様をまとめた15。その後、ゲーム機の主流となる十字キー16とA・Bボタンをもつコントローラが採用され、「ファミリーコンピュータ」と名付けられた新しいゲーム機は1983年7月にまず国内で発売された。その年は画像プロセッサのバグも発見され、クリスマス商戦では勝負をすることができなかったが、翌年以降このゲーム機が爆発的に売れるようになる17。さらに1985年に入ると、北米での販売開始や、「スーパーマリオブラザーズ」のリリースにより、爆発的販売は海外にも広がった。

 当初、ゲームソフトは任天堂が販売するものだけであったが、ハードが普及するとともに、サードパーティからもゲームソフトを販売したいとの要望が寄せられた。ここで、任天堂は粗悪なゲームソフトの出現により崩壊した米国の家庭用ゲーム市場の経験を分析し、開発できるのは任天堂とライセンス契約を結んだ企業に限ること、ライセンシーが1年間に製作できるゲーム本数を制限すること、開発したゲームソフトがファミリーコンピュータ本体上で正常に動作する事を確認するために、発売前に任天堂で検査を受けること等を定めた。また、商標を登録し、製品やパッケージだけでなく、解説書や雑誌・書籍に用いる場合であっても「任天堂の登録商標」であること明記することを求めた。

 ゲームソフト開発についての最初のライセンス契約は、1984年にハドソンとの間で結ばれ、ナムコ、コナミ、エニックスが続いた。これらの中からエニックス(現 スクウェア・エニックス)の「ドラゴンクエストシリーズ」(堀井 雄二 外)や、スクウェア(現 スクウェア・エニックス)の「ファイナルファンタジーシリーズ」(スクウェア:坂口博信 外)等のキラーソフト(ゲーム機の普及を牽引するソフト)が続々と誕生した。任天堂が自社開発した「スーパーマリオブラザーズ」(宮本茂、手塚卓志)も全世界で4000万本以上が売れ、「ギネス世界記録」はこのゲームを「世界で最も売れたゲーム」と認定した。

(4) 「プレイステーション」の誕生

 「ファミリーコンピュータ」は多くの人に受け入れられるものとなった。ソニーの久夛良木健もまたそれに魅せられた一人であった18。そして、ソニーの持つ高性能デジタル画像処理により三次元立体映像をつくり出し、ROMカセットに代えてCD-ROMを用いることができれば、新しい市場を創出できると確信するようになった19。戦略会議で久夛良木はソニー単独でのゲーム機市場への参入を主張したが、出席者の多くはこれに反対を表明した。その中で、最後に参入を決断したのは社長の大賀典雄であった20。大賀は、以前から家庭用ゲーム事業は、ハードウエアのプラットフォームの上にゲームソフトという出版物を次々と出すことができる収益性の高いビジネスと考え、その機会を窺っていたとも言われ21、また、会長の盛田昭夫からの助言もあったとも言われている22。直ちにPS事業準備室が発足し、情報処理研究所の3DCG技術者たちが呼び出され、30名のハードウエア開発メンバー、30名のレコード業界で実績を持つ営業・管理スタッフ等が召集された。開発されたゲーム機は「プレイステーション」と名付けられた。

 プレイステーションの最大の特徴の一つは、リアルタイムで3D表現を実現できることであった。当時、リアルアイムの3D画面はアーケードゲームでは可能であったが、家庭用ゲームにこの技術を導入するには時期尚早とする意見も根強かった。この議論を一気に収束させたのは当時ライバル関係にあったセガの3D対戦アーケードゲーム「バーチャファイター」の出現であった。このゲームは、はじめて人物のポリゴン化(多角形を組み合わせて立体を表現する技術)に成功したものである。これにより「プレイステーション」開発の方向性が明確になった23。あわせてデザイン、生産性の問題、ゲームソフト開発ツール、メディア、流通などが検討された。

 1994年12月に「プレイステーション」が発売された。発売当日に用意された10万台が1日で完売し、追加注文が殺到した。SCEはサードパーティによるゲームソフト開発に期待し、ゲームソフト開発ツールを廉価で開発会社に配布して積極的に支援を行った。また、この際、名前を出してのプロモーションによりクリエイターにインセンティブを与えることや、時間軸を流す編集ソフトを導入する等、レコード事業での経験が大きな力になったとも言われている24。それ以上に、「プレイステーション」の可能性に期待を持った多くの開発会社やクリエイターがプログラム開発に参加の意向を表明した。同じ時期、3DCG技術を用いたアーケードゲームのブームが到来していたことも、サードパーティが「プレイステーション」用の3Dゲームの開発に参加を促すものとなった。日本を代表するスクウェア・エニックスの「ファイナルファンタジー」シリーズやカプコンの「バイオハザード」シリーズ等のプラットフォームへの参加もあって、海外市場を含めて「プレイステーション」の人気は確固たるものとなり、累積生産出荷台数は、家庭用ゲーム機としてはじめて1億を超えた。

初代プレイステーション

初代プレイステーション
 

 (本文中の記載について)

  ※ 社名や商品名等は、各社の商標又は登録商標です。

  ※ 「株式会社」等を省略し統一しています。

  ※ 氏名は敬称を省略しています。

 


TOP