公益社団法人発明協会

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マンガ・アニメ

イノベーションに至る経緯

(1)マンガ市場の立ち上げ

 比較的裕福な家に生まれた手塚は、親の趣味も影響し、幼少期から当時貴重であった漫画やディズニーなどの映画に親しんでいた2。小学生時代からクラスの仲間に見せるために漫画を書いていたが、その内容は大人である教師も感心するレベルであった。戦後、大阪大学医学専門部に入学した手塚は、在学中の1946年に新聞の短編連載を通じて漫画家デビューを果たす。そして1947年に「赤本」と呼ばれる駄菓子屋などで子供向けに販売される格安単行本で、長編漫画『新寶島』(酒井七馬原作)を発表し、一躍売れっ子漫画家となる。そして同じく赤本にて1948年には『ロストワールド』、1949年に『メトロポリス』を掲載した。その後、発表媒体を大手月刊誌に移し1950年に『ジャングル大帝』、1952年に『鉄腕アトム』、1953年に『リボンの騎士』を掲載し、人気漫画家としての地位を確立する。

 手塚作品が人気を博した理由の一つとして「ストーリー性」というものがある3。当時の漫画は、子供向けの要素が強く、理解しやすい単純なストーリーと教育的な側面が強い勧善懲悪ものが基本であった。その中にあって、手塚は、映画や小説のような複雑で、時には主人公の死もあり得るという悲劇的要素、サスペンス要素を盛り込んだのである。そのことが、絵だけではなく、ストーリーとしても楽しむものとして、漫画の質を高めることにつながった。もう一つの理由として、漫画表現への「映画的手法」の導入がある。映画的手法とは、当時の実写映画で用いられていた映像の表現手法であり、例えば、映画においては「ルック・アット」と呼ばれるような観客の視点が作中人物と同化する手法や、クローズ・アップやローアングルなどのカメラワークを意識した手法のことである4。このような革新的な漫画は、市場で評価されるとともに、石ノ森章太郎や藤子不二雄などその後の日本を代表する漫画家にも大きな影響を与えた。

 結果的に、手塚が導入した「ストーリー性」や「映画的手法」は、当時子供向けでしかなかった漫画を、大人も楽しめる娯楽媒体に引き上げることにつながった。これにより潜在的な漫画読者の裾野が拡大し、その後のマンガ市場の成長に貢献した。連載当時主要な読者層であった団塊の世代以降、幼少期から引き続いてマンガを読み続ける世代が増加していき、マンガ市場が拡大したのである5

(2)アニメ『鉄腕アトム』誕生と成功

アニメ「鉄腕アトム」

アニメ「鉄腕アトム」

(C)手塚プロダクション・虫プロダクション

 

 もともとディズニー映画に憧れていた手塚は、いつかアニメーションに挑戦したいという願望があった。そしてマンガで成功を収めた後、その資金を元手にアニメーション制作会社である虫プロダクションを設立した。1961年のことである。ただ、自身が望むような本格的アニメを作るためには更に資金がいる。そこで、手塚は当時普及しつつあったテレビを使ったアニメーション放映に目を付け、1話30分の連続アニメ放映を構想した6。アニメの題材にはマンガ『鉄腕アトム』を選んだ。1952年月刊誌『少年』にて連載が続いていたマンガ『鉄腕アトム』は当時人気を博していたこと、連載から10年が経ち原作としての蓄積があったこと、過去に紙人形劇と実写で2度放映され好評であったことなどがその理由であった7

 ただ、問題となったのが制作コストである。アニメーションは、ドラマなどの実写と違い全ての画面を一から作らないといけないため、制作には非常に時間とコストがかかる。当時、時間をかけることができる映画か、あるいは短い尺で何度も放映できるテレビコマーシャルでしかアニメーションは用いられていなかった。したがって、手塚が構想した毎週30分の連続放映のアニメーションというのは、当時としては画期的であると同時に、非常識な類のものであった。

 実際、ディズニーなどで用いられていたフルアニメーションで30分のテレビアニメを作ろうとすると、当時のレートで250万円程度必要であったといわれている8。他方で当時30分の実写番組に対して、テレビ放送局が制作会社に支払う制作費はおよそ50万円であった9。当然ながら、成功が不確実なテレビアニメにそれ以上出すスポンサーも存在しなかった10。結局、手塚は相場より少し高い1話あたり55万円という価格で30分の番組枠を受注することになった。

 しかし、手塚には勝算があった。手塚は、この状況を2つの画期的な方法で乗り越えた。第一の方法は、アニメーションを徹底的に簡素化することでコストを抑えるというものであった。当時、アニメーションは通常1コマ撮りといわれる手法が使われており、1秒間に24枚のアニメーションが必要であった。その場合、1回のアニメ放映時間が20分としても24×60×20=2万8800枚となる。虫プロダクションは設立初期のため20~30人程度のアニメーターしかいなかった。仮に30人いたとしても1週間で1人1000枚のアニメーションを作る必要があるが、全く非現実的な数値である。当時アニメ脚本を手がけていた辻真先は、「まだスタートしてまもない虫プロが、30分ものを週一本(年52本!)作ってのけようと言うのだ・・・手塚先生、大丈夫かなと不安になった。」と回想している11

 手塚はまず、当時米国のテレビアニメで用いられていた1秒当たりの枚数を減らすリミテッドアニメーションの手法を用いることで必要な動画枚数を大幅に削減した。当時のリミテッドアニメーションは2コマ撮りと言われるもので、1秒当たり12枚のアニメーションが用いられていた。手塚は、1秒間に8枚という3コマ撮りアニメーションにすることで更なるコスト削減を図った。

 次に、登場人物がしゃべるシーンでは、口だけを一部アニメーションにするといういわゆる「口パク」という手法や、過去に用いた背景を使い回す「バンクシステム」、ものが動くシーンでは背景だけを動かすなどの省力システムを次々に生み出し、徹底的に必要作業量を減らした。結果として作られたアニメ『鉄腕アトム』のアニメーション枚数は1話当たりおよそ1200枚というものであった12。つまりフルアニメーションでは2万8800枚必要なところを20分の1以下に削ってしまったのである。こうして限られた時間と制作コストでのアニメ制作を実現していった。アニメがマンガと異なるところは、絵が「動く」ことにある。しかし、アニメーション枚数を減らすことは絵が「動かない」ことを意味する。このような極端な省力システムは当時の常識をはるかに超えるものであった。

 手塚が採用したもう一つの手法は、テレビ局から支払われる制作費で賄えない部分を、キャラクターグッズ販売や海外放映を通じた版権ビジネスで補おうというものであった。キャラクターグッズ販売では、有名業者を中心に『アトム会』や『虫プロ友の会』という組織を発足させることで計画的にアトムの商品化を行い、玩具だけでなく、文具や食品・製菓、衣料に至るまで様々な版権ビジネスを展開した。なお、虫プロダクションではこれらの組織を通じて、当時当たり前であった海賊版を徹底的に排除するという、知的財産権を意識した戦略も採用されていた13

 海外放映に際しては、当時主流であった「売り切り」方式ではなく、期間を決めて独占放映権を付与するライセンス方式が採用された。米国の三大ネットワークの一つであったNBCと契約が結ばれ、1963年9月から全米各地で『アストロボーイ』として放映されることとなった。

 アニメ『鉄腕アトム』は結果として成功した。視聴率面では、初回は27.4%で、カラーアニメとして放映された回では最高40.3%に達した。ビジネス面では、放映開始から4年間で、当時のレートで5億円の著作権収入を虫プロダクションにもたらした14

(3)アニメ『鉄腕アトム』が生み出した画期的なビジネスモデル

 アニメ史における『鉄腕アトム』の貢献についてはいろいろ語られるところであるが、産業史から見た本作の貢献は、毎週30分の連続放映というテレビアニメが商業的な採算ラインに乗るビジネスモデルであることを証明したことである。手塚が生み出した徹底的な省力システムによる制作コストの削減と著作権ビジネスの展開は、テレビ局側に制作費が抑えられることによるアニメ放送のリスクの軽減というメリットをもたらし、また、テレビスポンサーには放映アニメのキャラクターグッズを通じた自社製品の売上げ向上の見通しをもたらしたのである15

 実際、アニメ『鉄腕アトム』放送開始後、ライバル放送局、ライバルアニメ制作会社、ライバルスポンサーの手で同様の手法を用いたアニメが制作されるようになっていく。放映が開始された1963年の同じ年の内に、マンガ原作の『鉄人28号』や『エイトマン』など4作品が30分枠での放映が始まった。翌1964年には3作品、1965年には11本の作品が新たに作られることとなり、その後もテレビアニメ作品は増加していく。このような順調な成長は、彼が示したビジネスモデルなしにはあり得なかったであろう。

 なお、他のテレビ番組とは異なり、現在までテレビアニメの著作権の多くが放送局ではなく、制作プロダクションに属するようになっているのも『鉄腕アトム』がそうであった影響が大きい。手塚にとっては、格安の制作費でアニメを請け負うことの対価として、著作権を保持し続けるのは当然であったと思われる。そしてこのことが、個性豊かで多様なアニメ制作プロダクションが生まれる土壌を作り、必ずしもテレビ局の意向に左右されない作品・版権ビジネスの展開が可能となったのである。

 手塚が生み出したビジネスモデルの中には、現在広く普及しているメディア・ミックスの原型が含まれていることも重要である。まず現在、マンガを原作としたテレビアニメの放映はアニメ『鉄腕アトム』の成功から始まっている16。また、今では当たり前のシステムとなっているマンガの雑誌掲載、単行本化という流れもアニメ『鉄腕アトム』が関連している。『鉄腕アトム』放映当時の連載マンガは雑誌のみの読み切りであった。しかし、アニメがヒットしたことを受け、1964年に当時連載していた雑誌『少年』の発行元から単行本が発売されたのである。この後、他のテレビアニメ作品のヒットもあり雑誌連載マンガの単行本化が本格化してゆくのである17

 こうして顧みると、テレビアニメ『鉄腕アトム』で用いられたビジネス手法が、その後の日本のアニメ産業だけでなく、マンガ産業の発展にも影響与えたといえる。そして、両産業の立ち上げに関与した手塚治虫は、優れた創作者であったというだけでなく、果敢にリスクを取って非常識を常識に変えていくという、第一級のアントレプレナーであったといえよう18

 

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