公益社団法人発明協会

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トヨタ生産方式

イノベーションに至る経緯

(1)ジャスト・イン・タイムへの取組
 我が国最初のガソリン自動車は、1907年に東京自動車製作所の内山駒之助と吉田真太郎によるタクリー号とされている2。続いて、橋本増治郎の快進社自働車工場が1914年に脱兎(ダット)号を発表し3、豊川順弥の白揚社は1921年にアレス号、1925年にオートモ号をそれぞれ発表した4。しかしながら、当時の国産自動車の中には、主要部分に輸入部品を用いるものや欧米の車をそのままトレースしたものも少なくなかった。
 同じ時期、米国では既に自動車の大衆化が急速に進んでいた。これを更に加速したのが、ヘンリー・フォードⅠ世による1914年の「ベルトコンベアを用いた大量生産方式」の導入であった。この大量生産方式をもって、フォード、GM、クライスラーが次々と日本での組立生産を開始した1925年以降、誕生したばかりの国内自動車メーカーは、次々とその姿を消していった。
 トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎は、「日本人の頭と腕で自動車をつくる」との信念のもとで、自動車の開発・製造を目指していた。1933年に豊田自動織機製作所に自動車製作部門が設置され、4年後の1937年、この自動車製作部門が分離・独立したトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が誕生した。自動車の本格的生産のために新たに建設された拳母工場(後の本社工場)には、喜一郎の目指す一貫工程の同期化のためのレイアウトが用意されていた5。1938年に完成した拳母工場の操業開始に当たって、喜一郎はかねてから温めていた「ジャスト・イン・タイム」構想を明らかにした。
 「私は之を『過不足なき様』換言すれば所定の製産に対して余分の労力と時間の過剰を出さない様にする事を第一に考えて居ります。無駄と過剰のない事。部分品が移動し循環してゆくに就いて『待たせたり』しない事。『ジャスト、インタイム』に各部分品が整えられる事が大切だと思います。これが能率向上の第一義と思います。」6
 ここに、トヨタ生産方式の柱の一つである「ジャスト・イン・タイム」に向けた取組が始まった。
 「ジャスト・イン・タイム」は、各工程が必要なものを、必要な時に、必要な量だけ、最小限の資源で造り、運ぶことにより、つくりすぎのムダ、手待ちのムダ、加工のムダ、運搬のムダ、在庫のムダ、動作のムダ、不良品をつくるムダを排除するものである。ジャスト・イン・タイムの目的は、この7つのムダを徹底的に排除することにより、生産効率を大幅に改善することにある7
 ジャスト・イン・タイムを採用する前段階の生産方式として、喜一郎は拳母工場の粗形材部門と機械加工部門の間に整備室という組織を新設した。整備室はその日の計画数量だけの粗形材を機械工場へ渡し、機械工場は受け取った数量に見合う部品を組立工場に供給する。次に、この部品を受領した組立工場では、その部品に見合う数の完成車だけをラインオフさせる。喜一郎の考えた生産システムは、その日の計画数量を製造し、後工程に供給した後は、その部署はラインを止めるもので、伝票を用いないという画期的なものであったが、この考え方が広く理解されるまでには更なる時間を必要とした8
 その後、第二次世界大戦の戦火が拡大するとともに、戦時統制が一段と強化され、1939年からは自動車生産用資材の割当配給制が実施されるようになり、ジャスト・イン・タイムへの取組も中断せざるを得ないものとなった9
(2)自働化の進展
 終戦ととともに空襲で破壊されていた工場の復旧も進み、1947年には本格的な生産の再開が可能となった。喜一郎は「3年で米国に追いつけ。そうでないと日本の自動車産業は成り立たんぞ」と従業員等を叱咤・激励した。
 本格的生産が再開し始めたこの年、本社工場の機械工場長であった大野耐一は、役員の支持を得て、トヨタ生産方式の最初の挑戦である「多台持ち」の試行を始めた10。「多台持ち」は一人の作業者が複数の機械を担当するもので、当初は機械の配置を二の字型又はL字型として2台持ちが行われた。その後、人の仕事と機械の仕事との分離が行われ、1949年からは機械の3台持ちあるいは4台持ちが行われるようになった。これはトヨタ生産方式の柱の一つである「自働化」の始まりでもあった。

大野耐一

大野耐一

画像提供:トヨタ自動車

 トヨタの自働化は「ニンベンのついた自働化」と呼ばれ、社祖の豊田佐吉の「豊田式汽力織機」を起源とするものと言われている。この織機にはヨコ糸・タテ糸が切れたり無くなったりした場合、直ちに停止させる仕組みが組み込まれていた。機械自身が異常を判断する機能を持つことにより、機械の行う仕事と人間が行う仕事が明確に区分され、機械の台数よりも少ない作業者により管理することが可能となり、また、機械の状況を可視化する「目で見る管理」も可能となる。目で見る管理の代表的ツールが「アンドン」と呼ばれる異常表示装置である。最初のアンドンの導入は1950年にエンジン組み付けラインで行われた11。異常が発生すると同時にアンドンが点灯し、担当者はすぐに異常現場に走り、処置を行う。同時に、職制は原因を調査し、再発を防止する手段を講ずる。エンジン組み付けラインに始まったこのシステムは、その後本社組立てラインへ導入された。
 自働化は、機械が不良品をつくり続けるムダや、復帰のためのムダを回避することも可能とした。これは、後工程に不良品を送らないというジャスト・イン・タイム生産の前提でもあった12
 1963年には多台持ちを発展させ、工程順に配列された複数の機械設備の作業を一人の作業者が受け持つ「多工程持ち」が実現した。

アンドン(上郷工場エンジン組立ライン)

アンドン(上郷工場エンジン組立ライン)

画像提供:トヨタ自動車

(3)ジャスト・イン・タイム方式の進展
 当時、トヨタ自動車工業は戦後処理に係る様々な難問と深刻な経営危機に直面していた。そのような中で、1950年にジャスト・イン・タイム方式の提唱者であった喜一郎が社長を辞し、その2年後に急逝した。喜一郎の描いていた理想は、早くからその教えを受けていた豊田英二(後の社長)に引き継がれ、英二の指示のもとで大野の取組は続けられた。
 次に大野が手を付けたのは、工程間の部品等の引渡し方法の変更であった。それまでは、前工程の生産は日程計画表に基づいて行うというのが常識であった。大野は後工程が「必要なものを、必要な時に、必要な量だけ」前工程に引取りに行き、前工程は引き取られたものを補充するだけの生産を行うという「後工程引取り方式」を導入することを検討した13。この方式は、1950年に、まず本社工場の最終組立工程と機械加工工程との間で開始され、その後次々とその前工程へ拡大されていった。しかしながら、この方式を全社的なものにするためには、新たな管理手段の導入が必要であった。
 1954年春、業界紙に米国のロッキード社がジェット機の組み付け工程にスーパーマーケット方式を採用し、1年間に25万ドルを節約したという記事が載った14。この記事に注目した大野は、1956年の米国視察に際して、その訪問先に当時日本ではまだ一般的ではなかったスーパーマーケットを追加した15。スーパーマーケット方式は、スーパーマーケットでの商品の流れを生産ラインに比定するものである。買い物をする顧客は生産工程では後工程であり、店舗は前工程となる。顧客は店舗に出向き、必要な商品を、必要な時に、必要なだけ入手する。顧客が商品を購入すると、なくなった商品については直ちに仕入部門が補充し、店舗に並べられる。スーパーマーケットの商品管理には、販売した品名、種類、量が記載された「カード」が用いられ、購入が行われると、カードは直ちに仕入部に送られ、この情報に従って店舗の商品補充が行われた。この仕組みを生産工程に適用するに当たって、トヨタ自動車では、カードに相当するものとして四角のビニール袋に紙切を入れた「かんばん」を用いたため、当初、「スーパーマーケット方式」と呼ばれた運用方式は、その後「かんばん方式」と呼ばれるようになった。

元町工場かんばん置場

元町工場かんばん置場

画像提供:トヨタ自動車

 ジャスト・イン・タイム生産では、様々な「かんばん」が生産工程を動き回る。「引取りかんばん」は、必要数を前工程に引取りに行く際の道具として用いられ、「工程内かんばん」は必要数をつくる生産指示の道具として用いられる。この方式は、1954年に機械工場に導入され、1960年代には鋳造、鍛造でも利用されるようになり、1963年からは全社的に実施できる状況となった16
 自動車の製造工程は、自製の部品だけでなく、多数の関連企業・協力企業から納品される外注部品も大きな割合を占めている。戦争直後の会社再建に当たって、トヨタ自動車は「部品製造の方針を転換し、独自の実力を備えた専門部品工場を育成・確立すること」を掲げていた17。社内のかんばん方式が完成したことを受けて、次に大野が取り組んだのは、これら協力企業の教育と意識改革であった18。この時、大野が用いた論理は、「トヨタと同じやり方をすれば改善が進む」というものであった。このことを協力企業に精力的に説明することにより、粘り強くその実施を説得した。その結果、1963年から希望する協力企業によるジャスト・イン・タイム方式による納入が開始され、1965年から全仕入先に「かんばん」が採用された19
 その後も「かんばん」は進化を続け、1977年には「かんばん自動読取機」が導入され、さらに1993年には遠隔地のための「電送かんばん」、1999年には「e-かんばんシステム」が導入された。
 1970年、「かんばん方式」は生産技術、高度生産方式等の研究により得られた優れた発明又は考案に基づく産業上の顕著な業績として認められ、大河内記念生産賞を受賞した。

はり紙(1970年ころ)

はり紙(1970年ころ)

画像提供:トヨタ自動車

(4)人材の育成と意識改革
 大野耐一がその著作の中で、「トヨタ生産方式はいわば意識革命である」20と記しているように、新しい生産方式は、その仕組みを動かす「人」を育てることにより初めて具現化できるものである21。従業員の意識改革への取組は、1970年の工長研修、組長研修のカリキュラムに「トヨタ生産方式」を組み込むことから始められた。1976年には自主研修会活動が開始され、1982年からは更なる組織的に改善を行うために「基本の徹底」が開始された。これらの努力によりトヨタ生産方式の一層の深化が図られた。
 ジャスト・イン・タイムによる生産は、様々な課題を顕在化させる。このような課題をいち早く発見し、創造と努力とチームワークで解決することもトヨタに染み渡った哲学となる。現在のトヨタについて、「何万もの社員が、いわば問題解決中毒になっているような状態、それがトヨタの凄味だ」と言われるまでになった22
(5)トヨタ生産方式の海外への普及
 1973年の石油危機により、世界経済は深刻な打撃を受けたが、時間が経つとともにトヨタの利益は回復し、他社との差が明らかとなった。ここで全世界は改めてトヨタ生産方式に注目した。トヨタ自動車自身の海外展開も、トヨタ生産方式の海外への普及を加速させるものとなった。1984年にトヨタとGMとの合弁によるニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチュアリング(NUMMI)、トヨタ・モーター・マニュファクチュアリング・ケンタッキー(TMMK)が設立されると、トヨタ生産方式も国内だけでなく、北米、さらには全世界に展開されるものとなった。海外拠点では、トヨタのやり方をベースに、支援者や推進部署を設け、トヨタ生産方式の伝授が行われた。
 MITのジェームズ・P・ウォマックらは、世界の自動車メーカーの生産性に関する実証分析を通じて、競争力をもつ新たな生産システムを「リーン生産方式」として提唱した。「リーン」とは「ムダな贅肉をそぎ落とした」という意味であり、それはまさにトヨタ生産方式の基本的な思想を表現しているともいえ、世界が改めてトヨタ生産方式に注目するきっかけとなった。
 2007年、トヨタグループの生産台数は936万台を超え、世界最大の自動車メーカーとなった。トヨタ生産方式は、トヨタ自動車グループを世界トップの自動車メーカーに育てるとともに、我が国の自動車産業の発展を可能とした高い品質と生産性に大きく貢献したものである。
 

 (本文中の記載について)

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