安定成長期
ハイビジョン放送
概要
1960年に日本におけるテレビのカラー放送が開始され、1964年の東京オリンピックにかけてカラーテレビが普及期を迎えていた。当時のNHK放送技術研究所(以下「技研」と呼ぶ)では世界初のオリンビックカラー放送による国際衛星中継の実現に向け、様々な放送用機器の研究開発を行っていた。白黒の受像機を見る多くの人々のために、白黒でも画質が落ちないよう設計されたカラーカメラの開発、競技をVTRで収録し、それを低速で再生するスローモーションVTR、余計な音が入らない接話マイクなどが開発され、オリンピックが日本のテレビ放送技術のレベルを飛躍的に向上させる契機となった。東京オリンピックの終了後、技研では、生中継の成功の余韻に浸る間もなく次世代のテレビ方式のあるべき姿の模索を開始した。次世代のテレビ方式として“豊かな感動を得られるテレビ”の開発を目標に掲げ、高品位テレビの実現を目指し、人間の視覚特性や心理効果の研究、テレビジョンシステムに必要な機器開発、国際標準化のそれぞれの観点から次世代テレビの実現化を進めていった。
まず、高品位テレビに求められる高い臨場感を実現する視角と画面アスペクト(縦横)比を明らかにするために心理要因と物理要因の分析を行った。要求される視角を明らかにするために広視野効果測定実験を行い、視角は30度以上が好ましいことを明らかにした。また、画面のアスペクト比は標準テレビより横長にしたほうが好まれ、5:3から6:3が望ましいことを明らかにした。このことから視角を30度とした場合に、視力1.0の人が走査線を判別できないように設計すると走査線数は1100本以上が必要であることが導き出された。これらの基本的なパラメーターを基に、当時普及していた標準テレビ方式との互換性を考慮して総走査線数1125本、画角16:9のハイビジョン方式が誕生した。
技研ではこれらのパラメーターの導出と並行してハイビジョン放送を実現するための撮像装置、記録装置、伝送方式、家庭用ディスプレイの研究開発を開始した。1970年には1.5インチビジコン撮像管を使用したテレビカメラと27インチ白黒ブラウン管を開発し、これらを用いたハイビジョンの展示を初めて公開した。1980年には独自に開発した1インチDIS(Diode Impregnated cathode Saticon)撮像管を用いた最初の標準型ハイビジョンカメラを開発し、本格的なハイビジョン番組制作を開始している。伝送技術としては1983年にハイビジョン信号を衛星放送1チャンネルで放送することができるMUSE(Multiple Sub-Nyquist sampling Encoding)方式を開発し、1985年の科学万博 つくば'85では1.2GHz地上実験局を開設し、地上放送によるハイビジョン実験放送を行った。これらの衛星、地上におけるハイビジョン放送の実証実績が評価され、技研が提案するハイビジョン方式が国際統一規格となり、現在、世界中の多くの国々でハイビジョン放送が視聴されるようになった。
国内では1988年のソウルオリンピックで行われた本格的なサービスに向けたハイビジョン中継放送実験の成功を受けて1989年から定時実験放送が開始された。1992年に行われた紅白歌合戦生中継、1993年の皇太子殿下のご成婚や、94年のリレハンメルオリンピックでの色鮮やかな映像が多くの人の関心を集め、さらに、95年の阪神・淡路大震災ではハイビジョン撮影カメラがとらえた生々しい被災地の光景は多くの人の心を打つところとなった。ハイビジョンテレビ受像機は年を追って需要を拡大し、21世紀に入ってからはデジタル放送の開始と相まって既存のテレビをほぼ置換するようになっていった。現在ではネットワーク技術とも結びつき、放送に限定されず携帯やスマートフォン、PCなどで広くハイビジョンが容易に撮影、視聴されるようになった。加えて高品質な映像の再現性から医療分野をはじめとする多くの科学技術分野で用いられている発明となり、映像を用いるアプリケーションの基盤技術に成長している。
1125本方式のワイドディスプレー
画像提供:NHK