安定成長期
ハイビジョン放送
イノベーションに至る経緯
ハイビジョン以前の世界におけるテレビ放送は大きく分けてNTSC方式、PAL方式、SECAM方式によって行われていた。NTSC方式はNational System Committee(米国テレビ方式委員会)によって定められた方式で、その頭文字をとってNTSC方式と呼び、米国をはじめとして日本のテレビ放送にも採用された方式である。PAL方式はドイツで開発された方式でPhase Alternation by Line(位相反転線)と呼ばれるライン単位で色信号の位相を反転する技術を用いた方式であり、技術名に由来してPALと呼ばれている。PAL方式は、NTSC方式で生じる色ひずみを自動補正できることに特徴があり、主にドイツを中心とした欧州諸国で用いられていた。SECAM方式はフランスで開発された方式でフランス語の順次式カラーメモリ(SÉquentiel Coulours À Mémoire)を意味し、モノクロ受信機では若干妨害が発生するがNTSC方式やPAL方式のような色信号間の干渉が生じないため、カラー画像が劣化しないという特徴をもった、主にフランスと旧ソ連の国々で採用されたテレビ方式である。このように、それぞれの地域において異なる方式が使用されていたため、国際映像配信において映像を交換する際に複雑な信号変換を必要とするなどの不便を生じていた。
技研では白黒テレビの実現の後、NTSC方式によるテレビ映像のカラー化に向けて研究開発を行っていた。1964年の東京オリンピックに向けてカラー放送の本格的普及を推し進めるためにカラー映像の中継技術、スローモーションVTR、静止衛星による中継技術の開発などを行い、世界で初めてオリンピックの衛星生中継を実現した。東京オリンピックに伴うこれらの技術革新は世界における日本のテレビ技術を大いに飛躍させるものとなった。そして、東京オリンピックの終了とともに次なる10年後を目標として“次の世代のテレビ開発”に目を向けて研究を始めることとなった。
当時、テレビのライバルであった映画では標準の画面形状の5:4からワイド化へと進んでおり、シネマスコープ、スーパースコープ、ビスタビジョン、シネラマ、パノラマと大型ワイド化が競われていた。しかし、このワイド化の流れに対し、何が最適であるかを示す技術的データはなく、最適なサイズが不明なままであった。また、眼鏡式の立体映画が作られ始めた時期でもあり、研究者の多くは“立体映像こそ終極のテレビ”と考えていた。技研でもモノクロ時代から偏光板を使用した方式の実験は既に終えており、更に一歩進め、どんな情報で目は立体感を感じるのか、どんな情報を送ればいいか、目の疲労は、など、立体テレビの基本的な問題についての検討も行っていた。しかし、立体映像として眼鏡をかけるような両眼立体視などを目標とせず、ホログラム的なものを検討していたため10年後の実用化のめどが立たなかった。
このような背景のもと、技研では新たなテレビシステムを設計するに当たり、感覚レベルの設計ではなく、それまでのテレビではなしえなかった高度な心理レベルを満たすものを開発しようということになった。このテレビをただ精細度の良いテレビと区別する意味で“高品位テレビ(High-Definition Television)”と名付けて研究に取り組み、その先には終極の立体テレビへとつなぎ発展させていこうということになった。また、これまで国ごとにばらばらであったテレビ方式をこの高品位テレビで統一するために誰もが納得できるシステムとすることを目標として掲げることにした。この新たな放送方式を実現するに当たり、カメラ、ディスプレーをはじめとした放送機器の開発を進め、国際統一規格とするための標準化活動を含め全方位にわたり新放送方式の実現に向けた活動を開始したのである。