安定成長期
フラッシュメモリ
イノベーションに至る経緯
(EPROMの開発)
コンピュータの開発とともに不可欠となった記憶デバイスは、長らく記憶する情報処理量の大きさ、コスト面での優位性そして電源を切っても記憶を維持し得る不揮発性から磁気コアメモリがその中心としての位置を維持してきた。しかし、処理情報量の増大を追求しつつこれを微細化するには限界があった。1970年のDRAMの発明は、半導体メモリを実用化し、更なる微細化による記憶容量増大の展望を切り開いたことからパソコンをはじめとする小型家電やモバイル型機器への活用を視野に世界的規模での熾烈な開発、改良競争が展開されていった。
一方、DRAMの場合、記憶されたデータは電源を切ると自動的に消去される(揮発性)ことから、これを磁気メモリのように記憶させ保存できるようにする(不揮発性)半導体メモリの開発も並行的に研究されていた。
1971年、米国インテル社のドブ・フローマンは小型で不揮発性を有する新たな記憶デバイスEPROMを開発し72年特許化した1。しかしこのEPROMはデータの消去には、強力な紫外線の照射を必要とし、その消去までには少なくとも20~30分以上を要するという弱点を有していた。このためほぼ同時期に発明されたDRAMの爆発的な需要の拡大の前には限られた市場しか獲得できなかった。
日本企業においても半導体メモリにおける不揮発性への挑戦は進められていた。東芝では、1971年、原央による2層多結晶シリコンゲートを用いたSAMOS(Stacked gate Avalanche injection MOS)と呼ばれる不揮発性半導体メモリの特許出願がなされていた。当時、東芝総合研究所の武石喜幸研究室にいた舛岡富士雄は、このSAMOSを更に改良した技術を開発し特許出願するとともに製品化にも取り組んでいた。1973年には256ビットと2k ビットのメモリアレイを試作し、製品化を果たしている。この製品はインテルの製品に比べても優れた機能を有していた2。
しかしながら東芝は、その後DRAMの競争力強化に半導体部門の社運をかけ、舛岡を含め研究者の多くが不揮発性半導体メモリの開発から遠ざかるところとなった。舛岡は更に1977年、そのDRAMなど東芝が開発した製品の営業のため研究所を離れて米国に渡った。舛岡によれば、その経験は「苦しかったが結果的には勉強になった。市場が欲しているのはどのようなものかが自分なりに分かったからである」と述べている3。1年後、米国から帰国した舛岡は、研究所には戻らず引き続き製品の生産歩留まりの計算などを担う部門に配属された。そこでは集積回路の原価の仕組みを学び、「メモリのビジネスをどのように行い利益を上げるか」を深く考え、DRAMに代わる新たな不揮発性の半導体メモリが将来の市場を支配するとの確信を深めて独自にその開発に取り組んでいった4。
1980年、インテルは電気的に書き込み、消去できる16kbitの、一括消去(フラッシュ)型EEPROM(Electrically Erasable Programmable Read-Only Memory)を開発した。しかし、この新たな半導体メモリはコスト面からなお不揮発性メモリの主力であるハードディスクとの差が大きく特殊な用途にしか使われないと思われた。
舛岡は、半導体不揮発性メモリのコストが高いのは、1ビット当たり2個のトランジスタから構成されているからであり、そこにDRAMのようなランダムアクセス機能を持たせているからと考えるに至った。そこで、この機能を思い切ってなくすこととし、それには多数のメモリビットを一括して消去することにすれば、1個のメモリトランジスタで電気的に書き込みも消去も実施できる構造になると結論した。この考えのもとに考案されたメモリ(3層多結晶シリコン型EEPROM)を1980年11月を皮切りに特許として逐次出願していったのである5。
(NOR型フラッシュメモリの発明)
1980年に出願開始した技術を製品化するためには試作品作成の作業を行わなければならなかった。しかし、出願から3年ほどは、なお続くDRAMの熾烈な開発競争のただ中にあって、東芝の半導体開発陣に不揮発性半導体メモリの試作にとりかかる余裕はなかなか生まれなかった。
1983年、東芝の開発した1Mb DRAMは、世界の半導体市場で大きな成功を収めるところとなった。これを契機に、舛岡の提案は上司の許可を得て開発が認められることとなった。1984年、国際電子デバイス学会(International Electron Devices Meeting IEDM)において舛岡ら東芝のチームは電気的に一瞬にして256kbt一括消去できる不揮発性のメモリの動作確認成果を発表した。この製品は先に発表されていたインテルのEEPROMに比べビット当たりの専有面積が4分の1以下であり、コストの大幅な低下を可能にするものであった。そして、そのメモリ名を「フラッシュメモリ」とし、以後この名称が国際的に普及していくこととなった。
(NAND型フラッシュメモリの開発)
NOR型フラッシュメモリの発明は、大きなインパクトを、とりわけインテルに与えた。インテルは直ちに東芝にそのサンプル等情報提供を求めつつ迅速に大規模な人数の研究陣を擁してこのNOR型フラッシュメモリの商品化に取り組み始めた。一方、舛岡は、なおハードディスク等磁気デバイスを置き換える半導体メモリの追及を続けていた。NOR型ではなおコスト面での磁気メモリとの大きな差を縮められないと考えていたのである。1986年、舛岡はNOR 型フラッシュメモリの約半分のセルサイズを実現したNAND 型EEPROM(NAND 型Flash memory)開発の企画を提案した。翌1987年には半導体事業部から総合研究所に戻り、NAND 型Flash メモリ開発チームとともにその実現に取り組んでいった。
1987年、その成果はIEDMで発表された。このNAND型フラッシュメモリの特長は、1本のデータ線に多数のメモリセルを配置したアレイの回路構造にある。NOR型では1本のデータ線に1ビットのメモリセルが接続されているだけであったが、NAND型ではそれが8ないし16ビットに増加している6。これによって半導体メモリのコストを決定する1ビット当たりのメモリセルの専有面積の大幅な削減が図られることとなった。なお、「NANDフラッシュメモリ」の名前の由来は、マスクROM(消去できない半導体メモリ)において「NAND型接続」との命名(接続するトランジスタの数を増やせば増やすほど、bit当たりのメモリセル面積が小さくなる。論理演算に使われる論理積の否定(NAND)から採ったもの)があることに鑑み、NAND型接続で一瞬にして電気的一括消去できることから名づけられた。
この発表は、再び海外企業の注目を集めた。一方東芝においては、試作に成功した4メガビットのNAND型フラッシュメモリの製品化という大きな課題に直面することとなった。1990年に発売された製品は、不良品の多発を招き結局生産を断念せざるを得なくなったのである。問題は、記憶書き換え回数の想定外の多さとそれに伴う事象の分析等が未熟だったことにあった7。多様な仕様の接続機器との運用上の整合性を取るには従来のメモリ動作を前提にしたシステムでは酸化膜の劣化を防げなかったのである。1991年に新しいNAND型フラッシュメモリの仕様案を内外のコンピュータメーカーに提案し、議論を重ねて世界標準化メモリへの構想を固めた8。
1994年、舛岡は東北大学に移り、製品化への取り組みは白田理一郎、中根正義らの開発チームに委ねられた。
4メガビットの次の製品である16メガビットの量産化も、歩留まりの悪さなどから撤退が現実化する危機に陥った。「ナンドやってもダメなNAND」と陰口をたたかれながら、かろうじて生産を続ける状況が続いた。
転換は1995年、デジタルカメラなどの製品がフラッシュメモリを取り上げることとしたことから始まった。大きな需要が現出したのである。また、2000年には、ファイル応用フラッシュメモリのもう一方の勢力であるSandisk社でも使用されることとなった。この機をとらえて東芝はNAND型フラッシュメモリの標準化を一気に進め、成功した。それまでのメモリの世界標準化はほぼすべてが米国発であったが、初めて日本初のそれが実現したのである。
フラッシュメモリの開発はその後も多値技術(一つのメモリセルに4つ以上の値を記憶させる技術)等の開発によって大容量化し、兆円単位の市場を出現させるまでになった。とりわけ21世紀になってからは携帯電話やデジタルカメラの普及に沿って目覚ましい展開をみせつつある。NOR型は従来のROMの代替化を進め、NAND型はDRAMをしのぐ容量を実現して大容量ストレージとして携帯電話、オーディオ機器、そしてデジタルカメラなどに広く使用されている。その世界市場規模は日本半導体歴史館の推定では2010年段階で260億ドル、それは年率5%の規模で拡大すると予想されている9。