安定成長期
酵素入りコンパクト洗剤(アタック)
イノベーションに至る経緯
(1)無リン化への挑戦
石鹸は長らく洗濯用、浴用、工業用等、様々な洗浄材の中心的地位を占めてきた。しかし、高度成長を迎えた1950年代半ば以降、電気洗濯機の普及と歩調を合わせて合成洗剤が衣料の洗浄用として急速に生産高を増大させ、1963年には衣料用合成洗剤生産高は石鹸の生産量を凌駕するまでになった1。
一方、1960年代後半に入ると、農業用水での化学肥料や都市排水に含まれるリン分が、河川や湖沼の富栄養化をもたらし、アオコや赤潮との関連が注目される等次第に大きな社会問題となった。一般家庭での洗濯に使用される洗剤は、その洗浄力の主役がトリポリ燐酸ソーダ(STPP)のような縮合燐酸塩であったことから、富栄養化問題が深刻化するにつれてその改善が求められるようになった。高まる世論の批判に対し、1970年代後半以降業界では自主規制によってリン分の含有率の低下を段階的に図ったがSTPPは洗浄効果に大きな効果を示しており、洗浄力と低リン化の双方を劇的に改善するのは容易ではなかった。低リン化のためにゼオライトやクエン酸ソーダ類あるいは酵素など様々な助剤(ビルダー)が研究され、低リン化は徐々に進行したが、洗濯後のむらの発生や石油危機の発生による材料コスト高騰あるいは製造時における微粉の酵素の人体吸入による安全性問題の提起などにより、無リン化を達成することはできなかった。
そのような状況の中で1979年、ライオンが発売したタンパク質分解酵素のプロテアーゼを活用した「トップ」は、酵素を顆粒化することでその安全性を確保し2、低リン化を実現しつつ洗浄力を保持向上させるのに成功した画期的な商品となった。
酵素の低リン化への有効性は深く認識され洗剤各社はさらにその研究開発を進めた。一方、瀬戸内海、霞ケ浦そして琵琶湖などではなお続く赤潮やアオコの被害に対する危機感が強まっていた。1979年、瀬戸内海環境保全特別措置法(昭和48年10月2日法律第110号)が改正施行され、富栄養化に関する法による規制が本格化したが、さらに1980年には滋賀県による「琵琶湖富栄養化防止条例」が、そして1982年には茨城県による「霞ヶ浦富栄養化防止条例」が施行されるなど、無リン化は待ったなしの状況といえるまでになった。花王は、1980年いち早く「ジャスト粉末」でこれを実現し、ライオンも同年に無リン化したトップを発売し、他社もこれに追随して無リン化新製品を開発していった。
(2)コンパクト化への挑戦
瀬戸内海環境保全特別措置法が最初に施行されたのは第一次石油危機が生じた1973年であったが、これが恒久法となった1979年は、イラン・イラク戦争に端を発した第二次石油危機が生じた年でもある。第一次石油危機に際しては、日本中でトイレットペーパーとともに洗剤の品不足が深刻化し、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律」(昭和四十八年七月六日法律第四十八号)や「国民生活安定緊急措置法」(昭和四十八年十二月二十二日法律第百二十一号)が施行されてパニック化した世情を正常化すべく政府が全力を傾注した年となった。
第一次石油危機によって、日本経済は高度成長から安定成長への移行、産業構造の転換や石油の中東依存からの脱皮などが目指されるようになったが、消費者マインドにおいても節約志向、省資源、省エネルギー型社会の実現を図る機運が強まるところとなった。
洗剤メーカーも高騰した石油価格による原料コストの増加を吸収し、消費者マインドの変化に応じて容器の小型化とそれに対応した洗剤の濃縮を目指す動きが生じた。そのための粒子の密度の向上や活性剤の改良等の技術開発が進められ、1975年からは花王、ライオンなど大手洗剤メーカーが相次いで濃縮小型洗剤を発売した。当初の販売実績は好調であった。使用水量の減少、実質価格の低下を実現し、これが将来の主流になるとみられていた。しかし、次第にその売れ行きは鈍り、80年代に入るころには従来型の大箱での販売が主流となって小型洗剤は市場から撤退していった3。さらに80年代に入ると、アメリカのプロクターアンドギャンブル(P&G)日本法人がリードする特大の洗剤が、「お徳用」として受け入れられ、これが市場での大型化競争を激化させた。そうして、洗剤は、需要量は増加し続けたが大容器で低価格といういわば成熟した商品となっていった。
こうした状況下で第二次石油危機は生じた。今回の危機にあたっては前回のような洗剤をめぐる深刻な物不足現象は起きなかった。しかし、改めて洗剤メーカーにはその材料コストのアップや供給途絶の懸念から省資源、省エネの課題がなお大きなものであることを突きつけたのである。新たな取組が必要であった。花王は再度、コンパクト洗剤に挑むことにした。しかし、コンパクト化だけでは消費者を納得させ得るか、過去のコンパクト化失敗の反省から洗浄力でも強力な製品にしなければならなかった。5年の歳月をかけて開発され1987年発売されたのが「アタック」である。
アタックは容積が従来の4分の1という4大きさで、洗浄力も極めて強く、少ない容量で大型の洗剤に匹敵する効果を示していた。「スプーン1 杯で驚きの白さ」というキャッチフレーズで、大ヒット商品となり、その後各社がこれに対抗すべくコンパクト洗剤を発売するようになった。大型の箱製品は急速に市場から姿を消していった。
アタックの小型化を実現した技術は洗剤粒子の高密度化造粒技術で、同社の和歌山研究所で研究されていたトナー関連技術の応用によるものであった。トナー関連技術の研究を進めるなかで、その微小な対象に取り組む粉体技術に関する知見が蓄積され、洗剤の中空構造の粒子の圧密化に適用できると考えたのである。
洗浄力の強化は、酵素としてアルカリセルラーゼを実用化したことによっていた。アルカリセルラーゼは、それまでの酵素が汚れに作用してこれを分解して落とす機能であったのに対し、直接繊維に働きかけて、いわば繊維とともに汚れをはがすという抜本的な汚れの除去を実現させるものであった。これによって汚れが落ちにくい木綿のような繊維に対しても深く浸透し、「驚くほどの白さ」を実現することが可能となった。
花王では1970年に発売した洗剤「スーパーザブコーソ」に既にプロテアーゼを使用していたが、当時は安全性の問題が提起されており、販売を中止した経緯があった。顆粒化による安全性の確保とともに、小型化、無リン化そして洗浄力の大幅なアップを図るうえで様々な検討が加えられ、新酵素アルカリセルラーゼに行き着いたのである。一方、この酵素の基礎的研究は理化学研究所で展開されていた。アルカリセルラーゼの製造にあたってはその基本特許のライセンスと理研が有する菌株の譲渡、さらに、これを低コストで、しかも安定的に大量生産してくれる別の菌株のスクリーニングが必要であった。
アタックは、前回の第一次コンパクト化失敗の反省を踏まえ、容器に計量用のスプーンをつけていた。それまで多くの消費者は目分量で洗剤の投入量を決めていた。このため第一次のコンパクト化の際、消費者は分量が少ないだけに大めに洗剤を注入しがちになり、かえって割高感を与えたとの反省があった。正確な分量を量るようスプーンを付け、また一度にどっとあふれたり、こぼれたりすることのないよう箱や出口の形状にも配慮した構造にしたのである。さらに、釣り手を付け、運びやすさも工夫した。
コンパクト洗剤の出現により、消費者への利便性のみならず輸送の効率化、廃棄物の減少そして保管の利便性向上など様々な効果が発揮されるようになった。コンパクト化は日本にとどまらず90年代初頭には世界に波及し5(米国で40%、日本、欧州では80%が酵素入り洗剤であった)、酵素入りコンパクト洗剤は世界の標準となった。
ウルトラアタックNeo
(画像提供:花王)