安定成長期
3.5インチフロッピーディスク
イノベーションに至る経緯
(1)フロッピーディスクの誕生
フロッピーディスクシステムは、1967年に米国IBM社のデビット・ノーブルをリーダーとする最先端技術開発チームにより開発された。当時、既に大型コンピュータにはハードディスクドライブが採用されていたが、コンピュータへの命令及びソフトウエアのロードは、依然としてパンチカードやパンチテープが用いられ、多数のパンチャーがこの業務に携わっていた。開発チームは、まず、磁気材料でコーティングした可とう性プラスチックディスクを開発し、これをドライブに直接差し込んで利用するという全く新しいストレージシステムを実現した。しかしながら、むき出しのディスクをそのまま用いていたため、磁気コーティング面がさらされたままで、汚れやすく、保管が難しい等の問題を抱えていた。この問題を解決するために、開発チームは新たに埃除去材を取り付けたジャケットを開発し、可とう性磁気ディスクをこのジャケットに収納する方式を採用した。1971年に発売された世界で最初のフロッピーディスクシステムはこの方式を採用した。初期のフロッピーディスクは、それまで使用していたパンチカード3000枚のデータを1枚のディスクに記録することが可能であり、かつデータを一気にコンピュータに読み込ませることが可能であったことから、IBM社はそれまで自社のビジネス成功のシンボルでもあった「パンチカードシステム」の撤去を決断した4。
(2)パソコンへのフロッピーディスクの搭載
米国MIT社は1974年にパソコン普及の引き金となったともいわれるマイクロコンピュータAltair8800(キット)を米国で発売した。この登場を契機として、その後全米にいくつものコンピュータ自作クラブが結成されたが、1975年にシリコンバレーで設立されたホームブリュー・コンピュータ・クラブ(Homebrew Computing Club)もそのひとつであった。初期のミニコンピュータは、プログラムやデータのロードをトグルスイッチやパンチカード・パンチテープなどにより機械的に行うものであったが、まもなくオーディオ用コンパクトカセットテープ装置が利用できることが知られるようになり、その利用も拡大した。しかしながら、急速に進化するパソコンのプログラムやデータのロードにオーディオ用カセットテープ装置を用いることの限界も明らかであった。
ある日のホームブリュー・コンピュータ・クラブの会合で、シュガート・アソシエイツ社のソルトマンは、アップル社の共同創業者のひとりスティーブ・ジョブズから面談の申し込みを受けた。ジョブズが目を付けたのは、シュガート社がこの会合のために準備し、展示していた5.25インチ・フロッピーディスクシステムであった。ジョブズは、この装置を自社の新たな製品に採用できることを説明し、シュガート・アソシエイツ社とディスクドライブのサプライヤー契約に成功した5。アップル社のもうひとりの共同創業者スティーブ・ウオズニアックが設計し、1977年に発売したAppleⅡは、世界で初めての個人用で、量産型の完成品パソコンであり、また世界で初めてフロッピーディスクドライブ2基を搭載したパソコンでもあった。
パソコンへのフロッピーディスクドライブの搭載は、パソコンの新たな可能性をもたらすものとなった。翌1978年に米国Personal Software社が発売した「VisiCalc」は、パソコン用としては世界で最初の表計算ソフトと言われているが、直ちにApple Ⅱのキラー・アプリケーション6となり、多くのビジネスマンがこのアプリケーションを利用するだけの目的でAppleⅡを購入したと言われている。VisiCalcの成功は、アップル社の成功を確実なものとしただけでなく、それまで趣味だけのものと考えられていたパソコンがフロッピーディスクを介してビジネスの世界でも活用できることを立証するものとなった。
(3)3.5インチ・フロッピーディスクシステムの開発
1976年にソニーの社長に就任した岩間和夫は、「コンピュータの分からない会社は、90年代には生き残れない」という信念のもと、それまでソニーが扱っていなかったオフィス・オートメーションとマイクロコンピュータ関連機器分野への参入を考えていた。このプロジェクトを担当する部署として1979年に新設した「システム開発部」には、新規採用者を含む25名が集められ、新たな活動を開始した7。ターゲットのひとつが、英文ワードプロセッサーのコンポーネントとして用いるフロッピーディスクシステムであった。岩間は、ソニーの長年培ってきた映像技術、磁気記録技術、半導体技術に新たな技術を加えることができれば、フロッピーディスクは手の届くところにあると考えていた。それまでフロッピーディスクの一ユーザーであった研究者たちは、メーカーとして新しい視点でその開発に取り組むこととなった。そこで、これまでそれぞれがフロッピーディスクシステムに対して抱いていた疑問や不満を整理することにより自分たちが欲しいと考えるフロッピーディスクシステムのイメージを固めた。
・新しいメディアはこれまで以上に小さなもの(3インチ程度)とする
・磁性体を塗布した可とう性ディスクは磁気シート面に手が触れることがなく、埃が入りにくい半剛性のプラスチックケースに入れる
・記録容量はこれまでのものを上回る1Mバイトを目標とする
開発が進むとともに、それまで予想していなかった様々な難問に突き当たることにもなった。当初作成したプラスチックケースは分厚いものとなったことから8、これを薄くするための様々な試みが行われ、試作品では3ミリほどまで圧縮したが、今度はその薄さのためにケースが曲がってしまう現象に直面した。高速でデータを読み取る磁気ディスクにとってケースの湾曲というのは致命的な問題であった。また、ヘッド挿入用長孔を開閉するコの字状のシャッターが薄すぎるケースでは、シャッターの開閉を行うバネを挿入するスペースを確保できないという問題も生じた。開発チームはこれらの問題をひとつずつ解決した。
小さな径のディスクにこれまで以上の情報を記録するためにも、新たな技術の開発が必要であった。開発チームはトラック数を従来の2倍とし、幅の狭い円形トラックに70本以上のトラックを用意することを考えた。このためには、磁気ディスクの位置決めをより精度の高いものとすることが必要となったが、取付孔付近で回転駆動軸と抑え部材により上下から挟着するそれまでの方式では、可とう性ディスクの取付孔の一部がめくれあがって変形することや、周辺部が回転駆動軸により損傷を受けることから、磁気ディスクのセンター出しの精度を上げることは簡単ではなかった。そこで、開発チームは磁気シートの中央部に金属製のハブ(芯金)を固定し、そのほぼ中央に方形のモーター軸挿入孔を開け、磁気ディスクの中心から少し離れた位置に位置規制ピンを挿入する孔を形成する方式によりこれを解決することとした。回転駆動機構には、各挿入孔に対応して回転駆動機構(ドライブ)とモーター回転子上面に設けた磁気ディスクの位置規制(センター出し)を行う位置規制ピンが配置された。この組み合わせにより、カセットケースがドライブに装着されると、磁気ディスクはカセットケースのほぼ中央に配置されることから、正確な記録・読み取りが可能となった。ここで開発された「フロッピーディスクの位置決め機構」は、発明協会の平成7年全国発明表彰において特許庁長官賞を受賞するものとなった(図2 「特許庁長官賞を受賞したマイクロフロッピーディスクの位置決め機構」参照)。
新たな開発は、これだけにとどまらなかった。厚さ3.4ミリのプラスチックケースに入れられ、その取り扱いは格段に向上し、記憶容量も1メガバイトを実現した。こうして実現した3.5インチ・フロッピーディスクシステムは、厚さ3.4ミリのプラスチックケース入り。1メガバイトの記録容量を実現し、それまでのフロッピーディスクの常識を塗り替える新しい記録メディアとなった。
図2 特許庁長官賞を受賞した「マイクロフロッピーディスクの位置決め機構」(特許1624853号)
(4)市場への登場
新しいフロッピーディスクシステムを採用した英文ワープロシステム「シリーズ35」は、1980年にオフィス・オートメーションが急速に進んでいた米国市場に投入された。次いで、1982年にこのドライブを搭載したパソコンSMC-70が日本で発売された9。
当時、小型フロッピーディスクの開発はソニーだけでなく、他の日本企業も積極的であった。ソニーが英文ワープロを発売した翌年、松下電器産業(現「パナソニック」)、日立製作所、日立マクセルの3社が共同で3.0インチコンパクトディスクの規格を発表し、この市場の拡大を狙っていた。
小型フロッピーディスクの市場競争が激しくなるなかで、ソニーはコンピュータ関連製品の世界市場拡大のためには、これまで禁句ともなっていたOEMによる製品供給についても真剣に検討を始めた。ソニーは1955年の「SONY」ブランド使用開始以来、原則としてマークが付いていない製品の生産又は販売を禁止していた。コンピュータという新たな市場を開拓するにあたって、取引先を限定することになるこの方針は市場拡大の妨げのひとつとなった。開発チームでも社内用途にこだわらず、他社でも使用できるようにしなければ市場は拡大しないという意見が台頭してきた。創業者の井深大や盛田昭夫らに対しても説得が行われ、最終的に新しいフロッピーディスクシステムのOEM提供の障害は排除された。
1982年に米国のヒューレット・パッカード社(HP)が自社のパソコンへ搭載するために新しいフロッピーディスクシステムの提供をソニーに求めてきた。HP社はソニーに様々な要求を次々と求め、ソニーもその要求に積極的に対応した。この経験がソニーにコンピュータ・メーカーの仕様に耐え得る製品開発力を育てたともいわれている。1983年に発売されたHP社のパーソナルコンピュータHP-150は、オペレーティングシステムとしてMS-DOSを採用し、CPUにインテル8088を搭載し、タッチスクリーンを備えた最新のパソコンであったが、同時に、米国で初めて3.5インチロッピーディスクドライブ2基を搭載したパソコンともなった。安価で、信頼性が高く、これまでのものと同等の記録容量をもつ新しいフロッピーディスクシステムは、直ちにメーカー及びユーザーの注目を浴びるものとなった10。
アップル社も、Lisaに続く新しいパソコンに搭載するために3.5インチ・フロッピーディスクシステムに注目していた。1984年1月、アップル社の新しいパソコン「Macintosh 128K」は衝撃的デビューを果たした。ステージ中央に立ったスティーブ・ジョブズはマッキントシュのカバーを外し、ジャケットから小さなフロッピーディスクを取り出してマッキントッシュの前面に開いたスロットに差し込むと、会場は一瞬にして歓喜の声で埋め尽くされた。
3.5インチ・フロッピーディスクはその後も進化を続けた。当初400kバイトにすぎなかった記録容量は、その後720kバイト、1.23Mバイトと拡大し、1987年に登場した両面高密度ディスクは1.44Mバイトを実現した。
(5)国際標準化
1982年、米国規格協会(ANSI)は、米国市場に様々な規格のフレキシブルディスクが氾濫するようになったことから、その規格化の作業に着手した。同じ年米国ではMicrofloppy Industry Committee(MIC)が設立され、ソニーにもこの委員会への参加が求められた。MICの場で、ソニーはいくつかの仕様について、その改善可能性を求められた。シャッター開閉の自動化、トラック数の変更、プロテクトのセンサー変更などである11。ソニーはこれを受け入れ、新たな仕様を発表した。1984年ごろになると米国の標準化の議論は、2つのグループに絞られてきた。ソニー、Verbatim、BASF、HP、Apple等が推す3.5インチグループと、3M、Dysan、Maxell、パナソニックが推す3.25インチ・3インチグループである12。こうしたなかで、3.5インチ規格は1984年にはISOの場で国際標準規格に認定された。規格争いの勝者が決定的なものとなったのは、IBMが1986年に同社初のラップトップ型PC Convertibleに3.5インチドライブを採用し、更に1987年にPS/2とPS/55の全モデルに採用したことだといわれている13。これにより3.5インチ・フロッピーディスクはパソコンのデファクトスタンダードとなり、ほとんどのパソコンに標準装備されるものとなった。
図3 フレキシブルディスクの国内生産量推移
※1 単位:千枚
※2 1988年以前及び1997年以降は、サイズによる区分はしていない。
出典:経済産業省「機械統計年報」
(6)小型フロッピーディスク市場の拡大
パソコンの普及とともに、3.5インチ以下の小型フロッピーディスク(メディア)の生産も急増した。この爆発的な伸びは経済産業省が小型フロッピーディスクの統計を取り始めた1989年以降も増加を続け、1993 年には2億枚を超え、その生産額も500億円に迫った(図3 「フレキシブルディスクの国内生産量推移」参照。1980年代後半から海外生産へ生産拠点をシフトした日本企業の生産はその後も拡大し、1988年の生産額では、世界需要の90%以上を日系企業が提供するものとなったといわれる14。
3.5インチ・フロッピーディスクはパソコン文化にも大きな影響を与えた。3.5インチ・フロッピーディスクを模したアイコンは、現在でもMS-Officeをはじめとする世界中のアプリケーションでファイル保存あるいは「上書き保存」を示す記号として広く使用されている。