安定成長期
CD・CD -R
イノベーションに至る経緯
(1)デジタル・オーディオ技術とオプチカル・ディスク技術の実用化
1968年、NHK技術研究所で音響技術の研究に携わっていた中島平太郎博士(以下「中島」と呼ぶ)は、そこで世界初のデジタル録音機の開発に成功した。1971年、中島は井深大や島茂雄らの誘いに応じ、ソニーの技術研究所長に就任した。
1972年、オランダのフィリップスは光学方式のビデオディスク規格としてVLP方式を発表し、同じ年米国のMCA(Music Corporation of America)社もDisco Vison方式を発表した。さらに、フィリップスは1974年からエラー訂正符号を持ったデジタル・オーディオ光ディスクの開発を開始した3。
中島はソニーに入社して2年程経つと、内々にデジタル・オーディオの研究を再開していた。アナログ音声信号を符号化する方式にはNHK時代に用いていた「PCM(パルス符号変調)方式を採用することとし、1974年にソニー最初のPCM録音機を完成させた。これがソニーのデジタルサウンド録音の第1号となった。次いで中島は、より小型で安価なものを目指し、カセット式VTR(ベータマックス)を用いたデジタル・オーディオ録音装置の開発を主導し、PCMプロセッサの開発に成功した。このプロセッサは、1977年に世界初のデジタル録音再生プロセッサPCM-1として商品化され4、1977年秋のオーディオフェアにおいて、デジタル・オーディオ信号を直接光ディスク上に記録したビデオ・ディスク・プレーヤとして発表した。この情報は直ちにデジタル・オーディオ光ディスクの開発を行っていたフィリップスの耳にも入ることになった。
各社が様々な方式でビデオディスクやDAD(デジタル・オーディオ・ディスク)を開発している中で、その規格統一を図るため、国内外29社が参加して「DAD懇談会」が1978年に発足した。
1979年3月8日、フィリップスは内外の記者を集め、新たに開発した11.5㎝の光ディスクとそのプレーヤーを発表した。
(2)コンパクトディスク規格の共同開発
1978年6月、当時ソニーの副社長であった大賀典雄(以下「大賀」と呼ぶ)はフィリップスのオッテンスからの誘いに応じ、フィリップスを訪問した。フィリップスが大賀を招いたのは、更なるオーディオディスクの共同開発と商品化の打診のためであった。
何度かの接触の後、両社は共同開発を行う方針を固め、両社でまとめた規格をDAD懇談会に提案することになった。
光ディスクで先行していたフィリップスと、デジタル・オーディオ技術を開発したソニーの共同開発は1979年8月から始まった。両社ともその傘下にCBS・ソニーレコード、ポリグラムという世界的なレコード会社を持っている点でも同じ土俵にあった。
一方で、共同開発が開始すると、開発するCDのコンセプトが両者でかなり違っていることが明らかとなった5。ソニーはクラッシック音楽の微妙な違いも分かるような高品質なものを目指していたのに対し、フィリップスは車の中で聞くカジュアルなものを考えていた。このコンセプトの違いは様々な部分に表れてきた。既に試作CDを発表しているフィリップスはデジタル化する時の量子化ビット数6を試作したものと同じ14ビットとすることを提案し、ソニーはより高品質となる16ビットとすることを求めた。またディスクの大きさについても、フィリップスは試作したものと同じ直径11.5㎝を提案したのに対し、ソニーはクラシック音楽の95%以上の曲が入る12㎝とすることを求めた。結局これらの点についてはソニーの主張が受け入れられ、高品質のCDとすることとなった7。さらに、「誤り訂正」8が問題となった。このためにソニーが提案していた訂正方式に対してフィリップスが隣接符号等についてサジェストをし、そのサジェストに基づいて開発したCIRC(Cross-Interleaved Reed Solomon Code)が採用された。これは、傷などによる連続誤りがある場合にも訂正できるよう、信号を単純に時系列的に並べるのではなく、ある範囲にばら撒いて配置して誤り訂正を行うものであった。
1980年6月にDAD懇談会が開催された。この場でソニー・フィリップスは両社で合意した光学式ディスクを提案し、同時に提案されたドイツのテレフンケン社の「機械式」、日本ビクター(現 JVCケンウッド)の「静電式」の3案が検討の対象となった。翌年、懇談会は一つの方式に特定するのを避け、ソニー・フィリップス方式と日本ビクター方式に集約させることで評価作業を終えた。
(3)音楽用コンパクトディスクの商品化
1981年にCDの基本となる規格、いわゆるレッドブックが制定されると、ソニーは、直ちに商品化に取り組んだ。半導体等解決しなければならない課題は200項目にも及んだ。この頃、プレーヤーの心臓部ともいえる「光学ピックアップ」についても光を出す半導体レーザーダイオード、対物レンズ、2軸システムのようなデバイスについては満足できるものがなかった。ソニーは社内だけでなく他社の半導体レーザーダイオード等についても検討し、シャープが1982年に開発、約4万時間という驚異的な製品寿命を達成しているp型GaAs基板を使用したVSIS (V-channeled Substrate Inner Stripe) 構造のものが適していることを確認した。また、コニカ(現 コニカミノルタ)が世界で初めてプラスチック成型による超小型・低コスト非球面レンズを開発すると、直ちにコニカへその使用を打診した。これらの導入により初めて家庭用CDプレーヤーの商品化が実現した。
一方で、音楽ソフトの商品化も急がなければならなかった。ソニーとフィリップスは手分けして世界中のソフトウエアメーカー、レコード会社、音楽団体等を回って、その説明を行った。当時CBS・ソニーレコードの社長でもあった大賀は、親会社のCBS及びソニーに対しても、クリーンルームの建設等、高額の投資を必要とするCDソフト工場の建設を認めるようCBSの幹部を説得した。最後まで残った課題は、プレスしたメディアの「反り」という問題であったが、ポリカーボネートという新しい素材により解決し、最終的な商品化が決まったのは1982年の8月であった。
同じ月、ソニー、フィリップス、CBS・ソニーレコード及びホリグラムは、東京大手町の経団連会館でCD及びCDプレーヤーの販売開始を発表した。
同じ年の10月1日、ソニー、日立製作所、日本コロムビア(日立製作所製)のCDプレーヤーが発売され、同じ日にCBSソニー、EPICソニー、日本コロムビアから世界初の60タイトルのCDソフトが販売された。その3週間後、欧州でもCDプレーヤーがフィリップスから、CDソフトがポリグラムから販売された。1982年に40万枚から始まったポリグラムのCD製造は、1984年に600万枚、1984年には1300万枚、1985年には2500万枚となり、世界のCD出荷量の3分の1を占めるまでとなった9。
市場への投入が遅れた北米でも1983年の前半にはCDプレーヤー及び音楽ソフトの販売が始まり、1986年の世界のCD生産量は6000万枚に達した10。
(4)データ記録用コンパクトディスク(CD-ROM)の普及
CDの基本となる規格を定めたレッドブックが制定された4年後の1985年、コンピュータデータ記録のための最初のCD規格(CD-ROM規格)が制定された。CD-ROMは540MB(当初)の記憶容量を持ち、信頼性、量産コスト、読み取り速度のいずれにおいても、それまで可搬式の情報記録媒体の主役であったフロッピーディスク(FD)に代わるものとなり、パーソナルコンピュータに欠くことができないメディア・補助記憶装置となった。当初の規格は互換性が十分でなく、普及のためには多くの課題を抱えたものであったが、その当時から、多くの情報プロバイダの注目を浴びるものとなり、商用オンラインサービスを行っていた情報プロバイダが次々とCD-ROMサービスを開始した。我が国では1985年に三修社が最初のCD-ROM出版である「最新科学技術用語辞典」を発表し、これに続き広辞苑等、様々なソフトが発売された。
1988年に互換性を高めたCD-ROM XA規格(いわゆるイエローブック)が制定され、標準論理フォーマットが採用されると、その普及は更に前進した。それまでの媒体と比較にならない大容量を持つCD-ROMの登場は、回線のインフラストラクチャーが不十分な時代にあって、パーソナルコンピュータによる画像、動画、サウンド等を簡単に使える媒体として、次のマルチメディア時代の先駆けとしても注目され、ゲームソフト、絵本、地図ソフト、学習ソフトが次々と発売され、多くのクリエータがこれに注目するようになる。
2005年にはパーソナルコンピュータの光ディスクドライブの世界の生産数は2億7400万台となった11。
(5)追記型コンパクトディスク(CD-R)の開発と普及
太陽誘電は1982年から磁気テープによる記録メディア事業を展開していた。この事業において、次の商品とされたのが有機材料を使った記録メディアの開発であった。1984年に浜田恵美子博士により光ディスクの調査が始められ、その後、少しずつ加わった4名のスタッフとともに研究開発が進められた。
開発チームは、ソニーとフィリップスにより当時最高の技術を結集したCDが開発されていることから、その開発目標をこの規格に対抗するものではなく、この規格の下で新しい製品を開発することとした。その候補となったのが、CDあるいはCD-ROMと互換性をもち、データを書き込むことができる追記型光ディスクCD-Recordable(CD-R)であった。
CD-Rは一度だけデータを書き込むことができるもので、記録したデータを変更することや、削除することはできない12。波長780nmにおいて高屈折率、低吸収係数を有する色素により記録層に干渉構造を形成するものである。書き込みのできる光ディスクはソニー、フィリップス、ヤマハ等から発表されていたが、最大の問題は既に市場に出ているCD及びCD-ROMとの互換性がないことであった。家電メーカーはプレーヤーを売るために規格を作ることができるが、メディアメーカーには、これまでのプレーヤーでも再生できるものを開発しなければならないという宿命があった。ここに、「CDとの完全な互換性を持たせる」という方向付け決まった。
太陽誘電におけるCD-Rの開発は手作業で始まったが、1987年頃には上位互換13のみを備えたものが完成した。これを見たソニーの中島の意見は、あくまでも「フルコンパチブルでなければならない」というものであった。互換性を妨げているのが反射率にあることが明らかとなった。CD-ROMドライブは、反射率が70%以上なければデータとして認識できないが、試作したものは50%以下であった。そこで反射率を上げるための試みが行われ、最終的にCDに使われているアルミ箔より反射率の高い反射膜を入れる構造が考え出された。これにより開発は急ピッチで進み、太陽誘電は1988年9月に世界初のCD-Rの開発を発表した。この規格は1990年に「オレンジブック・パートⅡ」として発行され、同じ年これに書き込むためのCD-Rドライブも登場した。
その前年である1989年に、ソニーと太陽誘電は共同でエンドユーザ向けサービスを行う「スタート・ラボ」を設立し、中島が初代社長として着任した。太陽誘電は、CD-R製造の第1号ラインを1990年5月に完成させたが、すぐに販売することはできなかった。当初はレコーダが市販されておらず、レコーディングはソニーの内部用の機械が用いられていた14。このため、スタート・ラボが最初に手掛けたサービスはCD-Rを使ったレコーディングサービスであった。当時、レコーダは200万円もする業務用だけであったが、レコーディングサービスが始まると、放送局や、パソコンソフトのクリエータがレコーディングサービスの新たな顧客となった。
CD-Rの普及には多くの課題が残されていた。その一つが著作権問題であった。当初のCD-Rは音楽用を中心としていたため、レコード会社からCDの複製に用いられるのではないかという警戒感があった。この問題等により、CD-R一枚の値段が3000円ということもあった15。その後、低価格のパソコン用ライターが登場し、また台湾製のCD-Rが大量に市場に入り価格を引き下げる要因となった(表2「記録型光ディスクの生産量年次推移」参照)。反面、価格の低下は、多くのユーザーを捉えるものともなった。これにより、極めて短期間の間にCD-Rが大容量記録媒体と認識されるようになり、一気にその普及が進んだ。
CD-Rメディアの世界年間売上げは1998年に6億枚、2003年には100億枚を突破した16。