公益社団法人発明協会

安定成長期

ATM

イノベーションに至る経緯

 1960年代末までの銀行あるいは郵便局などでは、預金者がその預金の預け入れそして引出しを行うには、通帳と印鑑を持って窓口で手続きを行うのが一般的であった。そのため、しばしば銀行等の窓口には整理券を手に長い待ち時間を強いられる人々の姿が見られた。また銀行の職員はその日の現金の出納を閉店後1円単位で計算し、誤りのないことを確認したうえで帰宅が許されるという厳しい管理システムの下で職務を遂行することとされていた。

 一方、欧米では、1960年代に入ると急速に週休2日制の導入が政治課題として重要視されるようになってきた。それが導入されると預金者はそれまでの日曜日以外に土曜日も現金の引出しができなくなる。そこから生まれたのがキャッシュ・ディスペンサー(CD)であった。

 世界初のCDは、1967年、英国のデラルー・インスツルメント社が開発した。最初のCDは今日のそれと大きく異なり、中央のコンピューター・システムとつながっておらず(オフラインCD)、CDに挿入するカードは小切手様式の紙製のものであり、払い出しは10ポンド単位の現金が袋詰めにされる形をとるものであった。デラルー社は短期間ではあるものの、米国にも進出し、ファースト・ペンシルベニア銀行などにおいて設置されたという4

 日本でも、1969年立石電機(現・オムロン)と組んだ住友銀行(現・三井住友銀行、以下「住友」と呼ぶ)が1969年12月に日本製のCDを導入して梅田北口支店と新宿支店に設置した5。また三井銀行(以下「三井」と呼ぶ)は、1970年1月にデラルー社のCDを導入し東京数寄屋橋支店の外壁に設置して年中無休の支払サービスを実施している6

 このCDの導入に先立つ1960年代半ば、日本の銀行業界は世界でまだどこも実施していなかった大きなプロジェクトに挑戦していた。それは銀行の本支店間をコンピューター回線でつなぎ、支店―本店間の台帳処理を即時に実施するオンライン・リアルタイム・システムの構築である。真っ先にそれに挑戦したのは三井であった7。現金の出し入れをコンピューター管理に委ねるという決断は容易ではなかったが、IBMの協力を得て1963年秋にその導入を決断し、65年都内10支店との間で、さらに68年には首都圏の支店全てとつなげることに成功した。三井に次いでオンライン化を推進し、より徹底したネットワーク化を実現したのは平和相互銀行(現・三井住友銀行)であった。同行は1964年に研究を開始し、1966年には同行の全店舗とのオンライン化を実現している8

 このオンライン化は、その後次々と他の金融機関も導入していった(第一次オンライン化)。例えば、住友においては普通預金に加え定期預金や当座貸越などの預金も対象とした総合オンライン・システムを開発している。

 また、この第1次のオンライン化は異なる金融機関との連携の動きを活発化させることとにもなった。

 さらに企業やその従業員にとっても、給与の自動振込みを増加させることとなった。1971年には三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行、以下「三菱」と呼ぶ)が世界で初めてこのオンライン化にCDを組み込む9ことを実現した。これによって職場で現金給与が支給される必要はなくなり、それは事業所への現金輸送の業務をなくすことにもなった。1968年に発生した現金輸送車に対する3億円強奪事件は、現金輸送のリスクを強く認識させるものであったが、この自動振込みとCDの活用により、そのリスクを大幅に減らすこととなった。

 しかしながら、キャッシュ・カードの利便性は再び銀行のCDの前に預金者の長い行列を生むこととなった。銀行窓口の業務も繁忙を増していた。このような状況下で、1973年、石油危機が勃発したのである。銀行冬の時代と呼ばれた深刻な不況に直面し、金融業界においても人員整理等の合理化が不可避の状況となった。

 1975年、住友が口火を切って都銀各行は一斉に第2次オンライン化のための投資を実施した10。これによって本店主体の集中管理体制を構築し、預金、貸付、為替などシステム別の管理を連動させ得る総合化の実現、顧客単位の集計など、業務効率の大幅な向上を目指したのである。窓口ではテラーとオペレーターの分離が解消され、テラーがオペレーターにもなるワン・ライン・システムに簡素化された11

 他の金融機関との相互接続システムもこの第2次オンライン化を契機に更に進められた。ただし都銀、地銀そして相互銀行や信用金庫など銀行業態の相違により、その垣根を越えての連携には困難もあった。そのため、まずそれぞれの業態ごとに連携システムが構築されていった。一方、1974年には、郵政省が全国の郵便局のオンライン化構想を発表し、10年後にはそれを実現している。世界最大のATMネット網であった。

 これらの動きと並行して、CDの銀行外での設置も進展していた。第2次オンライン化の2年前、1973年に当時の大蔵省は慎重な検討を経てCDの銀行外での設置を認め、初めてCDが銀行の外に設置(伊勢丹新宿店)された。店舗外への設置は徐々にではあるが駅やデパートなど人口の密集する地域に展開された。こうした屋外CDの設置や郵便貯金(以下「郵貯」と呼ぶ)のオンライン化などにより預金者はどこでも同じ取引が可能となることを求め、金融機関にとっても巨大郵貯との競合等のためには機関別の垣根を越えて、どのCD、ATMからも支払い、預け入れを可能にするネットワーク・システムの構築を急ぐようになった。1980年代、都市銀行間、地方銀行間、信用金庫間と相次いで同種銀行間オンライン・システムが稼働、1990年代には都銀―地銀のつながりもでき、そして、1999年には郵貯との連携にまで至る壮大なネットワークが形成されることになる。

 このような状況の下で、日本初のATMは、1977年に導入された12。これによって預金、送金業務も自動化されたことにより、窓口での金銭授受は大幅に簡素化されていった。ATMの登場によって銀行は、機器のメンテナンスについても外部委託が可能になった。

 1982年には沖電気工業がATMに入金された紙幣を支払いにも使用できる還流型ATMの開発に成功した。これは贋札使用という犯罪防止効果を上げるとともに、現金紙幣の回転の大幅な効率化を実現するものとなった。

 ATMとつながるオンライン化は、日本の都銀の大衆化を推進し、それまで地銀、信金などの地域に根差した金融機関との預金獲得競争において低かった伸び率を高めることに貢献した13

 1990年代初には日本の都市銀行の預金規模は世界のトップ水準に達している14

 銀行によるオンライン化は、その後1985年に第3次のそれが進められている。「住友銀行史:昭和五十年代のあゆみ」によれば同行の第1次オンライン化(1967年)から第3次オンライン化(1984年)までの17年間で預金残高は約10倍に、事務量は4倍に、人員数は4分の3になり、一人当たりの事務処理量は約5.6倍に達したという15

 しかし、銀行業界におけるATMは、90年代以降、その設置、運用コストの高騰から次第に減少傾向を見せるようになった。一方、この80年代後半から、新たな担い手によるATMのネットワークが出現してきている。一つはセブン銀行を嚆矢とするコンビニ系統のATMであり、24時間年中無休の稼働サービスや料金支払いの代行業務などを推進し、急速にその取扱額を増加させてきている。1998年には東京電力や東京ガスそして大阪ガスなどの公共料金の窓口支払い件数において銀行のそれを凌駕するまでになった。また、海外カードの使用による現金出納の分野への活用は外資系銀行やカード会社において、小口融資サービス分野は消費者金融会社などによりATMが活用され、新たな市場を開拓していった。

 ATMが初めて設置された1977年当時は、日本の、とりわけ非製造業におけるネットワーク・ビジネスが飛躍を迎えた時代であった。1974年のセブン-イレブンのコンビニエンスストア第一号店の発足、1975年の警備業におけるオンライン・セキュリティ・システムの開始、そして1976年の宅急便の登場に見られるように、石油危機後の日本の非製造業部門をリードするネットワークが築かれていった。日本のCDそしてATMシステムは、世界に先駆けてそれをオンライン化と結び付けてネットワーク化し、預金者の便宜と業務の効率化を大幅に実現したイノベーションであった。

 そして、今日ではインターネットを使用した決済や預金など新たなネット金融がスマートフォンを通じて世界規模で簡単に利用されるようになっている。その将来性が注目される。


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