安定成長期
レーザープリンター
イノベーションに至る経緯
1970年代に入り、コンピューターの普及が進むとともに、文字や数字に加えて同時にグラフや図表も高品位で印刷する需要が高まっていった。それまではインクリボンなどを使用した活字式のラインプリンターが主流であったが、上記の需要の拡大とともに1969年にゼロックス社が開発したレーザービームを使用したプリンターへの関心が強まっていった。
米国ではIBMが、ドイツではシーメンスがその開発に乗り出すなど2世界の名だたる電子電機メーカーが一斉にその開発に着手した。日本でもNEC、日立、富士通など大手電機メーカーの多くが開発に取り組んだ。
キヤノンは、複写機の世界でかつてゼロックスの鉄壁とみられた特許を使わずにNP(NEW PROCESS)方式という独自の電子写真技術を開発した実績を持っていた。コンピューター周辺機器の需要が伸びる中で、こうした光学関係で培った技術をプリンター部門で生かすことはできないか、1972年、中央研究所にレーザープリンター開発に向けたチームが結成された。
レーザーにヘリウムネオンを使い複写機開発で培った技術を用いた開発は1975年に目途がつき、そのサンプルは同年5月のNCCで公表することとした。しかし、その矢先、IBMは同社が開発した商用レーザープリンターの発売を公表したのである。その性能は極めて優れたものであった。キヤノンが開発したLBP-4000はレーザープリンターとしては世界で初めてNCCで公開され、翌年LBP-2000が商品化されたが、機能面ではIBMの発表した製品との差は歴然としていた。コンピューターとのオンラインでの操作が可能なIBM製品に対しキヤノンのそれは小型であったが、オフラインであり、印字速度も6倍以上もの差があったのである。
キヤノン社内では、次の開発目標についての意見が分かれ激論が戦わされた。大胆な小型化と大幅な低価格化を主張する考えと、引き続き大型で高速化を目指す考えである。後者の考えからすればLBP-4000の開発などを通じてヘリウムネオンレーザーによる技術が既に多く蓄積されているのを無駄にしたくなかった。一方、前者は、IBMの開発方向と同じではメインフレームコンピューター部門を持たないキヤノンは勝てない、思い切った小型化を目指し、より手ごろな値段の普及型を目指すべきとの考えであった。結論は前者の小型化に決まった。開発チームが再編成された。
小型化するのには、まずレーザーを何から得るかであった。これまでのヘリウムネオンを使用する方法ではレーザー装置自体で1mほどの長さがあり、その縮小には限界があった。さらにヘリウムネオンレーザーでは光を一度つけると同じ状態が続くため画像形成にはオン、オフの切り替えを行わせる音響光学素子が必要であった。キヤノンのチームが目指す小型化にはヘリウムネオン以外のレーザー発光装置を探さねばならなかった。チームが着目したのは当時ようやく米国で開発されていた半導体レーザーを使用することであった。これが使用可能なら装置は小型化でき、また画像信号を入力さえすればレーザー光はオン、オフできるので、音響光学素子も必要ではなくなることが予測された。
しかし、当時の半導体レーザーは熱に弱く20℃を保つ必要があった。この課題の解決は半導体レーザーにペルチェ素子を抱き合わせ、冷却して解決した。
また、ヘリウムネオンレーザーでは赤色光(628nm)を発するが、半導体レーザーは赤外光(820nm)であった。当時の感光ドラムでは赤外光に対しては感度が十分ではなく使用できなかった。解決には新たな感光材を開発しなければならなかった。幸運にもキヤノンの複写機に用いられている独自の高感度感光材料CdS(硫化カドミウム)は改良によって好結果を示し、これを用いて赤外光に対して感度を有するドラムを開発した。
半導体レーザーを実現するためにとった第二の大きな技術開発課題は「イメージ露光」の実現であった。イメージ露光とはテレビの画像形成と同じように、感光ドラム上にレーザー光をスキャニングしながら、レーザーをオン、オフし画像を形成する方法である。いわば鉛筆で紙に文字を書くように、感光ドラムにレーザーが黒い文字を書くという考えの新たな技術を追求したのである。
この「イメージ露光」は、当時の複写機が使用していた、「バックグランド露光」を適用した画像以外の白い部分をレーザー照射するものに比べて数十分の一の面積にレーザー照射すればよく、半導体レーザーの使用時間が圧倒的に少なく、また、相乗効果として、形成される画像のエッジの乱れも縮小された。
一方、「イメージ露光」にするには、独自に開発したキヤノンの複写機のバックグランド露光技術をそのままでは転用ができない。この実現のためには、複写機とはプラスマイナスが逆の極性をもつ現像剤を開発する必要があった。
それは複写機メーカーとしては自社の優れた技術方式をあえて使用しないという大胆な発想の転換が必要でもあった。
しかし、この発想によって開発された筋のいい方式はその後、画像品質向上やビットマップフォント開発に想像以上の貢献をした。新聞の活字はビットマップフォントに置き換わったのである。その後「イメージ露光」は他社も追随するところとなった。
こうして、ようやく技術的には半導体レーザーによるプリンターの基本は開発できた。次はこれを更に低コスト化しつつ、印刷精度を確保するという課題に取り組まねばならなかった。バリューアナリシス(VA)法に沿って一点ごとの部品を点検し無駄を省き、ヘリウムネオンレーザーのそれに比べ大幅な部品の削減を進めていった。また、レーザー光が感光ドラム上に正確に走査するためには高精度のポリゴンミラー(各面の角度)が必要であった。これは一つの焦点から出た光は、反対の焦点に集まるという凸レンズの原理を応用した光学系を用いることで、コストダウンに成功した。
1979年4月、キヤノンは世界初の半導体レーザープリンターの開発に成功し「LBP-10」の名称をつけて発売を開始した。価格は標準価格が195万円で、従来のほぼ10分の1となった。卓上型であり、ワープロ機能に加えてオンラインプリンターとしても又グラフィックプリンターとしても使用可能となった3。
LBP-10の発売から4年後、キヤノンは後継機である「LBP-8/CX」を発表し翌1984年から販売を開始した。この機種の価格は40万円台とLBP-10より更に大幅な低価格化を実現した。
その背景には、様々な技術進歩があった。半導体レーザーは耐熱性が向上し冷やす機能を不要としていた。また、波長がより可視光に近くなり、感光材料の選択肢も広がった。さらに、複写機の世界で開発された部品ユニットのカートリッジ化をプリンターにも適用した。とりわけ摩耗の激しい感光ドラムや現像ユニットなどをセットでカートリッジ化したことによりパーツ交換がスムーズになると同時に信頼度が大幅に高まった。LBP-CXは大ヒット商品となった。半導体レーザープリンターは、小規模企業でも手ごろな値段で買うことができるようになった。LBP-CXを使用したアップル社のスティーブ・ジョブズは訪れたキヤノンの設計者を「デスクトップパブリッシングができる」の言葉をもって感激させている。
しかしキヤノンは、コンピューター部門を有しない自社ではナンバーワンコントローラーは作れないと判断し、プリンターエンジンをコンピューターメーカーなどにOEM供給することとした。コンピューターとの接続のためのアプリケーションソフトの開発などは多様であり、販売先での開発に委ねることとしたのである。そのためHPやアップルといった大手コンピューターメーカーが自社のプリンターに適合するようソフトを開発し、各社のブランド名で発売するようになった。HPとアップルというパソコンの大手メーカーが同じレーザープリンターエンジンを使用することとなり、世界市場でのキヤノン製品、技術の普及を進める大きな要因になった。とりわけHPは、毎年新しく増えるパソコンアプリケーションのプリント動作確認を行い、全世界同時発売をできたことから、販売を急速に拡大した。キヤノンの半導体レーザープリンターはHPの厳しい品質・信頼性要求をクリアしつつ現在でもそのプリンターエンジンを供給し続けている。