公益社団法人発明協会

安定成長期

フォトレジスト

イノベーションに至る経緯

(1)国産フォトレジストの誕生

 1948年、アメリカのベル研究所において研究員のショックレー等が開発したトランジスターは、それまでの真空管に替わる半導体の時代を切り開いた。そして、1960年代に入るとそれは集積回路(IC、Integrated Circuit)へと発展し、先行する米国を追って日本でも多くの電機メーカーがその開発に取り組むようになった。

 半導体は、フォトマスクと呼ばれるガラス基板上に微細な半導体素子の回路パターンを描画し、その像をシリコンウエハー表面に塗布されたフォトレジストと呼ばれる感光剤に転写し、回路パターンのレジスト像を形成するという工程を経て製造される。この工程をフォトリソグラフィー工程と呼んでいる。

 この感光剤であるフォトレジストは、1960年代末に至るまで米国のイーストマンコダック社のKPR(Kodak Photo Resist)という製品が専ら使用されていたが、1970年代には新たにシプレー社等も台頭していた。アメリカ企業が圧倒的なシェアをもつなかで、わが国で最初にフォトレジストの開発に取り組んだのは、東京応化である。東京応化が取り組む契機となったのは、1957年、NHKの主導によりカラーテレビ用シャドウマスクの開発を目的とした蛍光体委員会が発足したことによる。この委員会には大日本印刷等4社が選ばれてその開発を担うこととなった。東京応化はその1社に選ばれ、大日本印刷が行うシャドウマスク製造のための周辺材料の開発を担うことになった。このシャドウマスク製造用のエッチングレジストには上記コダックのKPRが予定されていたが、高価であったことなどから、東京応化はその国産化を目指すこととなった

 KPRは、ポリ桂皮酸ビニルというエステルの一種であったが、東京応化はこの桂皮酸の分野で優れた技術開発に成功し、その販路を求めていたのである。しかしながら、その研究の成果は委員会で採用されなかった。当時のカラーテレビ用ブラウン管は米国RCA社のライセンス生産となっており、東京応化が開発したそれはRCA指定のレジストと異なった上に火災の危険性などの問題もあったからである。しかしながら、東京応化はその商品化の望みを持ち続け、その後も新たな需要が那辺にあるか追求していった。

 1961年5月、東京応化は高分子学会の講演会でポリ桂酸ビニルとゲル化量についての発表を行った。そして、これを聞いた聴衆の一企業からプリント基板などの電子部品用として自社開発品に類似の製品を求めているメーカーがあることを知った。電子部品としての新たな実需の存在を知った東京応化は、そのメーカーに接触し、その需要に見合う製品工業化のための課題解決に向けて東京工業試験所(現・産業技術総合研究所)に職員を派遣し、共同研究を開始した。そして、1年弱の期間を経て製造準備にこぎ着け、1963年TPR(Tokyo Ohka Photo Resist)の商品名で製造を開始した。しかし、当初は、懸命な販売活動にもかかわらず1963年の月間販売量がわずか80ℓという不振が続いた。

 1965年、市場に転機が生じた。プリント配線の製造方法が変化し、TPRはめっき用フォトレジストとしてその特性が認められ、大きな注目を浴びるところとなった。1966年4月には販売量が1000ℓを超えるまでになった。しかし、この段階ではなおプリント基板や印刷用材料需要にとどまり、半導体用には使用されていなかった。

 1968年、東京応化でTPRの改良に当たっていた中根久は、TPRの半導体用フォトレジストへの使用を社内に提案した。慎重論も根強いなかで中根は独自の情報収集に取り掛かった。上述のように当時はコダックのKPR全盛の時代であったが、中根はある技術者から米国では品質にばらつきの多いKPRからそれが安定した環化ゴム系のフォトレジストに移行しつつあり、日本でもそれへの関心が高まっていることを聞いた。東京応化は印刷用TPRの改良を通じて環化ゴムの基礎技術を確立していたことから半導体用のゴム系フォトレジストの開発に着手することとした。開発は迅速になされ同年9月には試作品が完成した。そして10月には日本で初の半導体用フォトレジストOMR-81(Ohka Micro Resist)が出荷された。なお、当時の東京応化は、いまだ資本金7200万円、従業員250人の中小企業であった。

 この製品の販売に当たって東京応化は、生産能力の大幅な増大を行う一方、技術者に営業を行わせる当時としては先進的なセールスエンジニア方針を推進した。ユーザーニーズの的確な把握とその要請に対する迅速な対応を図ったのである。

(2)ポジ型フォトレジストの開発と世界標準化の実現

 1970年代、半導体は1kビットの DRAMが数年の期間で4k、16k、そして、64kビットにと集積度を増大させICはLSIに更には超LSIへと展開していった。この間、東京応化のフォトレジスト(OMR-81からOMR-83へと展開)は、海外製品に代わって国内市場で着実に市場を拡大していった。70年代には他の化学メーカーもその成長性に着目し始めていたが、東京応化の優位性は揺るがなかった。

 1977年、64kDRAMの登場は超LSI時代の到来となったが、その集積度の高度化は、それまでのネガ型フォトレジストでは対応できない解像度を要求することとなった。その一方で、露光方式においても新たな方式が求められ、それに対応するフォトレジストとしては、ネガ型よりもポジ型が優位な耐性を示すことが明らかになった。東京応化は、既に1971年頃から、ネガ型よりも解像度の高いポジ型フォトレジストの開発に取り組み翌72年12月には、主として印刷用向けにOFPR-2(Ohka Fine Pattern Resist)名での製品を開発し、上市していた。そして、この技術的蓄積を生かすべく半導体用のしかも新しい露光方式に適したフォトレジストの開発に取り組んだのである。しかし、最適な薬品や樹脂の発掘は容易には進まなかった。多くの国内化学メーカーが、その要請に応え得る製品を提供できなかったなかで、群栄化学工業から提示されたノボラック樹脂のサンプルが、優れた性能を示すところとなった。これを使用して1979年11月、半導体用ポジレジストのOFPR-800が発売された。この製品は、1980年代初頭の64kDRAM時代においてその優れた性能からg線用ポジ型フォトレジストの世界的デファクトスタンダードとしての地位を確立した。日本の化学工業における多彩な樹脂メーカー等の層の厚さがイノベーションを促す土壌を形成していたことを示す事例の一つである。

(3)大手化学メーカーの本格的参入とすり合わせ協業体制の展開

 1980年代は日本の半導体産業が、世界一の生産高を占めるに至った時代である。86年にはNEC、日立、東芝が世界の半導体売上上位3社を独占している。この背景にはもちろん半導体メーカー各社の努力とともに、ステッパーなどの露光装置や洗浄機器など半導体製造装置、そして、フォトレジストなど関連産業における目覚しい進歩の歴史があった。さらに、政府においても1970年代後半の通産省による「超LSI技術研究組合」設立やNTTによる「超LSI開発プロジェクト」などのビッグプロジェクトがこれらの個々の企業努力を束ねる形で研究開発を推進し、日本の半導体の競争力強化に寄与したことも特記されよう。

 空前の半導体ブームとも呼べる80年代には、多くの企業がこの分野に参入したが、フォトレジスト分野でもそれまでの東京応化のみならず住友化学、信越化学、JSRそして富士フイルムなどの大企業が新たな供給者として登場するところとなった。

 東京応化が世界標準のフォトレジストを供給した64kビットの半導体は更に256k、1M、4M、16Mへと集積度を増大させ、4M以降は光源もそれまでのg線からi線に代わり、更に1990年代に入るとIBMのIto(伊藤洋)とWilson(C.G.Wilson)が開発した酸触媒反応を半導体微細加工用レジストに応用した化学増幅系レジストが、それまでの水銀灯に代わるより微細な光源としてのエキシマレーザー露光に適するとの観点から注目されるところとなった。この変化に対応して、フォトレジスト企業は半導体メーカーが示すそれぞれの独自の設計仕様に基づく新たな材料、薬品によるフォトレジストを従来以上に密接なすり合わせによって作り上げていかなければならなくなった。新たなi線分野では住友化学が優れた技術開発により急速に市場シェアを占めるようになり、それに続くレーザー光源KrF対応のフォトレジストでは信越化学の伸長が著しかった。更に21世紀に入ってからは最先端のArFレーザー対応するレジスト分野でJSR、富士通、日本電気が早期の開発に成功し、JSRが最大のシェアを有するところとなった。

 この間、上記のフォトレジストメーカーは、日本企業のみならず海外企業、欧米はもとより韓国、台湾などの企業へも自社のフォトレジストを提供し、その企業の要請に基づく製品の開発を通じて広範な国際的ネットワークをも築いていった。JSRは、日米欧の三極販売体制を構築し、「イノベーション・ワン・オン・ワン Innovation one-on-one」のスローガンを掲げて特に欧米の半導体メーカーとの共同開発体制を構築していった。東京応化も米、英、伊などの欧米各国に現地法人を設立し、更にシンガポールや台湾、中国、韓国などアジアにもネットワークを広げていった。

 一方、日本の半導体メーカーは、1990年代に入ると急速にアジアの新興企業との競争において苦境に立つこととなった。多くの企業が撤退ないし半導体部門の別会社化あるいは合併などの対応を迫られた。その結果、これと軌を一にして多くの半導体関連産業における日本企業のシェアの低下も生じるところとなった。しかしながら、フォトレジスト業界においては、すり合わせによる共同開発体制を国際的に展開していたこと等により、その後も続く半導体の世代交代に対応して引き続き優れた商品を提供し続け、現在でもなお圧倒的に高い国際市場でのシェアを維持している。

 日本におけるフォトレジストの開発の歴史は、東京応化の果敢な国産化への挑戦、そして層の厚い日本の樹脂メーカー等の存在を背景に、日本の化学メーカーが急速に進化する半導体の微細化への対応において常に世界最先端技術を維持し、同時にユーザーとの共同開発を内外にわたって展開して世界一の市場を維持してきたイノベーションの歴史である。


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