安定成長期
日本語ワードプロセッサ
イノベーションに至る経緯
1964年、IBM等が英文ワードプロセッサを発表した。しかし、アルファベットだけで文章を表現できる英語と異なり同音異義語が多く、多数の漢字の中から適正な文字を選択しなければならない日本語ワープロの実用化のためには、更に多くの課題を解決しなければならなかった。日本語ワープロ登場以前、漢字を入力するには和文タイプライタのような全文字配列キーボード又は漢字テレタイプライタを用いる必要があった。そのため、コンピュータ上で利用できるのは英数字とカタカナに限られる時代が長く続いた1。これらタイプライタのような文字単位の入力法ではなく、言語学の知見を用いた漢字入力法として、様々な試みが1960年から70年代にかけ、九州大学、沖電気、NHK、日本電信電話、大阪大学などで行われた。1964年に九州大学の栗原俊彦教授が開発し特許化した技術はかな漢字変換の基礎的な手法となった2。これを使って1967年に沖電気の黒崎悦明らはかな漢字変換システムを試作している。また、1970年にはNHK総合技術研究所の相澤輝昭が「文法情報を利用したかな漢字変換」という論文を発表している3。
商品化の観点から大きな反響を呼んだのは、1977年、シャープが、ビジネスショーに出品した試作品である。それはELパネル、インクジェットプリンタそしてキーボード方式のかな漢字変換システムなどを装備していた4。
1978年、東芝は自社内で開発を進めていたかな漢字変換方式の製品を発表した。これが世界で初めて実用化された日本語ワープロJW-10である。
この開発は、1971年に東芝の総合研究所にいた森健一によって始められた。彼は、日本語パターン認識の研究を専門とし、1966年、郵政省の郵便番号自動読み取り区分機の開発成功という実績を挙げていた。
当時、森は機械翻訳の研究を開始していたが、一方、社内の営業部門から「日本語の文章をもっと簡単にタイプできる機械」ができないかとの相談を受けていた5。このため、森は英文のように簡単にタイプができる機能を持った日本語タイプライタの開発を行うこととした6。そして、その具体的ニーズを調査する過程で新聞社への聞き取りを行ったところ、新聞制作の工程では活字化までに、①記者による記事の執筆、②電話での記事受け取り、③文選工による文字拾いといったプロセスを経る必要があることが明らかとなった7。森は、こうした文章作成プロセスをも簡略化できる日本語ワープロの研究を進めることとした。
しかし、学界を含む当時の考えでは、日本語を英文のワープロのように処理することは不可能に近いとみられており、タイプライタから一気に日本語ワープロの開発を行うための本格的な予算措置などは認められなかった。そのため東芝社内では、「アンダー・ザ・テーブル」と呼ばれていた、研究グループが自主的に設定する水面下の研究テーマとして開始された。それは研究時間や予算のうち10%~20%のみを利用することが認められるものであった8。
研究開発の開始時、森は日本語ワープロのコンセプトを以下のように設定した9。
①手書きで、清書するよりも早く文章の作れるもの
②英文タイプライタのように、ぶらさげてどこへでも持っていけるもの
③作った文章ファイルに、どこからでもアクセスできるもの
これらのコンセプトを実現するため、まずコンピュータによる言語処理の先端的な研究を取り入れることとした。1972年に研究開発チームの一員であった河田勉が、コンピュータを駆使した新しい情報工学を研究していた京都大学長尾研究室に派遣された10。そこには、後に東芝に入社し、チームの一員となってかな漢字変換システムの開発に取り組むこととなる天野真家も在籍していた。しかし、これらの学問上での言語理論を一気に実用化するには当時のコンピュータ性能などから限界があった。また、文字盤を用いたタブレット方式の検討も行ったが、入力速度に限界があり採用されなかった11。そこで1974年、文節の形態素解析を基本としたかな漢字変換方式の採用を決定し、計算言語的な立場から新たな国文法の研究開発を開始した12。
新たな文法体系の構築、それに基づく新型辞書の開発、実証実験に基づく新たな言語現象の発見、解決のためのアルゴリズムの変更、文法へのフィードバックなどの作業が繰り返された。そして、変換率96.9%のかな漢字変換システムが構築された13。
こうして、開発開始から5年たった1976年3月に大型コンピュータ上で動作する用語辞書と学習機能を備えた実用的「かな漢字変換システム」が完成した14。その後、開発チームは、東芝青梅工場のスタッフの参加を得て、かな漢字変換システムを取り込んだ製品のダウンサイジング化を追求した。さらに、プリンタ等、漢字処理用のハードウエア、OS、スクリーンエディタを一体化し、1978年9月、世界で最初の実用レベルの日本語ワープロJW-10を発表し、翌1979年に販売を開始した。発売価格は630万円と高額であり、消費電力も大きかったが、豊富な辞書を備え、ひらがな入力が可能であること、文書記録と編集機能を有していたことから、爆発的な反響を呼び、その後の日本語ワープロの原型となった。
東芝によるJW-10 の発売後、シャープ、NEC、沖電気、富士通など多くの企業が日本語ワープロ市場に参入した15。1982には23社がワープロを販売するに至った。全文字鍵盤入力、音訓による単漢字入力、文法を持たず、辞書だけを有するかな漢字変換入力などの製品も発売されたが、1980年代中頃までには、JW-10 が採用した形態素解析を行うかな漢字変換入力方式に収束した16。
その後も日本語ワープロの小型・低価格化は急速に進んだ。1985年6月東芝が販売開始した「Rupo JW-R10」の価格は10万円を切るレベルであった。また、かな漢字変換方式も同時期までに、文章全体を一括して変換可能とする「べた」入力や複文節入力などが実装された17。さらに、共起辞書(ある言葉に対して同時に使われることの多い関係語を辞書としたもの)を用いた同音語の識別を行う手法にニューラルネットワークの概念を導入することで、動的に同音語を自動選択する手法が開発・導入された18。また、液晶ディスプレイの導入、編集機能、印刷機能の強化などの技術面での強化が行われた19。こうして1997年には、日本語ワープロの普及率は42%とピークに達した20。
1990年代中盤以降、インターネットの一般化、ワールドワイドウェブ (WWW) 及びMosaicに始まるGUIベースのブラウザの登場、マイクロソフトによるWindows95の発売などにより、パーソナルコンピュータ及びインターネットのユーザは劇的に増加していった。一方、日本語ワープロソフトは、ジャストシステムが開発した、複数文節が連なった文を一度に変換する複合連文節かな漢字変換システムである「ATOK3」がパソコンに搭載されることによって高機能化が急速に進むこととなった。さらにマイクロソフトのWordなどのソフトの登場により、日本語ワープロとしての機能は日本語ワープロソフトに、ハードウエアとしての機能はパーソナルコンピュータにそれぞれ代替され、2000年以降、日本語ワープロ専用機は市場からほぼその姿を消した。
しかしながら、JW-10などで開発された「かな漢字変換技術」と「編集技術」等は、その後のパソコンや携帯電話など日本のあらゆる情報通信分野のかな漢字入力手段として引き継がれ、発展を続けている。
さらに、「かな漢字変換技術」で開発された言語処理技術は世界中の象形文字の入力技術に大きな影響を与え、漢字など表意文字を使う言語は、かな漢字変換技術を基にした各国独自の技術を開発することにより、日本語と同じように簡単に入力することが可能となった。
2008年、米国電気電子技術学会(IEEE)は、JW-10をマイルストーンに認定した。そこでは、小型ワープロがオフィスにとどまらず家庭にも浸透したこと、かな漢字変換システムが日本で数千万台のパソコンや、一億台の携帯電話に利用されていること、日本での成功が中国をはじめ他国にも影響を与えていること、24ピン漢字ワイヤドットプリンタの先駆けであったこと等が功績として挙げられている。