公益社団法人発明協会

安定成長期

移動電話(自動車電話、音声符号化等)

イノベーションに至る経緯

(1)自動車電話の誕生

 世界で初めての自動車電話サービスは、1946年に米国セントルイス市で開始されたといわれる7。その後、1973年にはモトローラ社がモバイルセルフォンのデモンストレーションを実施し、1978年にはAT&Tとモトローラが実用化実験の申請を行っているが、米国での標準合意に時間を要したことから、実際の運用は1982年まで待たなければならなかった。

 第二次世界大戦が終わると、それまで民間での利用が制限されていた我が国でも移動電話が注目されるようになる。1950年に東京、大阪、福岡などに導入されたパトカー用の「警察無線」に続き、1953年には我が国で最初の移動可能な無線港湾電話サービスが、京浜地区及び阪神地区の港湾内で商用サービスを始めた。列車公衆電話サービスについても1957年の近畿日本鉄道でのサービス開始に続き、1960年には東海道本線にも導入された。

 当時、電電公社では陸上移動無線技術には欠かせない電波伝搬特性の実験的解析が行われていた。1962年から3年間にわたって行われた伝搬実験で得られたデータは、電電公社やベル研究所で始められた900MHz帯自動車電話方式の設計にも使用され、世界的にも基準伝搬曲線(奥村カーブ)としてその後の無線回線設計に広く活用されるものとなる8,9

 電電公社によるセルラー方式の開発は1970年に遡る。「セルラー方式」は、比較的狭いエリアをカバーする基地局をサービスエリア内に規則的に配置し、一定距離以上離れた基地局同士であれば同一周波数を同時に使用することができるもので、同じ時期、多くの国で研究が進められていた。この方式では、基地局間の距離を小さくすることにより周波数利用効率を向上させることができるが、その実用化のためには複数基地局を連携させる複雑な制御技術も必要としていた。電電公社では、陸上移動通信用周波数帯として800MHz帯が使用できることを明らかにし、複数の隣接しない無線ゾーンで同一周波数を反復して使用する小無線ゾーン構成技術を確立し、1無線チャネル当たりの使用効率を改善した。また、多数の移動機に対し、能率よくかつ高信頼度で、多チャネル共用による周波数有効利用技術、多数の自動車電話移動機に対し能率よくかつ高信頼度で、通話に使用する無線チャネルを接続処理する技術、自動車が通話中に他の無線ゾーンヘ移行する場合に通話を継続させるためのチャネル切換技術等を確立し、その実用化を進めた。

 これらの成果をもとに、1979年に電電公社は世界に先駆けてアナログセルラー方式による「自動車電話サービス」を開始した10。このサービスは東京23区内から始まり、1984年までに全国サービスに拡大した。このサービスに用いた端末(車載機)は、大容量(6600cc)・大重量(約7kg)であったことから、車から持ち出して使用することは不可能なものであった。次いで開発された「車外兼用型自動車電話」(ショルダーフォン)は肩に掛けて持ち運びのできるもので、最初の自動車電話の各部をIC化し、回路の電力効率を改善したもので、携帯できる電話の実現に大きく近づいたものであったが、経営者や個人事業主などのステータスシンボル的なものと考えられ、一般に広く普及することはなかった11

(2)「携帯電話」の誕生と普及

 同じころ、政府の第二次臨時行政調査会(以下「臨調」と呼ぶ)は、三公社五現業及び特殊法人の在り方を議論していた。1982年の臨調第三次答申では、1)電電公社の経営合理化・民営化、2)競争原理の導入による独占の弊害除去、3)経営管理規模の適正化を挙げ、これが通信改革の基本フレームとなった12。これらを図るため、政府は、通信事業全体への民間活力の導入を図るため、公衆電気通信法を廃止して電気通信事業法案、日本電信電話株式会社法案、及び日本電信電話株式会社法及び電気通信事業法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案の通信改革関連三法案を国会に提出した。これらは1984年に成立、1985年に施行された。これにより、公共企業体であった電電公社は株式会社に改組され、日本電信電話(NTT)と新たに参入する事業者との競争のもとで多様なサービスを提供することとなった。

 

超小型・超軽量電話機の開発

 民営化されたNTTは、1987年4月に初めての「携帯電話サービス」を開始した13

 携帯電話サービスの開始にあたり、NTTは利用者の増加を図るためには携帯電話の小型・軽量化と、利用者の増加に対応できる新しい方式の開発が必要と考えていた。

 体積の小型化については、サービス開始の2年後(1989年)には新たに体積500cc、重量900gの携帯電話機(TZ-802B型)を開発し、市場に投入したが、その直後に米国モトローラ社がNTTの携帯電話機を更に下回る体積211cc、重量303gの「マイクロタック」が開発され販売が開始された。この携帯電話機は、ポケットに入る超小型のものとしては世界で最初のもので、同じ年、この携帯電話機を使ったサービスが、新規事業者のひとつである関西セルラーによりサービスされることが発表された。NTTは、日本電気、松下通信工業、三菱電機、富士通の4社の協力のもとに、日本の技術を結集した「世界最小・最軽量」の携帯電話機を開発するプロジェクトをスタートさせた14。開発機の設計にあたっては、操作性、通話品質、接続品質、サービスエリア、操作性、通話性、接続性、携帯性を設計項目としてまとめたが、最も重視したのは「携帯性」であった。ポケットに入る大きさと送信時の発熱による温度上昇の許容値を考慮すると、150cc程度とすることが必要であった。体積の小型化については、RFフィルタ・一体型内臓アンテナ、MMIC化送信電力増幅器、中間周波数回路、変調回路のLSI化、小型フィルタ類の利用、制御部のLSI化、厚さ4㎜以下の薄型電子部品の適用、0.5㎜ピッチSSOP-LSIと1005小型チップ部品の適用等、最新の技術を次々と採用し、従来のものに比べ約3分の1の大きさを実現した。重量については、体感重量の重要な決め手となる非重を極力1に近づけるようにした。消費電力を小さくするとともに、開発されたばかりの高エネルギー密度二次電池の採用が検討された15。電話機の外観デザインについては人間の好みによることから、形状基本形を次の3つのタイプのいずれかにすることとされた。①持ち易さを追求するもの、②鞄やポケットに入る運搬性を追求するもの、③携帯電話の送話口と受話口の距離を十分に確保し、通話時の安心感(通話の快適性)を追求するものである。特に③のタイプとして具現化されたのが「ムーバN」の「二つ折り構造」であり、その後世界中の携帯電話で基本形のひとつともなった16(図1 「1991年に発売されたNTTドコモの『ムーバ』」参照)。

 1990年に完成した試作機は、当時世界最小の体積150cc、重量約270gを実現し、1991年に「ムーバ」として市場に投入された。

 ムーバの登場は市場に大反響を呼び、契約数を急増させ、1990年度末に26万件であった契約数は、ムーバが出た1991年度末には53万件に倍増した17。これにより、それまでステータスシンボル的な存在であった携帯電話は、ビジネスツール、更にはプライベートツールとして定着するものとなった18

 

「大容量方式」の開発

 電電公社が自動車電話のためにセルラー方式を初めて採用した当時、セル半径は都市部で5㎞、郊外地で10㎞を基準としており、このシステム容量は、1地域(例えば関東圏)当たり10万ユーザーとなっていた。このため、首都圏を中心とする利用者の拡大は、1988年には容量限界に達するともみられていた。

 容量を増やすためにはセルの半径を小さくし、基地局数を増やすことによっても可能であるが、当時のユーザー数ではそのための投資に見合う収入を見込むことは困難であった。このため、基地局数を増やすことなくシステム容量を増大させるものとして1981年から研究を進めていたのが「大容量方式」である。

 この方式のために、同一周波数帯域幅で収容できる加入者数を増やすため、無線チャネル帯域幅を25kHzから 12.5kHzへ狭小化し、更に狭小化したチャネル間隔を6.25kHzへの更なる狭小化することができる位相平坦受信フィルター、周波数高安定多チャンネルシンセサイザー等が開発された。また、チャネル間隔狭小化による通信品質低下を改善し、空間的周波数利用効率向上のため、基地局、移動局の双方で受信ダイバーシティ受信19、干渉検出/回避、送信電力制御等の技術が開発された。さらに、無線回線制御効率の向上のために高速制御信号伝達、インサービス制御信号伝送、複局同時/順次送信、データスロット予約型空線制御等の技術が開発された20。また、東京など必要な地域に限り、従来方式にオーバーレイして導入する「方式総合化技術」を確立し、従来品質と同等以上の全国サービスを、同一無線周波数帯域幅の中で従来方式の2~4倍の利用者にまで発展させることを可能とした。

 この方式は、1986年の電気通信技術審議会で「将来の我が国における自動車電話方式に関する中心的方式」として答申され、1988年にNTTにより首都圏に導入された21。大容量方式は、通話品質の劣化対策としても有効なものであり、日本移動通信によっても東京地域でのサービスに採用された。

 

料金体系の見直し

 市場競争はサービス料金体系にも波及した。1993年当時、携帯電話(ムーバデジタル)を所有するためには、保証金10万円、新規加入料4万5800円、基本使用料(回線使用料)1万7000円が必要で、初期費用だけでも約15万円程度が必要であった。最初に導入されたのは「補償金」の廃止で、次いで「お買い上げ制度」の導入、更には新規加入料(1996年に無償化)や基本使用料の値下げが段階的に行われた。この効果も1994年以降の携帯電話利用者を加速することとなる。

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画像提供:NTTドコモ

(3)携帯電話のデジタル化とデータ通信

 NTTが開発した「アナログ大容量方式」は、日本独自仕様の世界で最も周波数効率の高いシステムであったが、20世紀末には各国とも普及拡大に伴う周波数不足やセキュリティの問題に対応することが求められていた。特に、欧州では各国が独自の方式を採用していたため、欧州域内での標準化が要請されていた。これを受けて、第2世代の携帯電話の開発は、それまでのアナログ方式からデジタル方式へ移行するとともに、世界で標準化した方式を実現することを目標として開始された。

 欧州では1987年からデジタル自動車電話の欧州統一システム(GSM)の検討が始まり、米国では1988から米国電気通信工業会がその検討を開始した。我が国では1989年に郵政省が調査研究会を立ち上げて、その検討を開始し、1991年に電波産業会型標準規格「PDC(Personal Digital Cellular Telecommunication System)方式」を制定した。PDC方式は、米国の「TDMA(Time Division Multiple Access)方式」、欧州の「GSM(Global System for Mobile communications)」とともに、国際電気通信連合(ITU)の場でその標準化の議論が検討されたが、結局、どの方式も合意を得ることができず、三方式すべてが世界標準となった。

 最初のデジタル携帯電話サービスは、1992年にGSM方式を採用したドイツでサービスが開始され、その後140以上の国に導入され、実質上の世界標準となった。

 米国ではTDMA方式を標準化したが、その後cdmaOne方式も標準化された。

 1993年にNTTドコモは、PDC方式によるデジタル方式のサービスを開始した。NTTドコモに続き、日本移動通信は1994年にPDC方式によるデジタル携帯電話サービスを開始したが、関西・九州・沖縄セルラーとその後「cdmaOne全国シームレスネットワーク」を完成し、国内に二つの標準が併存することとなる。cdmaOne方式は、米国、カナダ、オーストラリア、韓国等でも採用された。この結果、日本の携帯電話は、世界市場とは無縁の展開を進めることになる。ここに日本の携帯電話市場を形容するものとして「ガラパゴス化」という言葉が誕生したが、その後日本がいち早く第3世代携帯電話に移行しているにもかかわらず、世界の多くの地域は第2世代にとどまっている。

 デジタル化された携帯電話サービスは、周波数効率、通信品質、セキュリティに優れており、高度サービスの提供を可能とした。これにより、それまでの音声通話が中心であった携帯電話が、データ通信にも利用されるようになる。当初、2400bpsで始まったデータ通信の技術も進歩し、NTTドコモは1995年に「デジタル9600bpsデータ通信サービス」を開始した。更に1997年からは第2世代携帯電話としては初めてのパケット単位にデータを分割する「パケット通信方式」を採用し、「接続時間」から「情報量(パケット単位)」による課金システムを実現した22

 携帯電話のデジタル化は、これに続く多機能電話、更にはスマートフォン時代の先駆けともなるものであった。


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