公益社団法人発明協会

安定成長期

炭素繊維・炭素繊維複合材

イノベーションに至る経緯

 炭素繊維は、炭素が90重量%以上含まれる繊維であり、現在広く用いられているものとして、アクリロニトリル繊維を原料とするPAN系炭素繊維と、ピッチプリカーサー4を原料とするピッチ系炭素繊維がある。炭素繊維はそのまま利用することは少なく、多くの場合、樹脂やセラミクス等を母材とする炭素繊維複合材の強化材・機能付与材として用いられる。中でも最も多く用いられるのが母材に熱硬化性樹脂を用いた「炭素繊維強化プラスチック」(CFRP)で、軽くて強く、腐食しない、耐疲労性が良い、振動減衰が早い、熱膨張係数が小さい等の特徴から、飛行機からレジャー用品まで広い分野で使用されている。

 1950年代に耐熱性が要求されるロケット噴射口の材料が求められると、炭素繊維の研究が各国で活発となり、米国では1954年にユニオンカーバイト社(以下「UCC」と呼ぶ)がレーヨンを用いた高強力炭素繊維Thornel-25を発表した5。この炭素繊維はUCCの子会社であるナショナル・カーボン社により商品化され、1958年にロケット部品の材料として米国空軍研究所(AFML)に納入された。

(1)PAN系炭素繊維の開発と事業化

 PAN系炭素繊維は、大工試の進藤が米国でのレーヨン系炭素繊維の動向を知り、レーヨンとは別の合成繊維の炭素化に取り組んだことに端を発する。そして、米国デュポン社のアクリロニトリル繊維を用いたものが最も大きな強度を得ることを確認し、製造には焼成前に空気酸化という前処理が必要なことを見いだし、1959年に特許出願した。積極的に企業への技術指導や共同研究を行っていた大工試は、炭素繊維についても30社近くの企業に情報提供を行った。この中から、日本カーボンが月産500kgのパイロットプラントを建設し、1962年に最初の製品化を開始した。次いで、特許の使用許諾を受けた松下電器産業(現 パナソニック)、東海電極製造(現 東海カーボン。以下「東海電極」と呼ぶ)、日東紡もその製品化に着手した。発明を他の分野での製品化に結び付けるというこの方法論は、「進藤モデル」として後の産業技術総合研究所における研究開発の土台となる6

 この頃、我が国で炭素繊維に期待された特性は従来の材料にはない柔軟性であり、その用途は石油ストーブの芯、電熱布、静電防止剤、パッキングに限られていた。これに対し、既に材料革命が叫ばれていた欧米では、炭素繊維が航空宇宙産業などにおいて次の材料革命の主役とみなされていた7。進藤が1963年7月に米国で開催された米国炭素会議で「PAN系炭素繊維」を発表すると、多くの研究者の注目を集めた。とりわけ英国では直ちに研究に着手したRAEが、1964年に前処理過程で緊張処理することにより進藤のそれよりも優れた強度を持つPAN系炭素繊維を開発し、航空系複合材料としてその開発気運が一気に拡がった8。同時に原子力エネルギー研究機構やロールスロイス社そして世界有数の繊維会社コートルズ社も参入し、国家的プロジェクトともいうべき体制が構築されるまでになった。しかし、その研究課題の中心は日本において主流であった柔軟性よりは堅さを追求するものであった9,10

 一方、世界の航空産業において英国のライバルであった米国もPAN系炭素繊維の活用に注目していた。1965年には、当時日本で唯一のPAN系炭素繊維メーカーであった日本カーボンに米国空軍の要請を受けたボーイング社がアプローチし、高性能炭素繊維の生産の製造可能性を打診している。ボーイング社の注文を受けた日本カーボンは開発を進めたが、それは困難を極めるものとなった。原料となる純粋なアクリル繊維の製造メーカーが日本にはなかった上に、製造方法については上記英国のRAEの特許が壁となって立ちはだかったのである。

 ブレイクスルーは、全く別の分野から現れた。1965年からデュポン社との技術提携を受けてナイロンの製造に取り組んでいた東レは、その基礎研究所において森田健一(以下「森田」と呼ぶ)らがナイロンの原料の一つであるアジピン酸の新たな製造方法を研究していた。当時この分野の最先端の技術は電気化学的方法でアクリロニトリルから製造するものであり、米国モンサント社のそれであった。東レはそれに代わる触媒による方法を研究していたのである。この開発自体は失敗したが、その過程で1966年、アクリロニトリルとアセトアルデヒドを、触媒を通じて反応させると新規の化合物が生成されることを発見した。この化合物の利用可能性を調べたところ炭素繊維への適用が最も可能性が高いことを見出だし、1968年2月に特許出願を行った。

 この森田らの研究が進展していた時期は、日本カーボンや東海電極が米国の依頼を受けて高性能炭素繊維の開発に苦闘していた時期であった。それまでこれらの炭素系メーカーに原料を提供していた東レは、森田らが開発した新素材が炭素メーカーからの高評価を受けたことで自ら起業化する道を選んだ。需要の将来性を危ぶむ声もあったが、研究所長の伊藤昌壽をリーダーとした全社態勢が構築され、さらなる研究開発と販路の開拓にあたることになった。

 1970年、常時100gほどの炭素繊維束が試作できるようになった段階で東レは海外に営業部隊を送り、その販路開拓を推進した。同年4月にはUCCとの間でクロスライセンス契約が締結された。レーヨンベースで炭素繊維を生産していたUCCに対して、東レはアクリル原糸ベースの炭素繊維およびその製造技術を提供した。そして、東レはUCCの持つ焼成とプリプレグ11製造技術の供与を受けることとなった。この提携は技術面でのメリットもあったが、UCCの販売先であった炭素繊維の需要者であるボーイング社と関係を得たことが大きかった。

 続いて、1964年から独自の炭素繊維製造技術を開発していた東邦テナックスが、1975年に市場に参入した。1976年、三菱レイヨンも炭素繊維中間材料でこの事業に参入し、ここにその後PAN系炭素繊維市場をリードする我が国の炭素繊維メーカーが揃うこととなった。

(2)ピッチ系炭素繊維の開発と事業化

 ピッチ系炭素繊維は、1963年に群馬大学の大谷によるリグニンを原料とした発明に端を発し、1970年にはクレハが世界で初めて等方性ピッチを原料とした汎用短繊維を工業化した。1980年代にはピッチ系炭素繊維の開発が盛んになり、全世界で20社近くが参入していた時期もあったが、工業化のハードルが高いこともあり、2014年時点ではピッチ系炭素繊維メーカーとしては5社(クレハ、大阪ガスケミカル、三菱樹脂、日本グラファイトファイバー、Cytec Engineered Materials)のみである。なお、2015年に三菱樹脂は三菱レイヨンへピッチ系炭素繊維事業を移管し、三菱レイヨンはPAN系、ピッチ系双方を生産する企業となった。

 クレハは当時最大の事業分野であった塩化ビニル事業において、カーバイド法による生産を行っていた。しかし、1950年代頃からの石油化学工業の急速な成長の中で、石油によってポリエチレンなどの新製品を安価かつ大量に供給する企業が出現したことで、クレハも原料転換の必要に迫られていた。そして1960年代後半から塩化ビニルのモノマーを調達するために、クレハは原油分解という独自の方法による研究開発を推し進めた。この原油分解の基礎研究は想定通りの成果を挙げることができ、原油分解の副生物としてピッチを得ることができた。このピッチを有効に活用する方法として第一に考えられていたのが、炭素繊維だったのである。クレハの東京研究所では、かねてから大谷の協力を得て、塩化ビニル樹脂の熱処理によって生成するピッチを用いた炭素繊維の製造法が研究されていた。その研究成果を活用して、原油分解の副生ピッチから炭素繊維を作るという着想が生まれたのである。

(3)炭素繊維複合材の利用分野の拡大

 炭素繊維の利用は、航空宇宙分野での利用を目指して始められたものであったが、欧米並みの航空宇宙産業を持たなかった当時の我が国では、1970年代に入っても「市場が皆目不明」という状況にあった。

 スポーツ用品に代表されるCFRPの新たな利用商品の開発は、米国を中心に行われた12。CFRPを適用したゴルフクラブシャフトは、1969年に米国のシェークスピア・スポーツ・グッズ社で開発されたものといわれる。この開発には、その後東レと提携するUCCも参加した。1970年代にはCFRPを適用したテニスラケットが開発された。「デカラケ」と呼ばれた軽量のラージラケットで、一躍普及することになる。日本において東レが最初に着目したのも釣り竿等のスポーツ・レジャー用品であった。当時の釣り竿はガラス繊維織物にフェノール樹脂を含浸したプリプレグを使っており、これと同じように炭素繊維織物を用いたプリプレグが開発された。1972年2月にオリムピック釣具(現 マミヤ・オーピー)が発表したCFRP製釣具「鮎竿世紀」は、重さ800gから1000g程度だった従来のGFRPに比べ、500gにまで抑えることができたため、多くのユーザに受け入れられた。

 一方、早くから炭素繊維に注目していた欧米の航空機や宇宙分野では、より高機能、低価格の炭素繊維を開発することにより新しい需要に応えようとしていた。英国ではRAEにより改良されたPAN系炭素繊維が発表されると、ロールスロイス社はこれを航空機エンジンのファンブレードとして試用した。 

 航空機体の材料として炭素繊維に注目したのは米国であった。1975年、NASAは航空機の燃費を大幅に削減することを目指したACEE(Aircraft Energy Efficiency)プログラムを発足させた。この検討段階では、炭素繊維も研究の対象となり、CFRPの適用が、それまでのアルミ合金製部品に比べて22〜26%の軽量化を実現できることが明らかとなった。1982年にボーイング社はB757の方向舵に初めてCFRPを採用した。次のボーイングB767のCFRP使用量は機体総重量の3%に過ぎなかったが、1988年に就航したエアバスA320では初めて一次構造材に採用され、世界最大の民間旅客機といわれたA380では全重量の20%を複合材が占めるものとなった。

 そして、日本においても1988年防衛庁は 次期支援戦闘機(FSX、現F2)の日米共同開発にあたってはその主翼を炭素繊維複合材とすることを決定した。UCCとの提携を結んでいた東レは、とりわけ米国市場との関係を深め、こうした内外需要の増加の中で競争力を高めていった。

 1990年代に入ると、欧米の炭素繊維産業は、冷戦終結による軍需の激減という大きな試練に直面した。さらに英国で炭素繊維を用いて航空機用エンジンの開発に取り組んでいたロールスロイス社がその開発に失敗し、次いで倒産するという蹉跌に直面した。米国でも、ピッチ系炭素繊維に傾注していたUCCはPAN系の分野では大きなシェアを確保できなかった。世界の炭素繊維生産は日本が大きなシェアを確保するところとなった。

 2006年ボーイング社は東レとB787型機の一部構造材用炭素繊維複合材の2021年までの長期供給契約を結んだ。さらに2014年には新たに製造されるB777型機の一部構造材にも採用され、長期契約が結ばれた。また2010年、EADS社(エアバスの親会社)は東邦テナックスとEADS社傘下の各社が開発・製造する航空機向けに、炭素繊維及び中間材料を直接供給する長期基本契約を結んだ。

 炭素繊維の軽量で強く腐食しないといった特性は、現在では航空機以外の乗用車、産業機械、建築・土木材料、風力発電など広範な多様な分野へと展開されるまでになっている。

 一方、ピッチ系炭素繊維の分野では、1970年ごろからクレハによる一群の新製品の開発を目指すプロジェクト「新石油化学事業化計画=SN計画」が始められ、その一つとして炭素繊維開発が進められていた。その後、その耐熱性を活かしたロケットのアブレーション材料や航空機用の軽量な耐熱材料などの用途開発が進められたが、大規模な航空宇宙産業がない日本では、大きな市場を見いだせる可能性が乏しかった。そこでクレハは、1970年4月に米国のロサンゼルス市にクレコア(KRECOA:Kreha Corporation of America)を設立し、航空宇宙産業の発展した米国市場への進出を試みた。さらに1973年7月には、東洋紡績と共同で太洋化研を設立し、市場開発の努力を続けた。

 等方性ピッチ系炭素繊維はPAN系炭素繊維や異方性ピッチ系炭素繊維に比べ、高強度、高弾性率を実現できない。しかし、軽量で柔軟性があり、また耐熱性にも優れるといった特性がある。このような特性を活かしたクレハは独自の用途を次々と開発した。自動車のクラッチやブレーキ用途、またアスベスト代替材料として、ブレーキパッドやガスケットなどにも使用されている。炭素繊維を紡績し、撚糸状に加工して摺動性や耐食性を活かしたグランドパッキンに多く使われるほか、耐熱性を活かした高温工業用炉の炉内材料や、電気特性を活かした人工芝の帯電防止や特殊ヒーター素材などにも使用される。炭素繊維を少量の熱硬化性樹脂をバインダーとして接着・積層し、黒鉛化して得られる成形断熱材は、主にセラミック等では耐えられない高温の炉で使用される。優れた断熱性能と高温安定性で、シリコン単結晶/多結晶、カーボン、セラミックス、人工石英、各種光学結晶、磁性材料、光ファイバーなど様々な素材を製造する上での高温炉用断熱材として、世界中で広く使用されている。


TOP