安定成長期
全自動横編機
イノベーションに至る経緯
(1)島の起業
島精機の初代社長である島は1937年、和歌山県和歌山市に生まれた。父親は太平洋戦争で戦死したため、母親が手袋の製造をして家計を支えた。少年期の島は自ら栽培した野菜を売るなどして家計を助けるとともに、13歳から家に近い池永製作所に出入りし手動の手袋編機の修理の手伝い(アルバイト)をしつつ機械装置への関心を深めていった。最初の実用新案は、16歳の時に出願した「作業手袋編成機の支針板自動旋動装置」であった。高校生の頃には、内向式の変速機、差動歯車を使った変速機、緩みにくいボルトなど、特許を含め100を超える発明を行った。特に、ゴム入り手袋は年間1000万円ほどの特許収入を島にもたらしたという。
島が最初に起業したのは1961年7月の三伸精機で、手袋編機の全自動化を掲げる傍らゴム入り安全手袋編機の半自動装置の製造を行う会社であった。半自動装置の販売は順調だったが、やがてその販売に専念しようとする経営陣と、本来の目標である手袋編機の自動化を目指す島とが袂を分かち、島は1962年2月島精機製作所を設立した。当時、手袋編機はその形状の複雑さから、完全なる自動化は不可能であると考えられていたが、島はあえてそれに挑戦したのである。島精機は半自動式メリヤス手袋編機の製造販売を行いながら、完全自動手袋編機の研究開発に資金を投入していった。2年後倒産寸前の資金繰り難に直面しつつ一週間に及ぶ不眠不休の開発を進め、1964年大晦日に全自動手袋編機(角型)の開発に成功する。高度経済成長により安全で生産性の高い軍手の需要は急増していた。全自動手袋編機は出荷台数が1か月に100台を超えるヒット商品となった。しかし、販売初期には生産量を優先したため故障が多く、修理やメンテナンスなどのアフターサービス負担が島精機にとって重荷となった。この経験を教訓に、島は経営方針を量ではなく質重視へと転換していった。
(2)石油危機とコンピュータ制御横編機の開発
1960年代後半から70年代前半にかけて、島精機は次々と新たな製品を開発し、1971年には、パリで開催された国際繊維機械展に同社が生産する全機種を出品し、高い評価を獲得した。その結果本格的に輸出を開始するまでになった。この間には全自動シームレス手袋編機の開発に成功する一方、手袋市場規模の限界をも認識し、付加価値の大きな横編機市場に乗り出し成功を収めている。
1973年の第一次石油危機の影響を受けた翌1974年には売上が低迷した。島精機においても不況時余剰人員は会社の半数である150名にまで達し、その解雇整理が、金融機関をはじめ販売代理店の商社からも強く要請された。社長の島は、しかしながら、余剰人員の多くをコンピュータ編機という新たな編機の開発に従事させることとし、一切解雇は行わなかった。消費者が、従来の単一大量生産方式に基づいた単一の製品を選好するのではなく、様々な自らの好みから商品を選択する多様性の時代がくると島は予見したのである。多品種少量生産を可能とするにはコンピュータ編機という新しいコンセプトの実現が不可欠だという考えであった。1974年NC工作機械の導入を決断し、実施した。
当時機械メーカーにとって、コンピュータ部分はコンピュータの専門業者に依頼することが一般的であった。しかし、外注することによるコスト増大を危惧し、プログラミング開発も自社開発することにした。そのため、電子技術分野の学生を多く採用した。まず、ニットの柄組のために手作業で行っていた針の入替や、熟練技術が要求される編み目を調整する作業が、コンピュータ制御できるようになれば、多品種少量生産が可能であると考えた。こうして、1978年には初のコンピュータ制御横編機であるシマトロニックジャッカードコンピュータ(SNC)編機を開発した。これと同時に編機とニット等のデザインの直結を考え、コンピュータ・グラフィックスの分野にも参入した。コンピュータ・グラフィックスの開発にあたっては、見学したオフセット印刷機の観察がヒントとなった。編み物は基本的に、ニット、タック、ミスの3要素で構成されている。これを色の3原色と組み合わせた色情報をプログラミング言語とし、編み目それぞれをドットとして認識させ、1ピクセル単位で編み針を制御するツールとして利用できるようにした。1981年にはコンピュータ・グラフィックスを利用したデザインシステム (シマトロニック・デザイン・システム) 「SDS-1000」の開発に成功している。この開発の過程では、1979年にNASAが払い下げを決定した土星観察衛星ボイジャーからの信号を画像変換するグラフィックボード3つのうちから一枚を入手し、コンピュータグラフィック会社としての足場も固めることとなった。この払い下げにはスティーブ・ジョブズも参加し、ボードを入手している。
当時のデザインシステム
画像提供:島精機製作所
(3)完全無縫製型横編機「ホールガーメント」
1985年のプラザ合意は急速な円高を招来した。そして、1990年代に入るとバブルの崩壊とともに日本経済は長期の低迷に直面することとなった。日本企業は海外への進出を進めそれは繊維産業においても例外ではなかった。よりコストの低い、それでいてファッショナブルな衣料品を作れる繊維機械の開発が大きな課題となった。
島精機は、プラザ合意のあった1985年、デジタルステッチコントロールシステム (DSCS) を完成させていた。これは、編成中の編糸の消費量をコントロールするための編糸供給装置であり、生産現場における温度や湿度変化をはじめとした種々の環境要因の変化の下においても、編地を予定どおりの寸法に編み上げることを可能とした。本技術を足掛かりに島精機は、編み上がった状態でニットウェアの各部が型紙どおりになる完全無縫製型横編機の開発に取り組むことになった。縫製なしのニット製品を一工程で作ることができれば大きな省力化を可能とし、かつ、縫い目のない肌触りと軽さ伸縮性が実現される。しかし、それにはハードのみならずデザインシステムとの整合など多くの新たな課題の解決に取り組まなければならなかった。この過程で開発された技術等は、次項の「発明の概要」で記述する。
1995年10月、島精機はイタリアミラノで開催された繊維機械の世界最大の見本市であるITMA ’95で世界初の完全無縫製型コンピュータ横編機「SWG-X」と「SWG-V」を発表した。30分ほどの時間で糸から一枚のセーターを編み上げるこの機械はそのニット商品の商標名から「ホールガーメント横編機」と呼ばれるところとなった。