現代まで
多機能携帯電話(i-mode、カメラ付きなど)
イノベーションに至る経緯
(1) iモード
1990年代に入り、それまで研究・教育機関に限られていたインターネットの利用が、一般でも利用できるようになると、早くから携帯電話のデジタル化に積極的に取り組んできた我が国の通信事業者は、その携帯電話での利用にも積極的に取り組んだ。1999年にサービスを開始した「iモード」は、ドコモが世界に先駆けてサービスを開始したパソコンやPDA(携帯情報端末)を用いることなくインターネットにアクセスすることができる携帯電話である。
プロジェクトの誕生
1997年1月、ドコモの社長であった大星公二は、自らが提唱していた「携帯電話機単体で気軽に利用できるモバイル・マルチメディア・サービス」の実現を図るべく、榎啓一にその立ち上げを命じた8。このころ、ドコモは携帯電話機同士でのメッセージを送受信できる「ショートメール」サービスの準備を進めていた。榎は、このサービスをユーザ間だけにとどめず、情報の配信に利用することができれば新たなサービスとなると考えていたが、検討が進むにつれて、ショートメールでは送受信できる文字数が限られていることや、多数のユーザが同時アクセスした場合のネットワークの確保に不安があることなどが明らかとなった9。同じころ、J-フォンはeメールの送受信が可能な「SkyWalkerサービス」10を開始していた。
1997年8月、ドコモに「ゲートウェイビジネス部」が新設され、榎はその部長に着任した。新しい組織にはそれまでのNTTやドコモにはない新しい能力や経験を持つ人材も集められた。この中にはリクルート社で雑誌の編集を担当していた松永真理や、米国でインターネットビジネスの最前線を経験してきた夏野剛が含まれていた。
ブラウザと記述言語
ショートメールの次に榎が目をつけたのはドコモが1997年3月にサービスを開始していた携帯電話パケットサービス「DoPa」11であった。DoPaは、ゲートウェイビジネス部が誕生した数日後にインターネットへの接続も実現していた。榎は接続するパソコンやPDAに代えて、携帯電話そのものを利用することを考えていた。コンテンツの閲覧を携帯電話で行うという発想に開発担当者はその耳を疑った。当時の携帯電話のプロセッサの能力、メモリー容量、表示画面の大きさでは、インターネット上のコンテンツを携帯電話で閲覧することは不可能と考えられていた。
この問題に解決の糸口を与えたのが、それまではNTTと取引のなかったベンチャー企業ACCESSの技術であった。ACCESSの創業者のひとりの鎌田富久は、自社の開発したブラウザCompact NetFront Browserをドコモに紹介し、このソフトを携帯電話機のプラットフォームで動かすことを提案した11。ドコモはACCESSのブラウザの採用を決め、試作機の開発に同意した。ドコモは試作機の製作を、DoPa対応の携帯電話を製造した経験を持つ松下通信工業と日本電気に依頼した12。
ブラウザの開発とともに必要とされたのは、これと対をなす文書記述言語の決定である。すでに、スウェーデンのエリクソン、米国のモトローラ、フィンランドのノキア等によるWAP(Wireless Application Protocol)仕様が公開されていたが、ここでの記述言語としてはXML(Extensible Markup Language)をベースとしたWML(Wireless Markup Language)が採用されていた。ACCESS等が開発していたのはHTMLをベースとしたCompact HTML(CHTML)であった。ドコモ内には第二世代携帯電話の規格の採用にあたって、独自のPDC (Personal Digital Cellular)方式を採用したことで世界から孤立したことへの反省からWAPの採用を主張する者も少なくなかったが、開発状況等を調査した榎らは、世界的に利用されているHTMLを新たに書き直することが容易であり、コンテンツを集める際に有利であることと、WAPの普及には更なる時間が必要であったことから、CHTMLの採用を決定した。1998年、ACCESS、松下電器産業(現「パナソニック」)、日本電気、富士通、三菱電機、ソニーの6社は国際的標準化推進団体であるW3C(World Wide Web Consortium)にCHTML の標準化を提案し12、ドコモもこれを支援した。CHTMLは「iモード対応HTML」とも呼ばれ、サービス開始時に多くのコンテンツを取り込むことに成功する要因のひとつともなった。CHTMLは 2002年に策定されたWAP 2.0に採用され、広く全世界で使用されるものとなった。
コンテンツ・プロバイダの掘り起こし
ドコモが上位プロバイダの選定を始めたのは、1997年7月であった。当初の計画は、インターネットサービスのコンテンツはドコモ自身が用意し、自らサービスすることを想定していた。榎のプロジェクトはこの方針を見直し、今後のコンテンツの広がりを促すためには、ドコモ自身はポータルサイトに徹し、携帯電話にコンテンツを配信するコンテンツ・プロバイダ群を構築することが重要と考えた。その中で、コンテンツ使用料はドコモが通信料金とともに一括して徴収し、そこから手数料を除いたものをコンテンツ・プロバイダに支払うというビジネスモデルが構築された13。
コンテンツ・プロバイダの発掘は、夏野や松永らの手により進められた。このころ、社会では「金融ビッグバン」が大きな課題となっており、これに備えるために金融機関はあらゆる部分でのローコストサービスを目指していた。携帯電話で残高確認ができ、資金移動ができ、しかも通信料金は利用者が負担する新しいサービスは、金融機関にとっても魅力的なものであった。ひとつの銀行が参加を決断すると他の銀行もこれに続いた。一方、サーバへの投資が負担となっていた携帯ゲーム機メーカーも、「iモードによるゲーム」を決定した。通信カラオケメーカーが、その設備を使って「着メロ」のサービスを決めた。サービス開始時点で67社のコンテンツ・プロバイダがそろった14。
携帯電話メーカーの苦闘
販売開始が近づいているにもかかわらず、メーカーによる対応機の開発は苦戦を続けていた。ドコモは松下通信工業、日本電気に加え、富士通、三菱電機にもそれぞれiモード端末の開発を依頼した。特に後発の2社には開発のための時間が極めて限られていた。参入が遅れた富士通は、期限までの納品を最優先として開発に取り組んだ。三菱電機は一斉にメールを送るテストで、電子メールが戻ってしまうというトラブルに遭遇していた。日本電気は、液晶画面を大型化したため、ディスプレイ部の強度に問題にも直面していた。当初先行していた松下通信工業はブラウザを独自に開発することとし、その実現に時間を要していた。ドコモは発売日を当初予定していた1998年12月から翌年の2月に延期した。
サービス開始と普及
新しいサービスは松永真理らにより「iモード」と名付けられた。「i」は空港などにあるインフォメーション・サービスを示すもので、携帯電話機に設けられた「i」ボタンを押すと「iMenue」画面が現れ、そのガイドに従って、必要な情報やサービスへ簡単にアクセスできるものであった。発売に先立って開催された発表会では、当時人気のあった女優を前面に押し出し、400名を超える報道陣を集めたが、1999年2月のサービス開始当初の市場の反応は低調であった。最後発であった富士通が間に合わせたF501iを除いて、他のメーカーの端末は店頭に並ぶことができなかった。
その1ヶ月後、三菱電機製、日本電気製の端末が投入され、対応機種が3機種に広がると、契約数は一気に増加し、11万を超えた。更にサービス開始から3ヶ月後に松下通信工業製の端末が投入されると、契約数は更に拡大し、8月初めには100万を超える大ヒット商品となった15。
iモード契約者数は2009年1月に4800万契約を超え、これに伴い情報料の売上は2007年度に約2300億円に達した16。
ドコモの成功に続いて、第二電電及び日本移動通信もインターネット接続サービス「Ezウェブ」、「Jスカイ」を開始した。これらのサービス拡大により、当初モノクロであった液晶画面は、カラー化され、更にQCIF(176×144画素)、QVGA(320×240画素)、VGA(640×480画素)と高精細化、大型化を進めることになる。
(2) カメラ付き携帯電話
1999年5月にツーカーセルラーグループが発売した携帯電話「THZ43Ciaro」は、外付けするカメラ「LaPochee」を標準で付属したが、普及することはなかった。
カメラを内蔵する最初の携帯電話は、1999年9月にDDIポケット(現「ワイモバイル」)により提供された17。PHS方式を採用したこのサービスのために京セラが開発したビジュアルフォンVP-210は、11万画素のCMOSイメージセンサと2.0インチの反射型TFTカラー液晶を備え、同じ端末を持つユーザ同士では、音声とともに毎秒2コマの画像を送受信できる「移動体テレビ電話」であった。更に、同時に最大20枚の静止画を記録し、DDIポケットグループの「PメールDX」を使って画像付きのメールを送受信することができたが15、このサービスもまた、利用者を引きつけることはなかった。
文字情報から画像情報へ
デジタルホングループ(後のJ-フォン、現ソフトバンクモバイル)は、早い時期からデータ通信サービスに注目し、スカイウエブサービス・センターにリクエストすることにより、天気予報、星占い、ニュース、乗換案内などの情報を無料で入手できる文字情報提供サービス「スカイウェブ」を検討していた。開発にあたり、デジタルホンはシャープに携帯電話の共同開発を提案した。
メッセージを表示するのは液晶画面である。シャープの担当者は既に定着していた「液晶のシャープ」のブランドを武器に、表示文字数の多い液晶パネルの提案から始めることにした。この提案はJ-フォンからも受け入れられ、1998年の「スカイウェブ」のサービス開始に合わせて売り出すことになる。ここで誕生した最大48文字を表示できる「J-SH01」は、他社には追随できない商品として大ヒットとなる18。
J-SH01で成功したシャープは、次のターゲットで意見が分かれていた。ひとつは諧調を増やしたモノクロパネル、他方はカラー液晶パネルであった。このころ、パソコン市場ではTFT方式が台頭し、この分野でのSTN液晶パネルが駆逐されようとしていた。STN液晶パネルを担当する事業部は、事業の存続をかけて次のアプリケーションの開拓を進め、試作モジュールを完成させていた。シャープはJ-SH02にカラー液晶パネルを搭載することを決定した。同時期、ドコモもまた富士通、三菱電機とカラー液晶パネル搭載端末を共同開発していた。ジュネーブからこの情報を得たシャープは、画面の明るさや表示色等を改良したJ-SH03の仕様を固めるとともに、次の目標を考えていた19。
「写メール」20のコンセプト
J-フォンにとって2000年は正念場の年となっていた。既にauは1999年4月から第2.5世代の携帯電話規格cdmaOne方式を採用した全国シームレスネットワークを整備し、ドコモも2001年春から世界に先駆けて第三世代システムW-CDMA方式によるサービスを開始するための準備をしていた。このような中で、J-フォンの通信環境は依然として貧弱なものであった。
J-フォンの強みは、メールサービスで培った「ロングメール21」であり、開発を担当していた高尾慶二も、常に「メールの進化した姿」を頭の中に描き続けていた。会社の製品開発会議の中で、高尾はふとかつて両親とともに箱根旅行をした際にロープウエイの中で出会った女性の姿を思い出した。「一生懸命メールを打っている女性は自分が今観て感動した景色を誰かに伝えたかったのでは」と思った時、観ている景色をそのまま撮ってメールすることができれば、新しいコミュニケーションツールになることが閃いた。これが「写メールサービス」と「ケータイカメラ」の始まりであった22。
シャープも次の携帯電話は、画像を撮るためのカメラとなると考えていた。しかし、既に市場に投入されていたDDIポケットの「ビジュアルフォン」の評価が一向に上がらなかったことが気がかりであった。J-フォンとシャープとは、その理由を検討し、ビジュアルフォンが「テレビ電話機能」として売り出したことがユーザのニーズに合わなかったことによると考え、新たなイメージを当時、女子高生に人気のあった「プリクラ」23とすることにした。このことから、カメラ付き携帯電話は、現行の携帯電話のデザインを崩さないこと、アタッチメント式ではなく内蔵式とすること、自分自身だけでなく相手も写せること、そして、撮影時にシャッター音を鳴らすことを開発のポイントにした24。
カメラ付き携帯電話の誕生と「写メール」の普及
1999年10月、カメラ付き携帯電話の開発が決定した。
シャープは既に携帯情報端末「ザウルス」25向けのカメラ・モジュールを開発した経験があったが、既存のもののサイズはカメラ付き携帯電話が求める5㎜角を大きく上回っていた。結局、専用のカメラ・モジュールを開発することになり、専用のICの開発、CMOSイメージセンサの開発、レンズの小型化、フレキシブル基板の確保、検査工程の短縮等に取り組み、軌道に乗り出したのは発売を2ヶ月後に控えた8月であった26。
2000年10月、J-フォンは、新開発のレンズ一体型1/7型11万画素CMOSイメージセンサを搭載したモバイルカメラ付きカラー携帯電話機J-SH04を発売した。J-SH04はレンズを携帯電話本体の背面に配置するとともに、レンズの傍にミラーを配置した。このミラー内に自らの像を納めることにより、自撮りを可能にした。
J-フォンは、この端末を用いて撮った写真をメール添付できるサービスを「写メール」と名付け、2001年の夏季キャンペーンで「写真付き写メール」として大々的宣伝を行った。このサービスは大ヒットし、「Sha-Mail」は国内だけでなく海外でも通用する言葉となった。12月にはTFT液晶を採用し、6万5536色のカラー表示ができる折り畳み式も開発し、2002年にはこのカメラを利用して世界で初めての「QRコード読み取り機能搭載の携帯電話」が実現した。