現代まで
太陽電池セル
イノベーションに至る経緯
太陽電池モジュールの最小単位である太陽電池素子そのものが、太陽電池セルである。太陽電池はシリコンなどの半導体で作られており、半導体に光が当たると日射強度に比例して発電するという構造になっている。
なお、現在実用化されている太陽電池は、まず素材によってシリコン系と化合物系、有機物系に分類される。そして、シリコン系には結晶系と薄膜系といった種類があり、結晶系には更に単結晶と多結晶といった種類が存在する。
我が国における太陽電池技術の開発は、1973年の第1次オイルショックを契機として策定された「サンシャイン計画」のもとで積極的に推進されてきた。また、地球環境問題が叫ばれるようになったことも、太陽光発電が注目を集めるきかっけとなっている。しかし、我が国では太陽電池市場の規模が小さいことから、様々な業種に属す企業によって多様な角度から太陽電池に関する研究開発が行われてきた。以下では、それらの企業の中でも、シャープ、パナソニック(三洋電機、以下「パナソニック」と呼ぶ)、京セラ、カネカに注目し、各社の太陽電池をめぐる開発の歴史を紹介したい。
(1) シャープ
2000年から7年連続、シャープは太陽電池販売の世界トップシェアを維持し続けた。しかし、シャープが1959年から太陽電池開発に着手していることを考えると、世界トップにまで上り詰めるまでには相当の年月があったと言えるだろう。シャープが太陽電池開発に取り組み始めた背景には、半導体に係る開発の過程で太陽電池が発明されたことがある。当時、創業者の早川徳次は「無限にある太陽光で電気を起こすことを考えれば、人類にどれだけ寄与するかは、計り知れない」。この言葉を原点にシャープの太陽電池開発が始まった。当時、半導体分野には大手総合電機メーカーが参入している一方で、太陽電池は手薄な状態であった。そこにシャープは目をつけ、太陽電池開発に着手することを決めたのである。また、それに加え、電気機器メーカーとして電気エネルギーを自らの手で作り出す事業を手掛けたいという想いが、シャープの太陽電池開発着手の背景にあるとも言われている。
こうした要因を背景に、シャープは1963年、日本で最初に太陽電池(結晶シリコン型太陽電池セル)の量産化を開始する。ただし、当時量産化された太陽電池は灯台用のものであり、現在製造されている太陽電池とは形状がかなり異なるものであったが、過酷な環境下での長期間の稼働実績は現在の太陽電池の信頼性確保に大きく貢献している。また、その4年後の1967年、シャープは宇宙用太陽電池の開発に着手する。そして、1976年に国産の太陽電池として初めて電離層観測衛星「うめ」に搭載された(2015年1月時点では170基以上の人工衛星に搭載されるまでに至っている3)。
1976年、シャープは世界初の太陽電池付き電卓を発売した。当時にあっては非常に高価な製品であったものの、太陽電池が日常生活に入り込むきっかけとなった。その後、1980年代に入って太陽電池部門は半導体事業部から独立し、事業部に格上げされた。事業部に昇格した当初は売上規模が比較的小さかったものの、1994年に転機が訪れる。住宅用太陽光発電システムの設置に国の補助金が給付される制度が施行されたのである。その中でシャープは、同年に系統連系が可能な住宅用太陽光発電システムを商品化し、2000年には世界一の太陽電池メーカーとしての地位を確立するまでに至ったのである。
2010年、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会であるIEEEは同社の長年にわたるこの分野での貢献に対しマイルストーン賞を贈ってその功績をたたえている。
(2) パナソニック
パナソニックは、シリコン単結晶系においてヘテロ接合型太陽電池という独自技術を開発し、太陽電池モジュールの設置面積当たり発電量において世界トップレベルを達成している。ヘテロ接合型太陽電池とは薄膜アモルファスシリコンと単結晶シリコンから成るものであり、高い変換効率を示すだけでなく、両面発電ができるといった特長を持つ。パナソニック(当時三洋電機)においては、1960年代初頭からアモルファス物質に関する研究が行われており、そのことがヘテロ接合型太陽電池というその後の独自技術開発につながっている。そのような一連の開発活動を主導したのが、桑野幸徳(以下「桑野」と呼ぶ)である。
桑野は、1963年に三洋電機に入社し、薄膜シリコン太陽電池の材料のひとつであるアモルファス物質の研究に取り組んだ。しかし、半導体デバイスの当時の主流は結晶系シリコンであったことに加え、アモルファスは構造が不規則であるために取り扱いが難しく、なかなか製品化に結びつけることができなかった。そのような状況の中で、1975年に米国のRCA(Radio Corporation of America)でアモルファスシリコン太陽電池が開発されたことをきっかけに、桑野はアモルファス太陽電池の開発に注力することになる。そして、1980年、桑野は世界で最初のアモルファス太陽電池内蔵の電卓を開発し、大ヒットを収めた。1980年からはサンシャイン計画にアモルファス太陽電池の高効率化が取り込まれ、更に1980年代後半からは地球環境問題が注目されるようになり、太陽電池への世間の期待も増していった。その一方で、アモルファス太陽電池の変換効率は未だ電力用としては低く、更なる開発が求められていた。
桑野らは、変換効率の向上を目指してアモルファスシリコンの利用できない長波長の光を利用できる薄膜多結晶シリコンとの積層型太陽電池の開発に着手した。この際、薄膜多結晶シリコンにpn接合を形成する技術が必要となり、まず単結晶シリコンとアモルファスシリコンとの接合形成に取り組んだ。1989年ごろのことである。開発の過程では、アモルファスシリコン(p型)と単結晶シリコン(n型)の間に新たなアモルファスシリコン層(i型)を挿入するという構造が考案され、14.5%という変換効率が導き出された。これが、期せずしてヘテロ接合型太陽電池へとつながることになる。桑野は、更なる高みを目指せと、若い研究者たちを鼓舞し、1994年に、変換効率20%を達成、事業化への舵を切ることになった。そして、1997年に世界初のヘテロ接合型太陽電池を用いた太陽電池モジュール「HIT」の販売を開始した。
(3) 京セラ
日本で最初に住宅用太陽光発電システムの販売を開始したのは京セラである。京セラは1998年、1999年と太陽電池生産量で世界一となっている。京セラが太陽電池開発に着手した背景には、1973年に起きたオイルショック、そしてその経験から創業者・稲盛和夫(以下「稲盛」と呼ぶ)が抱いた太陽電池への想いがある。
稲盛は、1973年に第1次オイルショックが起きた中で石油資源への依存を反省し、クリーンなエネルギー源である太陽光の可能性に目をつけた。それを受けて1975年、京セラは、松下電器産業(現 パナソニック)とシャープに働きかけ、モービルオイル社、タイコ・ラボラトリーズ社を含む計5社で合弁会社ジャパン・ソーラー・エネジー (以下「ソーラー・エナジー」と呼ぶ)を設立し、太陽電池開発に着手した4。ソーラー・エナジーは、タイコ・ラボラトリーズ社が保有する技術(EFG法)をもとに、リボン結晶シリコンの開発を行い、1977年にリボン結晶シリコン太陽電池電力用モジュールの第1号を完成させた。そして1979年には、ペルーの海抜約4000mの山中にリボン結晶シリコン太陽電池を納入している。しかし、1982年京セラは、EFG法では量産するうえで限界があると判断し、キャスト法による多結晶シリコン太陽電池へと開発方針を転換し、同年中に世界で初めて多結晶シリコン太陽電池の量産を開始した。さらに1987年には、10cm角の多結晶シリコン太陽電池セルで当時世界最高の変換効率である15.1%を記録する5。そして、1993年、京セラは業界に先駆け、住宅用太陽光発電システムの販売を開始したのである。
その一方で、京セラは、創業者である稲盛の「太陽という人類に普遍的なエネルギーを使う太陽電池の恵みは、全ての人類が等しく享受しなければならない」6という理念のもと、海外での太陽光発電推進にも注力している。具体的には、1983年にパキスタンのカンコイ村、1985年に中国甘粛省に村落電化システムを、そして1986年にはタイの灌漑局にソーラーポンプを寄贈している。また、1992年に始動したNEDOのプロジェクトに基づき、モンゴルでの携帯型太陽光発電システムの導入をも実現している。
(4) カネカ
カネカは、1999年にアモルファスシリコン太陽電池モジュールの量産を開始し、画期的な技術を用いて2001年に世界で初めて薄膜シリコンハイブリッド太陽電池を開発し、薄膜系太陽電池で13.4%という高い初期変換効率を実現している8。そもそもカネカは上記3社と異なり、化学メーカーである。そのため、半導体技術を基礎とする太陽電池は、カネカにとって不案内な領域であった。しかしながら、再生可能エネルギーに対する社会の高い注目度と第1次オイルショックに伴う厳しい経営環境から太陽電池領域において化学メーカーという強みを生かしたいとの判断から、カネカは1980年に太陽電池研究に着手し始めたのである9。
カネカは、開発当初からアモルファスシリコン太陽電池に的を絞っていた。それは、アモルファスは化学反応によって作られるものであるため、化学メーカーとしての強みを生かせるという判断によるものであった。しかしながら、その一方で、化学メーカーであるがゆえに、社内に電子工学を専門とする研究者はいなかった。そのためカネカは、大阪大学の濱川圭弘研究室の門を叩いた。濱川名誉教授は、1970年代後半に独自にアモルファスシリコン太陽電池を作り上げており、この分野の日本の第一人者であった。最初に濱川名誉教授のもとに派遣された研究者は、太和田善久(以下「太和田」と呼ぶ)である10。太和田は熱心に研究に取り組み、研究室に派遣されてからたった数カ月のうちに3%以上も変換効率を向上させ、8.8%という変換効率の太陽電池を開発した。当時、電力用としてアモルファスシリコン太陽電池を用いるためには3%以上の変換効率が必要だと言われていたため、それをクリアしたことになる。
しかし、その後の変換効率向上は遅々として進まなかった。飛躍のきっかけは濱川名誉教授が考案した「ハネムーンセル」というアイデアからであった。ハネムーンセルとは、波長の長い光(赤色)を吸収しやすい結晶シリコンと波長の短い光(青色)を吸収しやすいアモルファスを結合させることで変換効率を向上できるという考えに立脚するものであった。この考えの上にNEDOの支援の下にカネカは、薄膜多結晶シリコンの開発を開始する。しかし、4年間というNEDOプロジェクトの制約がある中で、開発当初は変換効率0%という日々が続いた。そんな中、3年目にしてようやく3%の変換効率を達成し、プロジェクト終了の4年目には10%にまで変換効率を向上させることに成功した。こうして、生み出された薄膜多結晶シリコンと当時社内で10%ほどの変換効率を達成していたアモルファスシリコン太陽電池を組み合わせた薄膜シリコンハイブリッド太陽電池の開発に取り組み、2000年には1センチ角のもので14.1%という初期変換効率を実現した。そして翌年、ハイブリッド太陽電池の量産を開始したのである。