現代まで
長大橋建設技術
イノベーションに至る経緯
(1)本州四国連絡橋建設計画
本州と四国とを連絡橋で結ぶという構想は明治中期のころから存在しており、香川県会議員の大久保之丞が初めてこの構想を打ち出したとされている1。しかし、当時の日本の橋梁技術は欧米に比べて半世紀ほど遅れているとも言われており、技術的な蓄積がないために、長らくつり橋の建設は行われてこなかった。
長大つり橋の建設は19世紀後半にアメリカで始まり、1883年にニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン橋が完成した。このブルックリン橋は中央支間長(橋の主桁を支える橋脚等に設置される支承と支承の間の距離で、その中央部分の長さ)が486mであり、これ以降アメリカでは中央支間長が500mを超える長大つり橋の建設が次々となされた。ヨーロッパにおいても1960年代ころから長大つり橋の建設が始まり、イギリスでは1981年に当時世界一の長さを誇るハンバー橋(中央支間長1410m)が完成した。
日本においては、1962年に福岡県北九州市の洞海湾にかかる若戸大橋(中央支間長367m)が完成したことを契機として、近代的な長大つり橋の建設が始まった。上述した本州と四国とを連絡橋で結ぶ構想は大戦後に本格化し、1962年に「本州四国連絡橋技術調査委員会」が発足した。この委員会のもとでは、本州と四国に橋を架けるうえで5つのルートが検討された。それらはすなわち、明石-鳴門ルート(Aルート)、宇野-高松ルート(Bルート)、日比-高松ルート(Cルート)、児島-坂出ルート(Dルート)、尾道-今治ルート(Eルート)の5つであった。地質調査や各地域の誘致合戦の末、最終的にはA、D、Eの3つのルートで連絡橋を渡すことが決定された。
(2)明石海峡大橋建設における技術的課題
これら3ルートの連絡橋建設計画のなかで、最も技術的に困難であるとされていたのが、兵庫県神戸市と淡路島とを結ぶ、明石海峡大橋の建設である。明石海峡に橋を架けるという構想自体は、1953年に当時の神戸市長である原口忠次郎によって提唱されており、1955年ころから神戸市では独自の調査が行われていた。
明石海峡大橋はAルートの一部となるつり橋で、当時世界最長であったイギリスのハンバー橋を大きく超える、全長3911m、中央支間長1991mにも及ぶ長大つり橋であった。先述した「本州四国連絡橋技術調査委員会」が1967年にまとめた技術調査報告書においても、「設計施工の諸条件が、世界の長大橋に類似した実施例のない極めて厳しいもの」であるとの報告がなされている2。明石海峡大橋建設における具体的な技術的課題は、3つの自然条件をクリアすることであった。それらはすなわち、耐風性、耐潮流性、そしてとりわけ日本に特有な耐震性であった。
明石海峡では船舶の往来が激しいため、長大つり橋の設計に際しては、中央支間長を長くする必要があった。しかし、中央支間長を長くすればするほど、橋桁は風に揺れやすくなり、場合によっては自励振動によって橋全体が倒壊する危険性が増す。実際にアメリカワシントン州のタコマナローズ橋は、風速53m/sの強風に耐えられるように設計されていたにもかかわらず、風速19m/sの弱い風によって1940年に崩壊した。これは、橋桁が自励振動を起こしたことによるものと言われている3。それ以降、長大つり橋の建設においては耐風設計が重要視されるようになり、とりわけ明石海峡では台風の発生が多いため、その重要性は特に大きかった。
さらに、潮流の激しさも大きな課題であった。海峡に長大つり橋を建設するうえでは海中基礎の建設が不可欠である。明石海峡大橋の海中基礎建設位置における最大潮流速はおよそ4m/sであり、これは風速に換算すると110m/sもの暴風に相当するものであった4。また、水深が深くなればなるほど、この力の作用面積は大きくなるので、水深が40mを超える明石海峡に海中基礎を建設することは非常に困難であった。
最後に、耐震性の問題である。日本は地震大国であるため、強風や潮流とともに、地震による振動に耐え得る構造を持つことは絶対条件であった。この耐震性については、つり橋を支える基礎部分の構造や寸法を決定する際に大きな影響力を持つ。基礎部分に作用する力は、「上部構造反力と基礎の自重に基づく鉛直力であり、地震時にはこれらの質量に起因する慣性力が水平力や曲げモーメントとして加わる」5。つり橋の基礎・地盤・主塔・上部構造といった構造系は、これらの力に耐え得るように設計されなければならない。
(3)明石海峡大橋建設のインパクト
これらの技術的課題を乗り越えて、1998年に明石海峡大橋は完成した。1986年の着工から12年、神戸市による本格的な調査が始まった1955年から数えると43年という超長期のプロジェクトであった。明石海峡大橋はイギリスのハンバー橋を超えて世界最長のつり橋となり、現在に至るまで世界最長の座は変わっていない。
明石海峡大橋の完成は他の本州四国連絡橋とともに、大きな経済効果をもたらした。本州と四国が連結されたことによって生活圏・文化圏が拡大したことはもち論、明石海峡大橋の建設によって阪神工業地帯と四国が結びつき、これらの地域の製造業における生産・流通の円滑化が促進された6。
また、明石海峡大橋を含めた数々の長大橋の完成によって、日本の橋梁技術が世界的に認められる形となり、海外でもその技術が活用されるようになった。1988年には、円借款を用いてトルコの第二ボスポラス橋の建設を委託され、IHIなどの日本の橋梁メーカーが請け負った。全長1510mのこのつり橋は、アジアとヨーロッパの間を行き交う人々にとって、重要な役割を果たしている。他にも、2016年6月にはIHIグループが建設を請け負っていた、トルコのイズミット湾横断橋が開通している7。このように、20世紀初頭には欧米に半世紀ほど遅れていると言われていた日本の橋梁技術は、本州四国連絡橋など数々のプロジェクトを通じて、今では世界有数の技術水準にまで発展しているのである。