公益社団法人発明協会

現代まで

ドネペジル塩酸塩

イノベーションに至る経緯

(1)創薬に至る経緯

 アルツハイマー病は1907年、ドイツ精神病学会において神経病理学者アロイス・アルツハイマー(Alois Alzheimer)が進行性痴呆を呈して死亡した女性の脳の特徴的な病理変化を発表したことに由来する

 アルツハイマー病は、大きく3つの臨床経過に分けることができる。①初期段階では、記憶に限定した認知障害が発生する。②中期では、記憶障害の症状が明確に発生する。精神状態が不安定になり、妄想、焦燥、不穏、うつなどの症状が発生する。③後期の段階では、身体面での衰え、運動機能の低下、寝たきりなどの症状が起こる。最終的な死因としては、嚥下性肺炎や尿路感染に由来する敗血症などが多いとされている

 アルツハイマー病は、様々な認知症の中で最も患者数の多いものである。特に近年、アルツハイマー病患者は増加している。米国では2002年段階で約468.3万人、2014年現在では524.7万人のアルツハイマー病患者が存在するとされる。米コネチカット州の調査では、65歳以上の人口1万人当たり720人がアルツハイマー病に罹患しているとされる。また日本でも、アルツハイマー病として診断される認知症疾患患者数が年々増加している。Sekita ら(2010)による調査では、65歳以上の人口1万人当たり380人が有病者である

 しかし、ドネペジル塩酸塩の開発が開始された1980年代前半においては、認知症の多くは脳血管障害により生じるものであり、アルツハイマー病の患者はごくわずかであるといわれていた。このため、認知症の治療薬は虚血性脳機能障害を改善するアバン、ホパテ等脳血流改善剤が中心であり、アルツハイマー病治療薬に着目する企業は少なかった10

 認知症の原因については現在でもなお多くの説があるが、かつて1970年代後半において神経伝達物質の研究が進み、脳内の記憶に関する神経物質であるアセチルコリンが代謝酵素であるアセチルコリンエステラーゼ(AChE) によってコリンに分解され、受容体にキャッチされる信号が伝わりにくくなることから発症するというアセチルコリン仮説が注目されたことがあった。しかしながら、エーザイがアルツハイマー病の創薬を本格的に開始した1983年当時は、上述のように認知症治療薬としては脳血流改善をターゲットとすることが主流となっていた。これに対してエーザイでは、杉本八郎をリーダーとする研究開発グループがアセチルコリン仮説はまだ検証される余地が十分残っているとの提案を行っていた。また、臨床研究に関わる文献調査から診断方法の将来的な進展によりアルツハイマー病と診断される認知症患者が増加すると予想していた。その上でエーザイとしては認知症治療薬としてアセチルコリン仮説に基づいた創薬を行うことを決定した。研究開始するにあたり、シナプス間に遊離されたアセチルコリンの濃度を高めることを目指し、①作用持続性に優れること、②血中に比較して脳への移行性に優れていることの2点に着目した11

 研究開発グループは、まずサマーズによるタクリンの臨床論文12を参考にした上で、アセチルコリンエステラーゼ阻害作用を持つタクリンの誘導体を脳神経領域研究グループで合成し、薬理評価を行った。約半年にわたり30以上のタクリン誘導体の作成を行ったが、リード化合物として最適な化合物を得ることはできなかった13

 タクリン誘導体での失敗後、別の研究グループの薬理研究員が別途合成された高脂血症治療剤に対して生体内(in vivo)スクリーニングの症状観察を行ったところ、アセチルコリン上昇作用を見つけた。ネズミにこの合成された化合物を投与したところ、アセチルコリンが増加した場合の症状である流涎、縮瞳や痙攣などの症状が現れたのである。

 研究開発グループは、この高脂血症治療剤を用途として開発されていた化合物をシード化合物とし、約3年をかけ300程度の誘導体合成を行った。そして数々の化学合成を繰り返し、非常にAChE活性の強い物質を発見した14

 しかしながら、ビーグル犬にこれを投与したバイオアベイラビリティ(生体利用率)は2% 以下と低いことが明らかとなった。このため、社内会議では厳しい意見が続出し、社内の開発候補品からドロップアウトされた15

 以後研究は、開発リーダーであった杉本らの発意により生体利用率の改善を主眼とした研究室内のみで継続していたが、やがてその成果が表れ研究開発の再開が承認された。やがてCADDの研究支援グループが加わり、安定性や脳内吸収に関してCADDデータをもとにした化学構造が助言された16。こうして、再び200以上の化合物の化学合成が行われ、誘導体である塩酸ドネペジル(E2020)が1986年12月12日合成された17

 第一相臨床試験は日本では1989年1月より開始され、同年7月に完了した。 米国では1991年より開始された。続く第二相臨床試験は日本では1990年5月より開始され、オープン試験 (Open Label)、二重盲検試験 (Double-Blind)、増量法試験 (Dose-Escalation)、用量設定試験 (Dose-Finding) が0.1mg、1mg、2mg、3mg、4mg 及び5mg の用量でそれぞれ実施され、1995年1月終了した18。 米国における第二相臨床試験は1992年より開始された。

 第三相臨床試験の開始は米国が1994年と、日本に比べ先行した。 これは、①日米のアルツハイマー病患者数の差異、②米国での臨床試験の用量が5mgと10mgと大きく、効果を明確に評価ができたことが重要な理由である。他方で、日本での臨床試験の用量が3mgと5mgであることから、米国における臨床試験の結果をそのまま日本で適用するブリッジング・スタディを困難にした19。 その後、米国では1996年3月にFDA への申請が行われ、同年11月には承認を得た。イギリスでは1997年4月に発売された。

 日本における第三相臨床試験(プラシーボと5mg とを比較する、二重盲検方式)は1996年9月に開始され、1998年7月の申請を経て、1999年10月に承認を受けた。

(2)イノベーションの背景

①ドネペジル塩酸塩の研究開発体制

 そもそも探索の着想・実施のキーとなったコリン仮説は研究開発を開始した1983年当時、すでに過去のものとされていた20。しかしながら、ドネペジル塩酸塩の研究開発チームは、「海外のメガファーマ、開発を決めた翌日から50人も投入できるようなところとまともに競争しても勝てない」ことを踏まえ、研究トレンド上のニッチを選好することを志向した21

 ドネペジル塩酸塩の研究開発では、開発を主導したエーザイの組織改編に伴う研究開発体制の整備及び、大学からの知識移転が重要な役割を果たしている22

 ドネペジル塩酸塩の研究が開始された当時、エーザイは1982年に筑波研究所を設立したばかりであり、内藤専務(後の代表執行役CEO)が社内の創薬開発を強力に推し進めていた。 研究領域ごとに化学合成と薬理を統合し、エーザイの研究所内を6つの疾病領域別の研究室、感染症(1室)、脳神経(2室)、消化器(3室)、循環器 (4室)、喘息・アレルギー(5室)、血液(6室)に分け、それぞれの研究室内で探索研究チームが設けられた。これによって、組織間の新薬開発への競争意識を生み出すことにもなったが23、同時に、新たに設立された研究所の中で、研究室間の研究員同士は綿密なコミュニケーションを図ることができ、探索の段階で化学合成の専門家と薬理の専門家の密接な協力が可能となった。また、研究開発部門の筑波移転に従い、新卒の研究員を積極的に採用した24

 

②研究開発プロセスにおける大学の存在

 後にドネペジル塩酸塩に至る化合物の導出過程では、強いAChE阻害活性をもつがバイオアベイラビリティが悪い化合物が見つかった。その結果、一時期この研究開発は限られた人員のみで進めざるを得なくなったが、この化合物の欠点を克服するため、単に酵素活性の強さを求めるだけでなく安定性やバイオアベイラビリティを考慮したCADDを導入することで、化学合成を試みる領域の幅を広げることが可能となった。 このとき、研究開発担当者はCADD の技術を習得するため、エーザイでの業務と並行し研究生として筑波大学に在籍した。筑波大学で分子軌道法を学び、CADDを駆使し探索の方向性について様々な提案をした。

 また、ドネペジル塩酸塩の分子構造の調査は臨床試験開始後、イリノイ大学の Hopfinger 教授との共同研究で行われている25

 

③アルツハイマー病への認識の深化

 ドネペジル塩酸塩の発見自体が脳内AChEの構造解析とその反応機構の分子的解析に活用され、脳内科学研究に貢献した点は大きい。

 一方、ドネペジル塩酸塩がアルツハイマー型認知症治療剤の先行医薬品となった背景としては、CT、MRI等の画像解析診断技術の進歩がある。今日では患者数が非常に多いアルツハイマー型認知症も、ドネペジル塩酸塩開発着手以前は患者数の少ない疾患といわれ、AChE阻害剤の開発に着手するメーカーが少なかった。ところがエーザイが予測したようにCT、MRI診断の普及によってアルツハイマーと診断される患者が激増し、先行医薬品であるドネペジル塩酸塩の重要性、優位性が増加した。

 2013年1月現在、アリセプトは97カ国で販売されている26。また、対象が高齢者であることから、服用性の改善を図るため細粒剤の開発が行われ2001年3月承認された。また、服薬困難を伴う患者に対して口腔内崩壊錠が開発され、2004年2月承認された。また、内服ゼリー剤が2009年7月に、ドライシロップ剤が2013年2月承認された27


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