現代まで
タクロリムス
イノベーションに至る経緯
臓器移植が世界で初めて行われたのは1967年12月南アフリカにおいてであり、日本でもその翌年8月に札幌医科大学において初の心臓移植手術が行われた。しかし、この手術は後に刑事訴追されるなど(不起訴になったが)各種の問題が提起されることとなった。このため日本においては角膜移植や骨髄移植などは実施されていったが、臓器移植については長らく具体化されるまでに至らなかった1。
一方、欧米では脳死をもって「人の死」とする考えが定着し、臓器移植は年々増加傾向をたどるようになっていた。その際直面する大きな課題が、T細胞(骨髄で生成され胸腺に送られて成熟する免疫担当細胞)による拒絶反応をいかに和らげるかであった。藤沢薬品が、この免疫抑制剤に取り組み始めた1970年代後半は、スイスのサンド(現・ノバルティス)によって1970年に開発され72年にその免疫抑制効果が再発見されたCsAが、最も有効性が高い医薬品として多く使用されていた。しかし、この薬品は、腎障害、肝障害、神経障害などの副作用があり、より良い免疫抑制剤の実現が待たれていた2。
藤沢薬品は、戦後、「天然物の医薬品」製造を創薬の理念とし、抗生物質のペニシリンやトリコマイシンの生産を行い、それによって培ってきた発酵技術等を生かして微生物から更に新たな抗生物質を作る研究を主として続けていた。1960年には、ペニシリンに代わる抗生物質として世界の有力医薬品企業による製品開発競争が行われたセファロスポリン系医薬品(セファゾリン)の開発に社運をかけて取り組み、8年の歳月をかけて成功していた。その製品は、米国のスミスクライン社(同社も別の方法で開発に成功していた)にまず導出され、その後、米欧の企業に技術供与されて全世界に販売されていった3。
しかしながら、1970年代後半に入り、医薬品開発の対象が感染症から抗がん剤などの疾患治療薬に重点が移るとともに、藤沢薬品でもこれまでの創薬対象領域を見直すかどうかが大きな経営課題となった。1975年、社内には抗生物質の領域での開発になお大きな可能性を望む意見も強かったが、当時の経営陣は社長の早川三郎、常務の藤澤友吉郎らトップが、企画調査室の分析結果や研究マネジメントの青木初男らの意見を踏まえ、抗がん剤や免疫調整剤などの分野に領域を展開することを決定した4。
1978年には、大阪の中央研究所が放線菌の二次代謝物から強い免疫賦活物質(FK156)を発見した。この発見は抗がん剤やエイズ治療薬としての活用が期待され、米国の国立がん研究所(NIC)において臨床試験が行われるまでになった。しかし、副作用が発生し結果的には製品化されるに至らなかった。
一方、この免疫賦活物質を発見したという経験は、藤沢薬品が培ってきたスクリーニング技術を活用すれば、免疫抑制剤関連物質も発見できるとの研究者たちの自信も生むこととなった5。藤沢薬品の研究陣のトップとして長年強いリーダーシップを発揮してきた今中宏らの上層部は、研究陣に対し低分子の免疫抑制剤の開発に取り組むことを許容し、それを筑波に新設される探索研究所において実施させることにした。臓器移植のない国内ではその需要は小さいが、CsAによって既に海外では一定の需要が現出しており、また、免疫賦活剤においては、免疫系全てのステップをクリアする必要があるが、免疫抑制剤の場合は1ステップでも効果が得られれば免疫活動全体を抑制できると考えた結果である6。
1982年からは、米国で免疫の研究をして帰国した後藤俊男を中心に若手研究グループが編成され、建設途上の探索研究所で免疫抑制剤のスクリーニングが着手された。ここではFK156の経験を踏まえて、リンパ球混合培養反応7と呼ばれたスクリーニングの方法を採用した。これは免疫抑制剤を見いだすことに集中したスクリーニング方法であった。
1983年、筑波研究所施設の完成とともに、カビ約8000株、放線菌1万2000株のスクリーニングが行われ、翌1984年3月にFK506(Fujisawa Kaihatsu No.506、タクロリムス)が研究員木野亨によって発見された。タクロリムスの命名はTsukubaのt、マクロライド系を示すacrol、免疫抑制剤immunosuppressantをまとめてtacrolimusとしたものである。
タクロリムスの免疫抑制効果は、試験管内(in vitro)の実験ではCsAに比べて50倍から100倍の効果があった。動物実験による(in vivo)結果でもCsAより低い容量で反応を抑制した8。この成果を踏まえて研究所では特許申請を行うべく化学構造の確定に向けて精製、結晶化等の作業を行い、とくに困難を伴った結晶化については名古屋の発酵研究グループの協力を得て1984年12月3日に特許出願を行った。
翌1985年5月には、当時の探索研究所長 青木の要請を受けて調査企画室長 福元英男が薬剤開発に向けたプロジェクトチームを全社横断的な体制で立ち上げた。福元は、プロジェクトチームの会議を定期的に開催し、開発の進行に関する情報を共有し、部門ごとの協力を推進し、独善に陥ることのないように気を配った。
製品化にあたっては、血中濃度の測定や経口剤の開発の行き詰まり、動物実験における犬とラットとの投与結果の違いといった課題が次々と発生した。
タクロリムスはCsAに比して微量で効果が現れるが、多量に投与するとやはり毒性が現れる。人により適正な投与量は異なると考えられることから、血中の薬剤の量を正確に測定して投与量を決めねばならない。しかし、タクロリムスの投与量は少なくそれまでの測定器では正確な計量ができなかった。そのため中央研究所の生物工学研究チーム(小林正和チーム)に新たな測定方法の開発を依頼した。同チームは酸素標的免疫吸着測定法という低濃度まで測定できる血中濃度測定法を開発し、この課題を乗り切ることができた9。
経口剤の開発も、タクロリムスの商品化を考える際に乗り越えなければならない大きな課題であった。動物実験でその成果を確認する作業のため、福元は筑波の研究所員に組合協定には反するものの、土日返上での作業を依頼せざるを得なかった10。
タクロリムスの毒性に関して問題となったのは、実験動物の違いによる腸重積(小腸が大腸に入り込み閉塞などを生じる)の問題であった。ラットに投与しても起きなかったそれが大腸の長い犬においては発生した。実験中断の危機を迎え、専門家の間でも評価が割れることとなったが、人と同じ二足歩行のヒヒを主たる実験動物とすることとし、その実験データをもって判断することに決定した11。
このような製品化への挑戦が進むなかで藤沢薬品にとって大きな力を与えたのがアカデミアからの支援であった。特に移植実験は、まず千葉大学医学部落合武徳講師(当時、のち名誉教授)の協力を得て行われた。青木が、1984年12月に開催された癌免疫療法学会で知り合った落合にタクロリムスの話をしたところ、米国留学で強く移植治療に関心を持っていた落合が、自ら動物実験を行う希望を述べたのである。以後1年間、毎週土日に落合は10人ほどの医師と共に研究所に通い、動物実験を重ねてデータを蓄積していった12。
1986年8月、ヘルシンキで開催された国際移植学会において落合は、自らが手掛けてきたタクロリムスの動物実験結果を報告した。そこに示されていた効能―CsAのみが実現していたT細胞を直接たたくのではなく、これの発生を抑制する効能をもち、かつCsA以上の効果を上げていること―に多くの参加者が強い関心を示した。そのなかに、米国のピッツバーグ大学のトーマス・E・スターツル教授がいた。スターツルは、米国における肝臓移植の実績で著名な学者であった。学会を終えて同僚の藤堂省助教授と共に来日したスターツルは、藤沢薬品を訪問し、自らの責任、費用でタクロリムスの試験を行うこと、そのための継続的なサンプルの提供を要請した。臓器移植が腎臓以外には当時なお行われる見込みのなかった日本では、臨床試験は外国に求めなければならなかった。スターツルの申し出は藤沢薬品にとっても、運命的といえる出会いであった13。
一方、スターツル以外にもタクロリムスに寄せる関心は強まっていた。英国の著名な移植医師ロイ・カーンは、実験結果からタクロリムスの毒性に強い危険性を指摘していた。これに対しスターツルは、自らの実験結果を積み上げつつ、相次ぐ学会での論戦においてカーンの指摘を否定する根拠を示していった。ヒヒを使った日米での実験では腸重積は生じなかった。
1989年2月、スターツルは肝臓移植患者であった28歳の女性にタクロリムスを投与する臨床試験を実施した。その際、CsAも共に投与された。投与開始から2日ほど経た時点で腎障害が明らかになってきた。これに対するスターツルの指示は「他剤を切れ、タクロリムスを増量しろ」であった14。1週間後、腎臓は正常に活動していることが確認された。
1989年10月、ニューヨークタイムズは一面にタクロリムスの臨床結果を報じる記事を掲載した。1991年には時の大統領夫人バーバラ・ブッシュが臓器移植関係者を招いたレセプションに日本から唯一藤沢薬品の社長 藤澤友吉郎を招待している。
スターツルの実験と並行して藤沢薬品では、米国食品・医療薬品局(FDA)の医薬品認定に向けた自らによる臨床試験によるデータの蓄積や、その内外での販売に向けた体制づくりを開始した。ヘルシンキでの学会の1年後、1987年3月、藤沢薬品は最高幹部の出席のもとにタクロリムスを開発候補品とすることを組織決定していた。しかしながら、この時点では、採算性や、当時なお不安の多かった動物実験結果などから見て社内でも意外の感をもって受け止めた者が多かった15。一つには藤沢薬品は、海外の他社と創薬の開発を共同研究する契約を締結しており、その契約では藤沢薬品が直接販売できる市場は実質日本に限られていたからである。しかし、その契約相手先は、この決定の1カ月前にタクロリムスの将来性に見切りをつけ撤退していた。社内のほぼ全ての職員は、タクロリムスを海外で開発し、販売するにしても早晩次の提携企業を見いだす必要を感じていた。
これに対して社長の藤澤は海外での「自社開発・自社販売」を主張し、これを決断した。かつてセファゾリンの海外販売にあたり、スミスクラインへのライセンスアウトと販売網に依存せざるを得なかった教訓から、あくまで自社製品をもって自前のブランドで販売し、藤沢薬品の名を海外でも広めるとともに、海外に本格的に進出することに強い思いを持っていたのである。それには海外において企業を買収し、製品化までの失費は他の医薬品の利益で食いつなぐとの考えでもあった16。この決定を踏まえ藤沢薬品は1987年には米国のメリーランドに事務所を設置する。欧州には、1985年、ロンドンにクリニカル・リサーチ・センターを設置していた。やがてピッツバーグ大での実験結果が次々に明らかになった。藤沢薬品自らも内外の多施設での比較試験を実施し、医薬品としての申請に向けたデータを蓄積するとともに、海外での直接販売のために1990年にはFUJISAWA USAを設立するなど海外直接進出の体制を構築していった。
このころになると日本においても、ようやく臓器移植が実施される機運が生じつつあった。1989年には首相の諮問機関として「臨時脳死及び臓器移植調査会」(いわゆる脳死臨調)が設置された。同年11月には島根医科大学(現・島根大学)で国内初の生体肝移植手術が行われ、これには認可前のタクロリムスの使用が、人道的観点から厚生省に認められることとなった。1990年6月からは京都大学などにおいて臨床試験が開始され、その効果が広く認識されるようになっていった。1992年1月、脳死臨調は最終答申を提出し、脳死をもって人の死とすることには全員一致ではなかったが、脳死体からの臓器移植には全員が賛成したとの考えを示すこととなった。
1991年、藤沢薬品は京都大学での臨床試験結果をもとにタクロリムスの新薬製造申請を行った。海外では1993年6月にドイツで、7月には米国でFUJISAWA USA、さらに英国、カナダ等々に次々申請していった17。
1993年4月、厚生省は製造承認を行い、翌月には薬価収載がなされ、6月には注射液とカプセル内服薬が発売された。薬価算定にあたっては、1992年の薬価新算定方式後、初の画期性加算(10%強)がなされた医薬品となった18。