戦後復興期
ビニロン
イノベーションに至る経緯
(1)戦前におけるポリビニルアルコール繊維の技術開発
戦前の日本では、綿花・羊毛などの繊維原料を輸入し、その繊維原料を加工した繊維製品を輸出することで外貨獲得を達成していた。しかし1937年以降、綿花・羊毛などの繊維原料について日本への輸入制限が実施されると、この構図が崩れてしまった。これを受けて、繊維産業各社及びいくつかの大学は、輸入が困難となった繊維原料の代替品となる合成繊維の開発に着手した。また1941年1月には、繊維原料の代替品となる合成繊維の研究のために、産学官共同の事業として財団法人日本合成繊維研究協会が設立されている。同協会が設立されたことによって、研究室や中間試験場の設置及び、研究者・技術者の交流の促進がなされた。こうした合成繊維開発の機運の高まりの中で、1941年以降、技術開発の重点対象になったのが、ポリビニルアルコール繊維(以下「PVA繊維」と呼ぶ)であった。これは石灰石を原料とし、電気を用いてカーバイド法アセチレンと酢酸を反応させてつくられる酢酸ビニルを素材とすることから、いわば国産資源で賄われるものだったのである(現在は石油と天然ガスからつくられるのが一般的である)。
このPVA繊維はドイツで発明されていたが、耐水性(耐熱水性や水溶性)の点で問題を抱えていた。1939年に桜田らがビスコース法レーヨンと呼ばれる技術を応用して、耐水性を得たPVA繊維を開発した。これが戦後、ビニロンという名称で工業化される合成繊維である。また同年、鐘紡でも矢沢将英らが「カネビヤン」と呼ばれる耐水性を得たPVA繊維を開発した。戦間期には倉敷レイヨン、鐘紡等によって工業化の試みもなされたが、戦間期の資材不足等の理由でその工業化は試験的なものにとどまった。
(2)戦後におけるビニロンの工業化
戦前に桜田らによって開発された「合成一号」は、戦後1948年に業界関係者によって、ビニロンと名付けられた。終戦後、倉敷レイヨンの社長であった大原総一郎は、「一企業の利益のために起こす事業ではなく、日本の繊維産業を復興するものだ」1という思いの下、ビニロンの工業化に取り組み、1950年にビニロンの工業化に成功した。倉敷レイヨンは富山や岡山などに複数の工場を設けることで、原料である酢酸からビニロンまでの一貫した生産体制を自社内に敷いた。工業化が果たされたビニロンは、当初、羊毛混・スフ混の服地、メリヤスなどの多くの衣料用途に展開された。
また同時期に、政府によって合成繊維産業を支援するための施策が行われた。具体的には、商工省が1949年に、「合成繊維工業の急速確立に関する件」を決定した。これによって、戦後早期にビニロンの開発を再開していた倉敷レイヨンがビニロンの先発企業に指定された。その結果、実質的には倉敷レイヨンの1社独占によるビニロン生産体制が敷かれた。これにより倉敷レイヨンのビニロンの工業化は一層進むこととなった。
また1949年には、経済安定本部資源調査会が「合成繊維工業の育成」勧告を出した。この勧告においては、一日当たり150トンのビニロン生産が実現することで、日本は綿花や羊毛などの天然繊維の輸入に依存する必要がなくなるとされた。このように戦後初期において、外貨節約のために天然繊維の代替品としてのビニロンにかけられていた期待は大きかった。しかしながら、市場の反応は決して順調とはいかなかった。
ビニロンフィラメント
画像提供:クラレ
1955年当時の岡山工場
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(3)市場における展開と技術改良
戦後初期のビニロンの市場展開は主に衣料用途と産業用途に分けられた。まず衣料用途について、倉敷レイヨンは、羊毛混・スフ混の服地、メリヤスなどの分野で市場の開拓を試みた。しかし、ビニロンは戦後間もない時期を除いて、衣料用途での需要は必ずしも大きなものとならなかった。品質・価格の両面で、木綿やスフ等の競合製品にかなわなかったのである。産業用途についても同様で、品質の問題が理由で市場展開は限られていた。
1954年には、同時期に工業化されたナイロンが、ビニロンの生産量を追い抜いた。倉敷レイヨンは、この危機に直面して常務取締役の友成九十九にその解決のための研究に取り組ませることとした。友成は、戦前にドイツにおける合成繊維研究を見て、日本に帰国後は京都帝国大学の桜田教授にPVA繊維の研究開始の必要性を説いたビニロン研究の第一人者であった。ビニロンの危機に直面した友成は、様々な技術改良を成し遂げた。その中でも部分重合法の発明は革新的であった(次項「発明技術開発の概要」参照)。倉敷レイヨンは、この技術開発によって強度の高いビニロン糸の製造を実現した。
強力ビニロン糸の開発後、倉敷レイヨンは、衣料用では学生服、産業用途では漁網分野での需要獲得に重点を置いた。学生服はビニロンとスフの混紡による丈夫で洗濯の容易な製品に販売、宣伝を集中し、産業用途については、1954年に、強力ビニロン糸による漁網を「クレモナ万漁」という名称で販売した。この「クレモナ万漁」の持つ強度の高さは多くの漁師に好まれ、発売開始翌年に「クレモナ万漁」は、漁網販売高で先行していたナイロン製品を抜いて漁網販売高トップに立った。このようにビニロンは、衣料用途では強度、耐摩擦性、耐薬品性を生かした学生服、産業用途では強度、耐久性を生かした漁網で成功した。
ヒ゛ニロン学生服広告
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(4)市場の縮小とその後の展開
ビニロン製の学生服や漁網は、高度成長期の定番商品となった。1963年には当時国交のなかった中国からの強い要請を受けポバール・ビニロン一貫生産プラントが中国に輸出された。これは戦後日本の対中プラント輸出第一号であった。
しかし、高度成長末期になると、ビニロンはポリエステルやアクリルなどの新しい合成繊維の登場によって、衣料用途市場で大きな打撃を受けるようになった。ビニロン生産量がピークを迎えるのは1971年であり、それ以後、生産量は縮小していった。
このように、市場の縮小を続けたビニロンであったが、近年は建築分野で資材の一部として用いられている。具体的には、ビニロンがアスベストの代替品として市場で注目を集めている。アスベストの発がん性が指摘されたことを契機として、代替品として無害なビニロンが注目を集めている。資材分野で用いられる「ビニロンは、優れた耐アルカリ性、セメントとの接着性、耐候性などの点でヨーロッパを中心に高い評価を受けている」2。
ビニロン生産量推移
経済産業省「繊維・生活用品統計年報」より作成