戦後復興期
溶接工法ブロック建造方式
概要
貿易を担うのは大部分海上輸送である。しかしながら、第二次大戦終了時(1945年)、我が国の外航航路に供することが可能な船腹量は134万トンと戦前の2割ほどにまで激減し、かつ、残存船舶も戦時標準船と呼ばれた質の劣るものであった。全商船は占領当局の管理下に置かれ、船舶の建造も規制される中で海運業界の再建は非常に困難な状況にあった。政府は1947年、船舶公団法の制定や新造船建造資金を援助する「計画造船」を推進したが、戦後間もなくの造船技術は艦船建造技術の踏襲が中心であり、その技術による製造価格、完成工期では、世界の市場で競争できる環境にはなかった。この状況を打開すべく大学教授や海軍出身の技術者が中心となり、産業界からの技術者も広く加え、産学で連携した組織が形成され(後年1952年「社団法人日本造船研究協会」となる)、船舶建造技術向上のための研究開発が進められた。その中心となった技術開発課題が「鋲接から溶接」へと建造方式をいかに移行させるかであった。
戦前、海軍では一時、艦船建造をより効率化すべく、鋲止めによる部品等の接合を主とする工法から全て溶接構造の艦船に移行できるか試験的に建造した時期があった。しかし、溶接技術の研究開発が不十分で、建造中に船体形状が大きく変形するという事故が生じ、以後建造された戦艦「大和」をはじめ主要艦船には溶接継手は使用されなかった。ただし、戦争末期に至り小型輸送艦の短期間・大量生産が必要となり、戦時標準船と呼ばれる質の悪い船舶は、全溶接構造による建造方式で製造された。戦後の船舶建造のための研究開発の最初の課題は、この体験を基に、新しい優れた全溶接継手技術をいかにして実現していくかであった。
この研究開発は、造船にかかわる学会、産業界そして官界の総力を挙げた研究体制で推進されるところとなった。まず学会内に関連の研究会を数多く立ち上げ、研究会には産学官それぞれから研究者、技術者が結集した。特に業界各社の技術者が結集したことにより、ここでの研究の成果は直ちに具体的な実船建造に適用されていった。1954年には、この共同研究の成果が集約された「鋼船工作法基準」が策定刊行されている。この年には、建造された船舶の構造継手の90%を超える部分が溶接構造となった。
溶接技術の改善・向上により、溶接構造の導入が可能となり、ブロック建造方式が採り入れられた。鋲接構造の場合は、構造部材を船台上に運び、組立て鋲打ち工事を行っていた。溶接工法ブロック建造方式は、船全体構造をブロックに分割し、各ブロックを工場内で完成させその後船台に運び、ブロックを溶接により結合し船を完成させる方式である。各ブロックは工場内で、部品組立て、小組立て、総組立てという過程を踏んで製作されるので、施工の簡易化と精度の確保が大幅に図れることとなった。
この溶接とブロック工法を合わせた建造方式により、日本の造船業の建造工費の減少、建造期間の短縮、建造量増大が可能となり、我が国造船業の受注競争力は大きく向上した。とりわけ1954年頃からは、海外船主が発注する原油タンカー受注が増大し、1956年には、それまで建造量(年間の進水実績)世界一であった英国を抜き、世界一の座を獲得した。溶接工法ブロック建造方式の確立は、戦後日本の造船業が発展する礎を築いた最大のイノベーションであったと言える。
造船で最も重要な技術が「溶接」とも言われる
適当な大きさに区分したブロックを工場で製作
ブロックは数ミリの誤差なく接合される
画像提供:<航海士便り>運営者 http://homepage2.nifty.com/go_tokyo/index.htm