公益社団法人発明協会

戦後復興期

溶接工法ブロック建造方式

イノベーションに至る経緯

 大型鋼船が建造され始めて以来、第二次大戦時点までの船舶の建造方式は、国際的にも鋲継手によるものが主流であった。しかし、鋲継手方式よりも溶接継手方式の方が、次の点で優れていた。①継手部分の鋼板を重ね合わせる必要がなく所要鋼材量が減少し、重量を軽減できる、②水中部の船体鋼板継手が完全な水密性を確保できる、③(ブロック建造法の採用により)作業場所を柔軟に選択でき、加工工数も削減できる、④継手強度はほぼ母材と同一化できる。これらの利点ゆえに、第二次大戦をはさみ、国際的には、急速に溶接継手が採用されるようになった。

 我が国の造船業界では、戦中における海軍の意向により鋲継手建造方式が主流であったため、終戦時における溶接技術の水準は米国、英国などに比べて相当の遅れがあった。この遅れを取り戻すには、溶接技術の取得と向上への早急な取組が必要であった。まず、造船学会内に電気溶接研究及び鋼船工作法に関する2種類の研究委員会が設立された。委員長には東大教授の吉識雅夫と元海軍技術将校の福田烈が就任した。この委員会の特徴は、メンバーが産学官の各専門分野の第一線の研究者、技術者によって構成されたこと、そして、日本の造船会社のほぼ全てが参加したことである。戦後の劣悪な交通環境の中にもかかわらず全国から結集したメンバーによる会合、検討は頻繁に行われ、広範な分野について自由かつオープンに討議がなされていった。参加者は、研究と検討の成果をお互いに共有し、それらを自社に持ち帰って、現場で次々と活用していった。1949年には、日本溶接協会が設立され、その中の第8部会である溶接施工委員会は、上記の電気溶接研究委員会と共催による研究を推進していった。民間における動きに呼応し、政府においても1949年、造船技術審議会が設置され、造船技術の向上に関する重要事項の調査と審議が行われるようになった。

 溶接技術研究の様々な課題の中で、とりわけ注目されたのは、第二次大戦中の米国で大量に建造された全溶接の船で大量に生じた事故の解明であった。米国の資料等から、その原因は鋼材の質にあることが判明し、1950年、運輸省の指導により「造船用鋼材研究会」が造船協会内に設置された。この研究会は、大学、国立研究所、造船所、製鉄会社からの委員で構成され、鋼材製鋼法などについて広範な調査研究が行われた。

 この研究会を契機に、造船技術の向上を目指すには、官・民の研究組織で個々独立に実施されている研究試験を統一的に実施可能にする民間共同研究機構が必要であるとの意見が出されるようになった。運輸省は造船技術審議会にこれを諮問し、上記の意見に沿う答申が1952年4月に出された。この答申に対応すべく、日本造船工業会、日本船主協会及び日本海事協会が中心となり、1952年6月に任意団体として「日本造船研究協会1」が設立された。この研究協会の発足によって、溶接工法ブロック建造方式をはじめとして、造船や海運に関する多くの研究課題に産学官共同で取り組む体制ができた。発足後10年間は運輸省の補助金を中心に研究が進められたが、それ以降は日本船舶振興会(現 日本財団)の手厚い補助により研究が実施され、造船技術開発の大きな支えとなった。

 日本の「溶接工法ブロック建造方式」の技術水準が急速に向上した背景には、産学官から集まった多様な研究者と各造船会社の製造部門技術者とで構成された研究委員会における共同作業の実施がある2。この研究委員会の研究成果は学会誌3や学会発行の「船の溶接工作法4」に編集され、各々1951年、1954年に広く公表され、業界で活用された。これらの内容はその後改訂が進められ、1960年に全6巻にまとめられ刊行された。

 溶接工法ブロック建造方式による建造技術が広く建造現場で実用可能となる時点と、国際的なエネルギー供給構造が石炭から石油エネルギーに転換する時代とが合致していたことは、原油を輸送するタンカーの大量受注を日本の造船業界にもたらすこととなった。とりわけギリシャ系船主を主体に米国系石油会社や北欧諸国の海運会社は、日本の建造能力の向上を認め、タンカーを主体に多数の船舶の建造を発注した。発注船主は運航採算性の向上を求め、特に原油タンカーの大型化を要望した。一方、受注する船型は全て異なることがほとんどであったから、造船業独特の個別受注産業形態においては、受注船型に柔軟に応じることができる溶接工法ブロック建造方式が、大型タンカーの短期建造に最適な方法であった。

 やがて、戦前からの旧造船所設備では船台規模が不十分となり、また、ブロック組立設備の不足もあり、新規設備の追加対応に迫られるようになった。業界大手企業は新しく埋め立てられる臨海工業地帯に、超大型船の建造が可能な船渠を設置する新造船所を新設した。そして1960年代半ばから1970年代初めにかけて超大型タンカーが多数誕生した。1966年には載荷重量20万トン型超大型タンカー(出光丸)が初就航し、10年後の1977年には50万トン型超大型タンカーが建造されている。わずか10年間という短期間に、急激な大型化を可能にしたのは、溶接工法ブロック建造方式技術の蓄積等たゆまぬイノベーションへの努力であった。この時代、超大型船建造を含め、日本の新造船建造量は急増し、世界シェアの50%に達する状況になった。

 1960年代末期からはタンカー需要に代わり、一般貨物船による雑貨物の輸送方法がコンテナ船による輸送方式へと急速に転換した。従来の一般貨物船に積載する雑貨物は、発送先で梱包し、搬送する方式であった。コンテナ船輸送方式は、国際規格のコンテナ容器内に発送元生産地で貨物をコンテナ内に格納し、そのコンテナを直接配送先まで搬送する型式となった。結果、港湾における船への荷役作業が大幅に簡易化され、コンテナ船需要は急増していった。コンテナ船以外にも積載貨物に合わせて海上輸送に適した専用船が種々建造された。専用船の中で最も多数建造され運航してきたのが、ばら積み貨物船(穀物、石炭・鉱石類など輸送)であり、現在では、その他に液化ガス運搬船(LPG・LNG)や自動車運搬船など多くの専用船が建造されている。その工法も基本は溶接工法ブロック建造方式である。

LNG船「アークティックディスカバラー」

LNG船「アークティックディスカバラー」

画像提供:三井造船、成山堂書店

図1 世界 新造船建造量 推移

図1 世界 新造船建造量 推移

IHS(旧ロイド)統計を基に日本造船工業会にて作成


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