公益社団法人発明協会

戦後復興期

銑鋼一貫臨海製鉄所

イノベーションに至る経緯

 本節は、戦前・戦中と戦後に分けて、銑鋼一貫製鉄所というイノベーションの経緯を概観する。なお、本節の記述は、飯田賢一『人物・鉄鋼技術史』と米倉誠一郎「戦後日本鉄鋼業試論 その連続性と非連続性」、及び數土文夫「西山彌太郎の精神と21世紀の企業経営」を基にしている。

(1)戦前・戦中

 欧米のコークス高炉法などの製銑技術を導入して、日本の鉄鋼業は近代化への道を歩みはじめた。その第一歩が、1901年に操業を開始した官営八幡製鐵所であった。その後、1934年に日本製鐵株式会社法(日鉄法)が制定されると、八幡製鐵所は釜石鉱山や富士製鋼などと合併して半官半民の日本製鐵が誕生した。

 日本製鐵は、満州事変や日中戦争の開始によって急増した鉄鋼需要に対応するため、八幡や釜石の設備増強を進めた。さらに、1939年に銑鋼一貫の広畑製鐵所を新設した。

 こうして、日本製鐵は国内銑鉄生産の90%近いシェアを占めるようになった。しかし、日本製鐵は、戦争遂行のために安価に銑鉄を供給することが義務付けられていた7。このため、銑鉄製造設備のない単独平炉メーカーでも、日本製鐵から安価に銑鉄の供給を受けることができた。

 一方、日本鋼管(1912年設立)は、1936年に溶鉱炉の稼働を開始し、銑鋼一貫メーカーとなった。こうして、戦前、戦中期に2社の銑鋼一貫メーカーが登場した。

 この時、川崎重工業の技術者だった西山彌太郎(以下「西山」と呼ぶ)は、1935年に自ら欧州に足を運び現地の鉄鋼メーカーを視察し、銑鋼一貫臨海製鉄所への着想を得ていた。当時、輸入に依存せざるを得ない鉄鉱石の入手は困難を極め、日本メーカーの多くはスクラップを原料とした製鋼法を採っていた。しかし西山は、交通機関の発達のもと自由貿易が栄えるという先見の明を持ち、輸入原料による銑鋼一貫臨海製鉄所で大規模生産方式を採り、コストを世界レベルまで下げるべきであるという構想をこの時期から既に抱いていたのである8

(2)戦後

 戦後、連合国側によって、一定の能力を超える国内の製鉄所は賠償の対象に指定された。そのため、1946年頃から多くの製鉄所が操業を中止した。しかし、1947年頃から東西対立が強まると、米国は日本の経済復興を優先するようになる。こうして1950年頃から、賠償政策が緩和される。この政策転換において、優秀な拠点は維持されることとなった。このとき、国内で唯一の優秀な工場として認定され、賠償指定が解除されたのが日本製鐵の広畑製鐵所であった。これを受けて、1950年に広畑製鐵所は操業を再開した9

 同年、市場での自由競争を促すため、GHQは日本製鐵を八幡製鐵と富士製鐵に分割民営化した。これにより、圧倒的な銑鉄供給力を持つ純粋な民間企業が誕生した。このことは、安定的に銑鉄供給を受けていた平炉メーカーにとって死活問題となった10。自ら銑鉄を製造するかが大きな課題となった。

 この時期になると米国は日本の鉄鋼業の育成に協力的な姿勢を取るようになっていた。このため、後発企業であっても、既存企業と対等に外資割当を受けられる状況になった。このことも、平炉メーカーの銑鋼一貫化を促した11

 さらに、戦前の鉄鋼メーカーの経営者はGHQによって追放され、若手の経営者に置き換えられた。彼らは、それぞれの鉄鋼メーカーの中で戦前から経験を積んできた人材であった。技術者出身の川崎製鉄12の西山彌太郎もその一人であった13

 西山は、「製鉄部門が成長していくためには、造船業との分離独立が不可欠である」という強い考えの下、1950年に川崎製鉄を川崎重工業から分離独立させ、千葉製鉄所の建設を主導した。川崎製鉄の資本金が5億円(当時)であるのに対して、建設予定額は163億円であった。この巨大プロジェクトの構想も、1950年に公表された。一方、1950年は鉄鋼業における第1次合理化計画が出された時期でもある。このため、通産省(当時)、日本銀行、業界から反対意見が噴出した。このような中でも、西山は世界銀行や第一銀行からの融資獲得に成功した。こうして千葉製鉄所は、世界最先端の設備や技術を採用した、戦後初の銑鋼一貫臨海製鉄所となった。借入金を主体にした巨大な設備投資を、規模の経済を追求することによって回収するビジネスモデルの先駆けとなった。また、海外の良質原料(鉄鉱石、石炭等)を大量に輸入し、生産した鉄鋼製品を直接、また造船・自動車・機械等の工業製品として間接的に輸出する戦後日本の加工貿易のビジネスモデルの端緒にもなったのである14

 当時の川崎製鉄には、銑鋼一貫製鉄所に必要な溶鉱炉やコークス炉、自家発電設備の技術者がいなかった。これを救ったのは、満州の昭和製鋼所OBの浅輪三郎、北京の石影山製鉄所OBの岡村琢三、広畑製鐵所OBの藤井栄次郎ら、他社の経験豊富な技術者が招聘された。こうして、当時最先端の技術が移転され、千葉製鉄所は実現した15

 これ以外にも、高炉、転炉、連続鋳造、圧延作業の自動化・連続化・高速化、コンピュータによるプロセス制御といった、銑鋼一貫製鉄所の操業に必要な技術やノウハウが川崎製鉄に移転された。この技術やノウハウの移転に寄与したのが、日本鉄鋼協会(1915年設立)であった。この協会は、各企業からの参加者が共同研究を行う学術団体で、戦後も存続していた。このように、企業間ネットワークを介して、リーダー企業の八幡製鐵で有する技術をはじめとする最先端の技術が伝播した16

 千葉製鉄所に刺激された神戸製鋼所や住友金属工業も、その後競って銑鋼一貫化を推し進めた。1953年の住友金属工業の小倉製鋼の合併、1954年の神戸製鋼所の尼崎製鉄への資本参加である。こうして銑鉄内製化が業界の大きな流れとなった17。こうした銑鋼一貫臨海製鉄所では、最新鋭の生産設備が次々に導入された。こうして、日本は1970年代までに世界トップクラスの生産量を達成したのである。

千葉製鉄所第1高炉

千葉製鉄所第1高炉

画像提供:JFEスチール


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