高度経済成長期
自動改札システム
イノベーションに至る経緯
(1) 駅の混雑と自動改札システム
1960年代初頭は、高度経済成長のただ中にあって、ターミナル駅を中心に、ラッシュ時の改札口は混雑を極めていた。切符は駅員によって切られることから、その処理能力には限界があり、改札口周辺の渋滞は絶えなかった。
改札業務を行う駅員を増やすことは難しかった。上昇する人件費をまかなうための最も直接的な手段は、運賃の値上げであるが、それには政府の承認が必要となる。国民にとって抵抗の大きい運賃の値上げには、議会も消極的になりがちであった。
近畿日本鉄道(以下「近鉄」と呼ぶ)をはじめとする大手鉄道会社では、自動改札システム導入によって駅内混雑が解消できないかという議論が行われていた。1964年2月、近鉄は自動改札機開発のための研究会を立ち上げ、大阪大学との共同研究を開始した。さらに同年9月からは、機器メーカーとして立石電機(現 オムロン(1990年に社名変更)、以下「オムロン」と呼ぶ)も参加した。
当初の実験機は、定期券専用機からスタートした。「通用経路上の任意の駅で下車可能である」という特徴を持った我が国の定期券を自動改札システムで利用するためには、(a)通用経路をなるべく少数のビットで符号化する、(b)乗降駅が通用経路上にあるかどうかの有効判定処理を高速化する、という2点の工学的課題の解決が求められた。この技術課題の解決においては、大阪大学によるグラフ理論的手法の登場が、大きなブレークスルーとなった1。
理論的側面については、近鉄や大阪大学のグループの努力によって一定の水準が達成されたものの、同技術の具体化においては、より一層の高速処理の実現が大きな課題として残っていた。このため、基本的機能及び構造についての試作試験を更に進めていくこととなった2。
(2) オムロンの挑戦
オムロンは、1933年創業の中小部品メーカーであった。オムロンは、当時の主力事業の1つである、オートメーション機器の市場規模の拡大に対応し、新製品開発活動を強化する目的で、1960年、中央研究所を設立した。1961年、大量の偽造千円札が横行した「チ―37号事件」が起きた際には、わずかな開発期間で偽札発見機の開発に成功し、業界紙でも大きく取り上げられた。この出来事が縁となり、1963年、近畿車両技術研究所とオムロンとの間に、自動改札システムの共同開発の合意がなされた3。
自動改札システムでは、1分間に60~80人の利用客を連続的にさばかなければならない。その上で、乗客の歩行速度を落とさないように、改札の入口から出口まで、切符や定期券を0.6秒で通さなければならない。このため、①挿入口や取り出し口が見やすい位置に扱いやすい形状で設置されていること、②乗車券の挿入方向を制約せず、表裏前後の区別なく投入できること、③乗車券を改札機に0.6秒で搬送すること、④乗車券の連続投入を受け入れること、という4点の設計課題の実現が求められた。部品メーカーであるオムロンには、このような機器をつくる経験は不足していたが、開発チームのメンバーは、地道な現場観察を通じて、自動改札システム構築のためのデータを収集し、課題の発見に努めた。
1965年、試作機による実験が始められた。切符整列技術、搬送技術など様々な技術的課題に直面しながら、オムロンは翌1966年には入口から出口まで確実に定期券を運ぶ機能を備えた改札機を開発した。
しかしながら、同年、近鉄と旧国鉄との間で従来は一枚で通用されていた定期券も自動改札機では、その調整が難航したのである。こうした事情から、近鉄は自動改札機の導入を中断せざるを得なくなってしまった4。
(3) 運転の開始と改良
オムロンは、近鉄の撤退後も、他の鉄道各社への精力的な営業活動を続けるとともに残された技術的な課題の解決に取り組み続けた。そうした努力が実り、1967年、京阪神急行電鉄(当時)の北千里駅に、実験用試作機が取り付けられることとなった5。北千里駅は、当時建設が進んでいた千里ニュータウンの玄関口となる駅であり、3年後に控えた大阪万博の会場ともなる位置にあった。日本を代表する住宅都市にふさわしい駅設備として自動改札システムの導入が図られたのである6。
1967年3月、定期券専用の試作機器とともに新たに開発された普通乗車券用の改札機も2台設置して営業運転が開始された。しかし、定期券の挿入口に切符を入れたり、紙幣や、コインあるいは定期入れを直接挿入する人々が相次ぐなど、開発直後には多くの混乱が起きた。また、大きな段ボールを抱えた乗客や赤ん坊を背負った人が通ると、ゲートが閉まるトラブルも頻繁に生じた。
定期券と切符の双方に使用できる自動改札機の開発に際しては、定期券よりはるかに小さな切符に乗せる記録の内容をいかに記録するかの検討が重ねられた。それまでの穿孔方式では限界があり、他の方式を考案しなければならなかったが、複雑な切符の情報を瞬時に読み取り、判定を下す方法は容易に見つからなかった。当時黎明期にあった磁気テープのデジタル信号を使用する方法に行きつき、各々の自動改札機に簡易判定機能を持たせることでこれを解決した。
阪急北千里駅
画像提供:オムロンソーシアルソリューションズ
(4) 進化する自動改札機
北千里駅での自動改札システム導入の成功を受けて、関西私鉄駅を中心に自動改札システムの新規採用が進み、1975年末までに関西の全ての大手私鉄と大阪市営地下鉄が自動改札機を導入した。関東では鉄道網が多くの企業によって入り組んでいたことから、普及のハードルが高かったが、やがて多くの駅に自動改札システムが見られるようになった。1967年初の導入以来、自動改札機は30年間で日本中に2万台が取り付けられた7。
1971年5月、日本鉄道サイバネティクス協議会(JRCA)は磁気カードの標準規格化を進め磁気規格を制定した。ここに、磁気カード式改札機を普及させる技術的基盤が整った。1990年に至り、JRCAが新たに制定した磁気規格は記憶容量を飛躍的に拡大した。これによって複雑な経由情報が記録できるようになり、異なる路線にまたがる定期券・乗車券が実現可能となった。2001年にはICカード乗車券のSuica(スイカ)がJR東日本の首都圏で使用開始されるなど、自動改札システムはますます洗練されたものとなってきている。