高度経済成長期
ブラウン管テレビ
イノベーションに至る経緯
(1)技術のキャッチアップ
日本のテレビ開発は1926年に浜松高等工業学校(現静岡大学)の高柳健次郎が世界初のブラウン管を用いたテレビ実験に成功したことに始まる。しかし、同時期に欧米においてもテレビ開発は行われており、どのような機器がテレビ放送に適しているのかについて色々試行錯誤が繰り返し行われていた。1935年には、ベルリン・オリンピックに向けて世界初の定期テレビ放送がドイツで開始されたが、日本でも戦前の1941年にはテレビの試験放送を開始するまでに至る。この頃の技術は欧米と大差がなかったといわれている1 。だが、第二次世界大戦により実験放送は中止され、日本のテレビ開発も中断することとなる。
戦後は設備や資源の不足、GHQによるテレビ研究の禁止(ただし1946年6月に解禁)により、なかなかテレビ開発は進まず、実験放送が再開されたのは1950年のことであった。つまり、ほぼ10年間日本のテレビ研究はストップしていたのである。他方で欧米はこの間にも着実に技術を進歩させ、米国では1944年、フランスでは1945年、英国では1946年にテレビ放送を開始するに至っている2 。このような背景から、戦後の日本のテレビ開発は欧米メーカーの進んだテレビ技術のキャッチアップからスタートすることとなった。
1948年頃から日本のメーカーによるテレビ開発はスタートしたが、当初はラジオと比較して部品点数が多く、複雑な仕様のテレビの製造は容易には進まなかった。
しかし、NHK放送技術研究所や電波技術協会を中心とする共同研究、そして海外メーカーからの積極的な技術導入3により、日本のメーカーは着実にキャッチアップを進めていった。特に、注目すべきは、当時の日本メーカーは多額のライセンスロイヤルティと引き替えに、欧米企業からノウハウを含む広範な技術情報の開示を受けることができたことである。例えば、日立製作所(以下「日立」と呼ぶ)は米RCA社と最低6万ドルの支払いを条件としたライセンス契約を締結した結果、日立の技術者2名がRCA社の工場に常駐することができた。さらに、記録・写生、現地技術者との討議、写真撮影、最新の見本や部品、材料、工具、装置や図面などの詳細な資料の閲覧まで行うことができた4。
しかし、技術情報だけでは複雑な工程が必要なテレビの量産体制を直ちに完備することにはならなかった。各企業は細かな生産ノウハウを蓄積することで、徐々に不良品率を低下させ、安定した量産体制を確立していった。並行して、部品の品質向上や生産工程の細かな見直しを行い、生産コストを低下させる努力を行っていった。販売面でも競争は激しかった。松下電器産業が、あえて貧しいとみられた農村に販売の重点を置き、農家を一軒一軒訪ねてその需要を掘り起こしたことは、「予期せぬ成功を積極的に利用した」イノベーションの一典型例として、ドラッカーはその著書「イノベーションと企業家精神」に記している。
1954年頃から、遅くとも1950年代後半には日本の大手家電メーカー各社はブラウン管テレビの量産体制を整え、高度経済成長の開始もあって国内需要は急速に拡大していった。皇太子殿下美智子妃殿下が御成婚された1959年には販売台数が100万台を突破するまでになった。輸出も始まり1962年頃になると、日本製ブラウン管テレビの対米輸出が本格化した 。
以上のように、1960年代前半には日本の白黒テレビの量産技術は、欧米に追いついたと言えよう。しかし、カラーテレビの技術については、いまだ彼らに技術を依存する状態であった。
1950年代後半から始まった日本企業によるカラーテレビ開発において、日立や東芝、松下電器産業、早川電機(後のシャープ)等の有力メーカーは、シャドーマスク方式と呼ばれるカラー化技術の採用を決め、その技術を開発したRCA社からシャドーマスク方式をはじめ、カラー化に関する多くの技術供与を受けた。
日本メーカーによるカラーテレビの製品化は、1960年のカラーテレビ放送開始に合わせて行われたが、この頃はまだ十分な量産化技術が確立されておらず、日本製テレビは、輸入品と比較して高価格であるにもかかわらず性能は劣るというものであった6。仮に、この時期に海外からの安価で高性能のカラーテレビが輸入されていれば壊滅的な打撃を受けただろうと思われる。幸い、当時はまだ貿易自由化が本格化する以前であり、輸入が制限されていたことが奏功した。カラーテレビの輸入自由化は1964年である。
ブラウン管の製造過程では、規模の経済性及び経験の蓄積が非常に強く作用するため、価格を低下させるには、とにかく量産することが必要であった。しかし、日本国内だけでは十分に量産化を行えるだけの需要がないことが問題であった。
一方、米国では、1962年頃から急激にカラーテレビが普及し始めた。その恩恵を受け、米国メーカーからOEM生産の依頼が日本メーカーに殺到し、米国への輸出が開始された。この過程で量産化による製造コストの低減が可能となり、早くも1965年頃には米国と同水準のテレビ性能及び生産コストを達成するに至った7。
これ以後、日本のメーカーは欧米メーカーと対等の技術競争を行うようになっていくが、1975年頃には日本企業の優位性が明らかとなってくる。
(2)カラーテレビにおけるイノベーション
1960年代から1970年代初頭にかけて、カラーテレビでは輝度の改善、広角化、真空管からトランジスタ、ICへの駆動装置の高度化が技術的な競争の焦点となった。以下では、これらの技術の開発競争の中で日本企業が次第に台頭していった過程を見る。
テレビ画面の明るさの度合いを輝度というが、事実上の業界標準であったシャドーマスク方式はカラー化のために金属フィルタを通すため、当時の白黒テレビと比較するとカラーテレビの輝度は格段に低いものであった。そのため、日中にカラーテレビを見るためには、暗幕を閉めないといけないという煩わしさがあった。この改善を主導したのは米国メーカーである。シルバニア社とウェスティングハウス社は、1964年に輝度を大幅に改善する蛍光体を発明した。また、ゼニス社とRCA社は、1969年に白黒テレビの輝度を超える新たなカラーテレビの発明を行った。この時代の日本企業は、残念ながら、それらの技術を導入するのみであった。
しかし、次第にテレビ技術の広角化を行う過程において、日本のメーカーも開発競争の仲間入りをしていった。白黒テレビでは偏向角が110度であったのに対し、発売当初のカラーテレビは70度しかなかった。この技術開発では、1963年に日立がいち早く90度の視野角を持つカラーブラウン管を開発した。しかし1969年にはオランダのフィリップス社が日立を上回る110度の偏向角を持つブラウン管を開発した。また、RCA社、東芝もそれに続き、また日立や三菱電機も少し遅れて独自の110度偏向角を持つテレビを開発するに至った。この時点では、日米欧メーカーは、ほぼ同時期に同レベルの発明を行っていることが分かる。
そして、競争上最も重要な契機となったのが、ブラウン管テレビに多量に使われている真空管のトランジスタ化とこれらの部品の集積回路化(IC化)である。
白黒テレビでは1960年から既にトランジスタ化が行われていたが、当時のトランジスタは高温や高電圧に耐えられる仕様ではなかったため、消費電力が多いカラーテレビに直接流用することはできなかった。この問題を解決するため、新たな開発競争が行われ、1967年の米モトローラ社を皮切りに、1968年にはソニーと日立がオールトランジスタカラーテレビの開発とその製品化に成功した。その後、東芝、松下電器産業、三洋電機、シャープ等も相次いで、オールトランジスタカラーテレビの開発と製品化をすることになる。さらにはIC化に向けた開発を加速させ、1971年には集積回路(IC)を導入したテレビが日本の各社から発売され、日本のカラーテレビの競争優位が確立されていった。
日本メーカーによる画期的な技術開発もあった。その代表例は、ソニーによるトリニトロンカラーテレビの開発である。シャドーマスク方式全盛のテレビ産業にあって、後発メーカーであったソニーは、米国のローレンス博士が発明したクロマトロン方式を採用し、製品化に向けた開発を進めたのである。
ソニーがあえてクロマトロン方式を採用した背景には、当時社長の井深大(以下「井深」と呼ぶ)の「ソニーは人のやらないことをやるべきだ」という信念があったと言われている。このクロマトロン方式はシャドーマスク方式と比較して、格段に明るい画面が得られるという利点があったが、量産化が難しく、当時製品化に成功した企業は存在しなかった。
開発開始から5年が過ぎた1968年、ソニーは独自方式のトリニトロンカラーテレビを開発し、製品化するに至る。トリニトロン方式の独自性は、色彩を制御するシステムに独自のアパチャーグリルを採用したこと、単独の電子銃から3本の電子ビームを出す独自技術を用いたことにある。トリニトロン方式は、シャドーマスク方式と比較して、明るさ及び解像度の点で非常に優れた機能を発揮した。これにより、後発メーカーであったソニーは、市場シェアを大きく伸ばすことになる。また、トリニトロン方式の画像の美しさは、技術のソニーとしてのブランド確立にも大きく貢献した。
KV-1310(1968年)
画像提供:ソニー
その後もソニーは本方式を改良し、1996年には完全な平型ブラウン管テレビの製品化に成功する。そして、ブラウン管テレビが液晶テレビなどの薄型テレビに置き換わるまで、トリニトロンテレビはソニーのブラウン管テレビ市場での地位を維持する原動力となったのである。
他方の米国では、オールトランジスタカラーテレビの開発・製品化は遅れ、全カラーテレビのトランジスタ化はRCA社でも1974年のことであった。この頃には、日本のメーカーは既にIC化率を高める段階に進んでおり、技術開発の面では日本企業が先行する形になっていた。
米国企業の業績は、1973年をピークに低下し始め、1970年代後半になるとテレビ事業から撤退する企業が増え始めていった。そして1980年後半になるとブラウン管テレビを製造企業はわずかにゼニス社のみとなった。
他方で、日本企業による早期のIC化はその後のチューナーの改善や生産工程の自動化に貢献することとなり、更なる品質の改善と生産コストの低下につながっていった。さらに、日本のメーカーは、カラーテレビの高画質化、大画面化を図り、市場での優位性を揺るぎないものとしていった。
日本の電機メーカーが戦後の技術的な劣位を克服して競争力を強化していった経緯は、このような漸進的なイノベーションの積み上げが大きく影響している。