公益社団法人発明協会

高度経済成長期

小型(軽)自動車

イノベーションに至る経緯

(1)軽自動車規格の誕生

 1945年、終戦とともに日本の自動車産業もGHQの統制下に置かれ生産は停止された。トラックについては、同年9月には生産が認められたが、乗用車については1949年まで本格的な生産は許されなかった。戦前から自動車生産に関わった企業は、トラックや三輪車などを作るため乏しい資材をかき集め、細々と生産せざるを得ない状況であった。

 1949年7月8日、GHQによる乗用車生産の解除と軌を一にして、政府は車両規則の一部改正(運輸省令第36号)を行った。欧米に大きく引き離された日本の自動車産業を再建するには、生産が困難な大型乗用車ではなく、小型車未満の車に注目したのである。既に小型車の規格は存在しており、長さ4.30m以下、幅1.60m以下、高さ2.00m以下、4サイクルエンジン1.50ℓ以下などと規定されていた。軽自動車はそれよりも大幅に小さい、長さ2.80m以下、幅1.00m以下、高さ2.00m以下、排気量は4サイクルエンジン150cc以下という規格であった。最初の規格設定から数年は、国による模索の期間が続いた。規格は毎年のように改訂され、それがほぼ確定したのは1955年になってからであった。この間、国産乗用車の振興のため、政策面から様々な支援策が講じられた。例えば、1952年には16歳から取得可能な軽免許が創設され、検査制度の廃止などがなされた。

 このような国の方針を背景に、1949年以降いくつかの企業が軽自動車の生産に挑戦したが、技術面またコスト面における困難から市場で成功するには至らなかった。

 1955年、当時の通商産業省重工業局で検討されていた「国民車育成要綱案」がマスコミにスクープ報道された。そこに示されていた、4名乗車、最高時速100km、価格25万円以下などの条件を満たせば政府が支援するという施策案は、大きな話題を呼んだ。

(2)「スバル360」の開発

 軽自動車規格が誕生した1950年前後は、先進国へキャッチアップするために海外メーカーの乗用車をノックダウン生産するのが主流の時期であった。小さなメーカーはあり合わせのパーツを組み合わせて三輪貨物車を生産するにとどまっていた。乗用車としての需要は一部の富裕層は別にしてタクシー向けなどがほとんどで、「自分で所有する」というマイカー需要は極めて少なかった。

 こうした状況の中、上記の国民車構想の報道などを受け、誕生したばかりの軽自動車規格に対応したクルマが大小様々なメーカーで開発された。例えば、1955年には当時二輪で成功していたスズキから「スズライト」シリーズとして、乗用車タイプ(当時の価格42万円)、バンタイプ、トラックタイプが発売され、軽自動車規格の可能性が示された(その後、スズキは当時の社会的要求に合わせバンタイプの生産に集中した)。さらに、1958年には富士重工業より「スバル360」が42.5万円という価格で発売された。当時の大卒の国家公務員六級職初任給が9200円であったから、これを単純に現在の国家公務員一般職(大卒)初任給17万2200円(2013年4月)で換算すると約800万円相当ということになる。依然高値の花であったが、例えば小型自動車のクラウンRSの98万円、ダットサン110セダンの67.5万円と比較すると、所有が現実味を帯びてくる数字であった。それは、限られたエンジンパワーで大人の4名乗車を可能とし、かつ、日本になお多く残る未舗装路を踏破し得るという完成度の高いクルマであった。「スバル360」は、庶民に「乗用車を所有する」という当時では革新的なライフスタイルを提案し、日本のモータリゼーションのきっかけを与える象徴的な存在となった。

富士重工業「スバル360」

富士重工業「スバル360」

画像提供:富士重工業

 「スバル360」を開発した富士重工業は、一式戦闘機「隼」に代表されるような優れた軍用機を製作した中島飛行機がルーツである。戦後、富士産業に変更した同社は、航空機製造開発禁止や財閥解体などの措置に対応して、スクーターやバスといった民需への事業転換を進めつつ、事業所毎ほどに別会社化した体制をとっていた。その後、航空機製造開発禁止措置解除に合わせ、航空機産業への再参入を目指して中島飛行機出身5社(富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業)が再集合した。

 戦後のスクーターやバス製造の実績は、富士重工業の技術者たちに航空機開発で培った技術を生かした新たな国民車を作るという夢を与えた。

 「スバル360」の開発スタートは1955年12月9日といわれている。当時の軽自動車サイズ(長さ3.00m以下、幅1.3m以下)の中で、大人4人が乗車可能で、未舗装路での快適な乗り心地を確保しつつ、360ccという限られたエンジン排気量の範囲内で十分な出力と耐久性、さらには低燃費性能を確保するという、無謀とも思えるコンセプトが設定された。

 開発を牽引したのは、富士重工業初の小型自動車「P-1(スバル1500)」の開発を手掛けた技術者の百瀬晋六(以下「百瀬」と呼ぶ)であった。百瀬には既に、当時では珍しいキャブオーバー型のバスの開発や、スバル1500でのモノコックボディの採用など、求める性能の達成に向けて常識にとらわれない開発を行ってきた実績があった。とはいえ、軽自動車規格で実用性と快適性を備えた乗用車を大衆への普及価格帯で提供するというコンセプトは、更に難易度の高い困難極まるものであった。

 軽量化については、モノコックボディの採用を中心に航空機技術を応用し、車両重量385kgと驚異的な軽さを実現した。また、当時の国産乗用車の多くは、トラックと同様の懸架方式を採用していたため、まだ多くあった未舗装路では乗り心地が悪いのが普通であった。特に、ホイールベースやトレッドが狭く、商用利用が中心とみられていた軽自動車では、乗り心地への配慮など皆無に等しかった。そのような中、百瀬をはじめとする技術者たちは、「悪路を時速60kmで飛ばせる車」の開発に心血を注いだ。現在の乗用車では当たり前となっている独立懸架を、コンパクトなトーションバースプリングを用いることで実現し、後に「スバルクッション」と呼ばれる乗り心地を実現した。

 1958年3月3日、「スバル360」は完成、公開された。

(3)その後の軽乗用車の展開

 こうして、「スバル360」が「個人で乗用車を所有する」というライフスタイルの可能性を世に提示して以降、他社も一斉に軽自動車の市場に参入し、競争の激化から価格は急速に低下していった。1960年には30万円という低価格でマツダ「R360クーペ」が発売され、1962年にはマツダ「キャロル360」、三菱「三菱ミニカ」が発売された。また、所得の向上とも相まって、内装や装備にお金を掛けた「デラックス」仕様も見られるようになった。1960年代後半には、出力31馬力を誇ったホンダ「N360」を皮切りに、各社がハイパワーモデルを投入するに至った。

ホンダ「N360」

ホンダ「N360」

画像提供:本田技研工業

 その後の軽自動車は、1973年の検査制度の導入、1976年の長さ(3.20m)・幅(1.40m)・排気量(0.550ℓ)の拡大、1990年の長さ(3.30m)・排気量(0.660ℓ)の拡大といった制度変更の影響を受けつつ多様化していった。例えば、排ガス規規制に対応したエンジンの4サイクル化、スーパーチャージャーやターボチャージャーの搭載、スズキの「ジムニー」に代表されるオフロード車の導入、オープンカー、ミッドシップエンジン、ガルウィングドアなどスポーツカーへの憧れを具現化したモデルの投入など軽自動車は多方向への展開を見せてきた。

 こうして、日本のモータリゼーションのきっかけを作り、庶民の生活に常に新しい車の価値を提案し続けてきた軽自動車は、現在、1998年の長さ(3.40m)・幅(1.48m)の規格の拡大を経て衝突安全性の向上が図られ、地域では欠かせない庶民の足として、また省スペースなクルマとして、車社会を支えている。その進化の勢いはいまだ衰えず、例えば、ハイブリッド車の燃費性能を脅かすほどの高効率ガソリンエンジンが話題となった2011年のダイハツのガソリン車「ミラ イース」(燃費30km/ℓ)の登場や、簡便な回生エネルギーシステムの搭載、電気自動車や天然ガス車への展開など、環境性能分野での多様化が進んでいる。

 なお、日本の軽乗用車の発展において「軽貨物車」が果たした役割も小さくない。「スバル360」発売当時も、庶民の生活に最も浸透していたのは軽三輪トラックの「ミゼット」や「K360」であり、その四輪化を担ったのは軽四輪バンや軽四輪トラックなどである。こうした商業分野での軽自動車の浸透が、軽乗用車の浸透、日本のモータリゼーションの背景にあったことも忘れてはならないであろう。

(4)海を越えた挑戦

 現在、日本の軽自動車メーカーのクルマ作りの手法は、新興国におけるクルマ作りへと生かされている。例えばスズキは、1974年にはインドネシアに部品生産の合弁会社を設立し(1976年生産開始)、1975年にはパキスタンで「ジムニー」の組立てを開始し、1982年にはインドでの四輪車合弁生産契約に至っている(1983年生産開始)。自動車メーカーの多くが北米市場などへの展開を目指す中、スズキは、新興国における小型自動車市場の拡大発展を早くから見込んでこれらの国々に進出し、特にインド市場におけるシェアは一時6割を超え、最近(2013年上期)でも40.5%という大きなシェアを維持している。こうした高いシェアの背景には、日本国内向けの「アルト」をベースに、排気量やサイズを現地の状況に合わせてアレンジした「マルチ800」のヒットなどがある。

 このように各地域の経済状況やインフラ整備状況などに合わせたミニマムパッケージを設定し、その中で価値の最大化を図り市場へ提案していくという日本の軽自動車のクルマ作りが、日本のみならず世界へ新しい価値を送り出している。

 

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