公益社団法人発明協会

高度経済成長期

ヤマハ音楽教室

概要

 第二次世界大戦における敗戦の後、日本の音楽教育の在り方は、再考のときを迎えていた。国家の方針に従い、政治的な色彩が極めて強かった戦時中の国民音楽教育は、終戦と共に時の彼方へ消え去った。これからの音楽教育の在り方はかくあるべきか、音楽家や音楽大学など、様々な主体が加わって、音楽教育についての活発な議論が繰り広げられた。

 こうした時代背景の中で、1954年4月、日本楽器製造(現 ヤマハ(1987年に社名変更)、以下「ヤマハ」と呼ぶ)東京支店の地下に、ヤマハ音楽教室の前身となる「実験教室」が立ち上がった。それまで、音楽大学などが開講していた音楽教室は、幼少期からの継続的学習を通じて専門家を育成することを主眼に置いていた。これに対してヤマハは、専門家を育成するためではなく、純粋に音楽を楽しむことのできる人を育てるための教育システムを目指し、音楽教室を開講した。生徒数150名からスタートした「実験教室」は、1950年に就任した川上源一社長の強いリーダーシップの下、急速に規模を拡大し、1956年に「オルガン教室」に、1959年に「ヤマハ音楽教室」へと名称を改めつつ、1963年には、生徒数20万、会場数4900、講師2400名を数える一大組織へと成長を遂げた1。ヤマハ音楽教室は、楽器の潜在需要層の育成や新製品の認知促進の場ともなっており、ヤマハグループのビジネスモデルを考える上でも大変重要な存在となっている2

 ヤマハ音楽教室は、その設立当初より、①総合音楽教育、② 適期教育、③ グループレッスンの3つの考え方を柱として、無理なく音楽を楽しむことのできる教育システムを追求してきた3。次節では、まず、ヤマハ音楽教室の開講に至る経緯・背景に触れる。次に、ヤマハ独自の音楽教育システムの確立に至るまでの苦労・工夫がどのようなものであったかについて概説し、同システムが革新的とみなされるポイントについて述べる。最後に、ヤマハ音楽教室の海外展開について現状を紹介し、同システムの影響の大きさを再確認する。

ヤマハ音楽教室(1970年頃)

ヤマハ音楽教室(1970年頃)

画像提供:ヤマハ


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