高度経済成長期
ヤマハ音楽教室
イノベーションに至る経緯
(1) 音楽教育再考の機運
戦時下の日本において、初等教育における音楽学習は、長い停滞の最中にあった。音楽教育は国家の強力な統制のもとに置かれており、そこに、音楽を自由に楽しもうとするマインドは見られなかった。終戦後、1951年に改訂された学習指導要領では、生徒の創造的表現活動を発達させる教科として音楽科が位置付けられたものの、現場の実践はほとんど発展せず、混乱が続いていた4。
1950年代、音楽の公教育の現場が自らの進むべき方向性を見いだせずにいる中で、「音楽教育とは一体どうあるべきなのか?」という根本的なテーマに関する議論は加熱の一途を辿った。こうした中で、個人アーティストや音楽大学の中には、学校教育以外の場で音楽教育を施す「音楽教室(Private Music Class)」を開講する者も現れてきた。大学機関付属の音楽教室開講の先駆者とされる桐朋学園は、1948年に「音楽の才能を伸ばすには早期教育が重要である」との信念から、「子どものための音楽教室」を開講しており、現在までに、小沢征爾や、堤剛、中村紘子らをはじめ高名な音楽家を輩出している5。音楽大学などによって開講された初期の音楽教室の多くは、優れた音楽家を幼少期から養成することを主目的に掲げたものであり、音楽大学受験の準備機関としての役割も担っていた6。
(2) ヤマハ音楽教室の挑戦
ヤマハ音楽教室が誕生する1年前の1953年、日本楽器社長の川上源一(以下「川上」と呼ぶ)は、約3か月に及ぶ欧米視察を実施した。この欧米視察の中で、川上は、欧米の人々が、音楽を身近なものと感じており、心から楽しんでいることに強い感銘を受けた7。日本の多くの人々は、音楽鑑賞を楽しむことはできても、自ら楽器を持って自由に表現を行うまでには至っていない。誰もが気軽に楽器を手に取り、演奏活動を楽しむことができるような社会を日本で実現するために、一体何ができるのか。川上は、音楽教育の新たな地平を自ら切り開くべく、音楽教室の開設に踏み切ったのであった8。
川上源一(就任当時)
画像提供:ヤマハ
1954年5月、ヤマハは東京支店に、後にヤマハ音楽教室と改称される「実験教室」を開設した。生徒数150人から始まったこの音楽教室の船出は、まさに困難の連続であった。以下では、ヤマハが「音楽を自由に楽しむことのできる人を育てる」という理想の実現を目指す中で直面した三つの問題を挙げ、それぞれの問題について、ヤマハがどのように克服してきたのかを述べる。
第一の問題は、理論と演奏を重視する従来型の教育システムからいかに脱却するか、ということであった。当時の音楽教室では、ピアノの個人レッスンを行い、生徒にバイエルという初心者向けの教則本を演奏させることが一般的であった。しかし、楽器に初めて触れる幼い子どもが、難解な楽譜を読み解き演奏を行うのは容易なことではなく、挫折してしまうことも多かった。そこで、ヤマハは「そもそも音楽の学習とは、楽譜を読み解き、楽器を弾けるようになることではないのだ」という発想の転換を行った。難しい楽譜の読み取りから学習をスタートさせるのではなく、もっと多様な面から子どもが音楽に触れるようにすることで、子どもが音楽を楽しみながら学習を続けていけるはずである。ヤマハは、このような信念の下、新たな音楽教育のメソッド開発に取り組んだのである9。
試行錯誤の末に、一つの教育手法が生まれた。それは、①まず聴き取ったメロディーを「そら」で歌えるようにし、②覚えた旋律を今度は「ドレミ」で歌い、③次にそれを弾いてみる、という順序で、子どもに音楽を教え込むものであった10。この教育手法は、洗練を重ねながら現在まで続けられており、「きく」「うたう」「ひく」「よむ」「つくる」の5つの要素を、生徒の発達段階や理解力に応じて組み合わせる、ヤマハ音楽教室独特の「適期教育」「総合音楽教育」として結実している11。
音楽教室(1957年)
画像提供:ヤマハ
また、ヤマハ音楽教室は、当時としては珍しいグループレッスン形式の授業を展開した。幼い子どもたちが共に学ぶ空間を作ったことによって、生徒や親同士のコミュニケーションも生まれた。ヤマハ音楽教室のグループレッスンの出現は、音楽の学習は難解なものであるという考え方がいまだに広く共有されていた時代において、音楽をより身近な存在と感じさせる機会となった12。
ヤマハ音楽教室を展開するに当たっての第二の問題は、会場をどのようにして確保するか、ということであった。初期の音楽教室はヤマハの特約楽器店に会場を設置する形式を採っていたが、特約楽器店が負担する初期投資が障害となり、広範な展開には至らなかった。そこで、1950年代末からは、新たな会場確保の手段として、特約楽器店と取引のある幼稚園を会場に用いるという手法が考案された。この手法においては、特約楽器店はヤマハから仕入れた楽器を幼稚園に販売するため、特約楽器店の初期投資が必要なくなる。また、会場を提供する幼稚園としても、毎月のレッスン料から楽器代金を分割払いできたため、午後の空き時間に教室を貸し出すだけで、楽器を手に入れることができるというメリットがあった。こうした事情から、新たな形式の音楽教室は急速に規模を拡大して全国に広まり、会場確保の問題は、ここに一定の解決を見るに至った13、14。
第三は、講師の資質をどう確保するのか、という問題であった。音楽を自由に楽しむことのできる人をつくる、という理想を掲げて始動したヤマハ音楽教室ではあったが、担当講師の多くは、音楽大学で従来どおりの専門家養成教育を受けた者たちであり、ヤマハの理念とそれを実現する手法を身に付けさせることが、大きな課題となっていた。
1961年のレッスン風景
画像提供:ヤマハ
現在のレッスン風景
画像提供:ヤマハ
これに対して、ヤマハはまず、1960年頃にテキストの改訂を行い、音楽教育に関する理念・教育手法の標準化を進めた。1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会が設立してからは、ヤマハ音楽教育システムの理念と指導法を学んだ講師を、独自のプログラムで育成してから全国の音楽教室へ派遣できるようになり、講師の質は一層高まった。講師の意識向上については、川上自らが講師の集まりにしばしば参加し、直接音楽普及の心を伝えるということもあった15。さらに、1967年からは「音楽能力検定(ヤマハグレード)」も実施した。ヤマハグレードは、初級者から指導者を目指す人々に至るまで、学習状況や目的に応じて、音楽を自ら作り表現し、楽しむ力を育むための能力検定制度である16。試験科目は①ソルフェージュ(メロディー視唱、弾き歌い)、②鍵盤実技(伴奏づけ、移調奏)、③筆記(楽典、コード進行法、和声、聴音)など多岐に渡るものとされた。この検定システムの導入によって、講師が身に付けるべき音楽的能力と素養の向上が担保されるようになった17。
以上述べてきたような努力が実を結び、1954年に生徒数150人でスタートしたヤマハ音楽教室は、1963年までに教室数4900、生徒数20万人の規模にまで急成長を遂げるに至った18。その軌跡を示したのが表1である。
表1 ヤマハ音楽教室の急成長
大阪万博での店舗と白石義明出典:檜山陸郎「子どもの世界に楽しい音楽を」日本楽器=ヤマハ編『よろこびをつくる』
(フジ・インターナショナル・コンサルタント出版部、1964年)104頁。
(3) ヤマハ音楽教室の広がり
1960年頃のテキスト改訂などを通じて、教育内容から指導法・理念に至るまで、ヤマハの音楽教育システムは、相当程度の標準化が達成されるに至った。国内での音楽教室事業の成功を受けて、1964年6月には、ロサンゼルス近郊のポモナ市に海外初のヤマハ音楽教室も開設された。
海外においても、ヤマハは、音楽教育システムの基本を変更しなかった。テキスト・指導法については、文化の違いなど特殊な事情を加味しながらも、日本と同様の内容・水準を志向した。講師についても、ヤマハ音楽振興会が講師の資格試験や指導研修、グレード試験を実施することにより、日本と同様に質の確保を行い、各国で教室事業の展開が図られた。
海外での音楽教室(初期)
画像提供:ヤマハ
海外での音楽教室(現在)
画像提供:ヤマハ
また、音楽教室の海外展開は、国内の事業にとっても、新たな学びを与える機会となった。日本よりも早くから楽器市場の飽和に直面していた米国市場では、音楽教室を販売活動に積極的に利用するマーケティング手法が1970年代に確立されており、その手法の一部は、その後、日本の音楽教室へも逆輸入された19。
ヤマハの音楽教室は今や世界中に広がっており、表2に示したように、現在では世界40以上の国と地域で、約65万人の子どもたちが学んでいる。ヤマハ音楽教室を卒業した生徒数は、全世界で500万人を超え、上原ひろみ、上原彩子、大島ミチル、三ツ橋敬子、横山幸雄などの優れた音楽家も輩出している20。
音楽教室ビジネスの成功によって、ヤマハはただ製品を売るだけではなく、幼児や子どもに直接音楽の楽しさを伝え、ヤマハ製品を知り、使ってもらう機会を得ることができた。ヤマハ音楽教室の成功の陰には、特約店網をいかした会場の確保や、共通テキスト・共通資格の導入による教育の質的安定、適期教育・グループレッスンなどの革新的アイデア、そして、何よりも「音楽を楽しむことのできる人を育てる」という理念の貫徹があった。ヤマハにおける音楽教室は、ピアノ、エレクトーンなどの鍵盤楽器以外にも、管楽器、弦打楽器、電子楽器など多種の楽器についても展開されており、ヤマハの経営全体にとっても、音楽教室の果たす意義は更に大きなものとなっている。
表2 ヤマハ音楽教室の国際展開
出典:趙命来「サービス企業の国際化プロセス」香川大学経済論叢83巻4号(2011年)255頁。
(本文中の記載について)
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