高度経済成長期
公文式教育法
イノベーションに至る経緯
(1) 公文式教育法の主な特徴
公文式の特徴は、大きく分けて、①自学自習、②学習内容の絞り込み、③生徒の能力・進度に合わせた個人別教育、という3点から説明することができる。
①自学自習
公文式では、学習内容によって、学校での集団学習を行う方が効果的なケースと、正課外での自学自習を行う方が効果的なケースがあり得ると考えられている。創始者・公文は、特に、全ての学習の基盤をなす「読み・書き・計算」の能力については、習得までの努力量に大きな個人差が存在するため、正課外教育によって生徒一人一人に合ったペースで学習することが効果的だと考えた2。そのため、こうした基礎力の形成に特化した自学自習の場として、公文式の教室を展開したのである。
公文式は自学自習を特徴とするが、もちろん指導者は存在する。しかし、指導者は教材内容の全てを教えているのではなく、自学自習ではどうしても理解できないというときなどには、懇切丁寧な指導を行っている3。また、指導者は、常に学習者の理解状況を確認しながら、教材の進行方針も決定している4。例えば、同じ100点をとったとしても、公文式の定める標準完成時間よりも著しく時間がかかった場合には、指導者の判断で再度復習させることもある5。生徒に最適な教育をアレンジする学習指導者の経験知と、その組織的共有については、経営学者からも高く評価されている6。
②学習内容の絞り込み
公文式では、応用的な学習内容に関してはあえて削除することにより、何よりもまず、確固たる基礎力を養成することを目指している。例えば、数学・算数においては、代数計算の学習に特化した教材構成となっており、文章題の問題などは余り目立たない7。計算力や語彙力のような、その後の学習の基盤となる能力を早期に形成することによって、他の学習範囲ひいては人間性についても好影響が生まれるというのが、公文式の基本的な考え方となっている8、9。
③生徒の能力・進度に合わせた個人別教育
公文式では、生徒の能力・進度に適合した教材セットを与えることを心がけている。公文式の教材は、各科目について数千枚のプリントから構成されており、既定の順序で取り組むことによって、幼児向けのやさしい内容から大学教養レベルの内容まで、無理なく徐々に学習を進めていけるように工夫されている10。生徒は学年にとらわれずに、自らの能力の可能性を最大限まで発揮することが求められており11、12、小学生の内に微積分までを修了することが、一つの目標とされている13。各生徒に最も適合的なレベルの教材を見定めて提供し14、100点解答の経験を重ねながら高度な学習へと進んでいけるよう取り計らうことにより、生徒はやる気を失うことなく、楽しく勉強に取り組むことができるのである15。
公文式の教材は、教育現場の声を基に絶えず改良が重ねられている。創始者・公文のつくった算数・数学用教材800枚余りは、現在では5520枚(2011年7月時点)の教材として再構成されており、より子供たちが取り組みやすい内容・構成へと常に更新を重ねている16。
以上は、公文式のエッセンスをごく簡潔に述べたものである。現在、公文式の教室における実際の学習は、図2のようなプロセスで進められており、基本的に世界中の教室で共通している17。
図2 公文式の学習の流れ
出典:公文式ホームページ「なるほどKUMON 仕組み」3.教室< http://www.kumon.ne.jp/shikumi/4/3_kyoushitsu/index.html?lid=1>(2014年3月28日アクセス)を参考に作成
(2) 公文式教育法の原点
KUMONの創始者・公文が、下知小学校(現・昭和小学校)の4年生に進級したある日のことである。担任教師の方針で、算数に関しては自学自習を基本とし、行き詰った時だけ教師に質問する、という授業形式が採られることになった。生徒たちの学習状況は、教室の後ろに張り出された一覧表で確認できるようになっており、公文をはじめ、生徒たちは、達成感を持ちながら競い合って勉強していた。この学習法は、やがて中止されてしまったものの、公文は少年時代のこの経験を通じて、自学自習による学習の面白さを知ることとなった18。
小学校卒業後に入学した土佐中学校は、生徒による自学自習を重視する教育方針を打ち出しており、公文は再び自学自習による学習に浸かることになった。土佐中学校では、生徒の学習状況に応じて、どんどん先へ学習を進めて行かせるため、主要な教科に関しては、学年相当よりも一学年以上先を進むことも稀ではなかった。公文は、土佐中学校での自学自習の経験を通じて、どんな科目であれ、下手に教師に全てを教わるよりも、自分で勉強した方が面白いし効率的であると考えるようになっていった19。
小学校と中学校での経験は、公文に、自学自習を軸とした学習法の有効性を実感させるに足るものであった。やがて、大学を卒業して中学・高校教師となった公文は、今度は自分なりの学習法を、担当の生徒たちに伝えたいと考えるようになった20。簡単な内容に関しては逐一説明せず、生徒の学習状況に応じて先に進ませ、解説が必要な箇所が生じた際には懇切丁寧な指導を行うという公文の授業は、生徒からも好評を博し、公文は自らの教育理念に自信を深めていった21。
学年という枠にとらわれず、生徒の理解状況に応じて学習を先に進めていく公文の教育法は、時に詰め込み教育と揶揄されることもあったという。しかし、公文は子供の学習の可能性の芽を潰してはならないとの思いから、独特の教育方法を継続し、更なる学習を希望する生徒については自宅に招いての指導も行った22。公文が自宅で開いた英語のクラスには、100人ほどの少年たちが集まることもあり、公文の考える教育法をより自由に実践する機会ともなっていた23。
(3) 公文式教室の誕生
1954年の初夏のことである。公文は、小学2年生の長男の算数の成績が振るわないことを、妻から相談された。それまでの数学教師としての経験を通じて、公文は、基礎的な計算能力の不足のために、数学を苦手にしている生徒がいかに多いかを痛感していた。そこで公文は、計算力の養成に目的を絞って、その他の要素を極力除外した自学自習用教材を、息子のために作成したのであった24。
息子の家庭教育を始めるに当たり、公文は、①毎日30分間の勉強時間を持つこと、②小学校の成績向上を目的とせず、大学の入学試験を念頭に置くこと、③途中で投げ出すことなく、いつまでも続けること、④一日分の問題を夕食前に自習し、夜には採点してもらうこと、という4つの決まりを定めた25。そして、ルーズリーフに自ら問題を作成し、毎日一枚を息子に与えたのである。公文家の家庭教育においては、自発的に学んでいく姿勢を息子に備えさせることが重視され、自学自習の効用を最大限に引き出すことが目指された26。
公文の教育成果は間もなく如実に表れ、長男の成績はみるみるうちに向上した。このことは瞬く間に近所の評判になり、公文に子供の学習を見てもらいたいという声が上がった。教員時代には生徒たちを自宅に招いて面倒を見ることが多かったこともあり、このときも公文は、自宅を開放して近所の子供たちの算数教室を開設したのであった。1955年のことである。これは後に、公文式の第1号教室と呼ばれた27。
草創期の教室(右側は創始者の公文公)
画像提供:日本公文教育研究会
(4) 公文式教室の全国的普及 28
公文家の家庭教育をきっかけに始まった公文式の第1号教室は、半年で約10人が集まり、期待通りの成果を挙げた29。これにより、公文式の有効性に自信を深めた公文は、1958年6月までに、教え子の力も借りながら、大阪市東淀川区に3つの教室を開設した。これらの教室も順調な成果を挙げ、公文の自信はまさに確信へと変わっていった30。
1958年7月、公文は公文式の全国展開を決意し、事務所を構えた31。その後の公文式の普及スピードは驚異的なものであった。1958年中に13教室・生徒数約300名32となった公文式の教室は、1961年には80教室・生徒数2000名を超え33、1963年には250教室・生徒数3000名に到達した34。
全国展開に当たっては主に、①会場の確保、②指導者教育の徹底、③保護者への理解促進、の3点が課題となった。
第一に、会場の確保について、発足当初は、公文が幼稚園や集会所などの使用権を確保し、そこへ自身の高校の教え子を派遣するという方式をとった。しかし、組織規模が大きくなるにつれて、この方式では無理が出てきた。そのため、教室を開設し指導者となってくれる人を全国から募る、フランチャイズ方式に移行していった35。
第二に、指導者教育については、まず、1960年に指導者向けの雑誌『山彦』を発行し、教育理念や教育方法の理解の徹底に努めた36。また、1963年には、指導者研修会を定期的に行い、指導者の資質の安定化を目指した37。公文自身も、毎日のように教室や事務所を訪ねてまわり、教育法の有効性を伝えた38。
第三に、保護者への理解促進について、発足当初は、教室の開設にあたって近所の子供の親をチラシで集め、父母懇談会を盛んに行った39。しかし、学校の教科書とは全く異なる教材を用いる公文式への理解を得るのは、並大抵の苦労ではなかった。公文式教室の普及が進むにつれ、口コミなどを通じて公文式の認知・理解は徐々に広がっていったが、何よりも、1974年に廣済堂から出版された『公文式算数の秘密』の反響が契機となり、公文式に対する世間の理解は大いに進展した40。
(5) 世界にひろがるKUMON
1974年ニューヨークに、公文式初の海外教室が開設された。海外事業は当初、現地の日本人子弟に対する教育サービスを主業としていたが、現地で公文式学習者の優秀さが伝えられるようになると、次第に、現地指導者による現地人向け教室も拡充されていった41、42。
「ぼくは最初から、公文式数学を世界に広めたいという夢は持っていました。数学というものは、いわば世界の共通語ですから、国際的な性格を持っています。シュバイツァー博士はアフリカに医学をもって貢献したが、ぼくは数学をアフリカ大陸に持ち込もう。そしてアフリカのランバレネでシュバイツァー博士と会って握手をしたいものだ、と思っていたのです43。」
公文の大志は遂に国境を越えた。もともと学年にとらわれず、確固たる基礎力の養成を目指した公文式だからこそ、どこの国でも普遍的に成果を上げることができたのであろう。現在では様々な国に現地法人と必要なサポート体制が敷かれ、日本の教材・指導者同様の品質が提供できるようになっている44。1988年に8万人だった海外の生徒数は45、言語学習教育の導入などもあって更に増加しており、2013年には286万人となっている46。公文式教育法は、日本が世界に誇る革新的な教育システムといって、差し支えないだろう。
各国の教室風景:オーストラリア
画像提供:日本公文教育研究会
ブラジル
画像提供:日本公文教育研究会
インドネシア
画像提供:日本公文教育研究会
(本文中の記載について)
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