高度経済成長期
人工皮革
イノベーションに至る経緯
(1)クラリーノ8(クラレ)
戦後、日本初の純国産合成繊維であるビニロンの工業化及び事業化に成功したクラレは、1963年の中国へのプラント輸出を当該事業の一つの区切りと捉え、「ポストビニロン」という課題に向き合うこととなった。この当時の繊維業界は不況下にあり、ポストビニロンは急務の課題であった。そのため、クラレ研究開発本部は開発体制の集中化を進めて、開発効率を上げるために、開発テーマを将来性が見込まれていたエチレンVAC共重合ゴムと人工皮革に焦点を当て、事業化を進めていくこととなった。また、クラレではこれ以前の1961年頃から合成繊維の研究開発に取り掛かっていた。この開発の一環として、研究開発本部では、研究対象として共重合ポリマーやポリマーブレンドを取り上げており、2種類のポリマーを混ぜ合わせる混合溶融紡糸技術を用いて、新たな高機能繊維を開発しようと試みていた。しかし、この研究開発は難航する。例えば、ナイロンの弾性率を上げるために、ナイロンとポリプロピレンを混合溶融紡糸すると、両者の長所を持つものの、同時に短所も持った繊維ができてしまうなど失敗が続いていた。こうした問題を克服するきっかけとなったのは、NCF(ナイロン・コーテッド・ファブリック:ナイロンでコーティングされた織布)からヒントを得た研究開発スタッフの「遊び心」であった。その発想とは、混合紡糸した後に一方の成分を抜いたらどうなるか、つまり「ナイロンを溶かして織布にコーティングすることにより合成皮革になるのであれば、ナイロンとポリプロピレンの混合紡糸繊維からナイロンだけを溶出凝固させたらどうなるだろうか」というものであった。そこで、混合紡糸繊維から一成分を溶解除去したところ、多孔繊維や極細繊維が得られた。さらに、混合紡糸繊維から不織布を作り、一成分を溶出させたところ、天然皮革のような風合いを持つ素材ができたのである。
当時、日本では天然皮革の需要の3分の2以上を輸入に依存しており、特に靴の甲に用いられる牛皮は、その95%近くを輸入に頼っていた。しかし、天然皮革は食肉生産の副産物であり、そのため需要の変動は食肉需要に大きく左右される。また、牛の疾病や干ばつにより供給も不安定であり、その結果、価格も極めて変動的であった。その一方で、日本における天然皮革の需要は、1960年から1969年の間に2倍強に増大し、市場の拡大が続いていた。このように人工皮革の開発の背景には、不安定な供給状態と急速な需要増から、天然皮革に代替する安定供給が可能で、かつ、優れた機能を持つ素材の開発が要請されていた、ということがあった9。
その後、研究開発スタッフは用途を靴に絞る。靴用途の場合、強度の追求が特に求められるが、あえて最も難しいものから作り、高いハードルを設定したことにより、後の高度な技術の蓄積が可能になった。研究開発スタッフは、既に市場に存在していた塩ビレザーや合成皮革のように天然皮革の外観だけを似せるのではなく、その構造自体も天然皮革の優位に立つ素材を開発しようと試みたのである。
試作品の用途を靴に絞ったため、開発スタッフはそれに見合うだけの強度の追求に徹底的に取り組んでいく。強度を求めて繊維が立体的に絡み合う三次元不織布構造を作るために、研究開発スタッフは機械メーカーを訪れて、試験生産を幾度となく繰り返した。着用テストでは、靴を履いた時に屈曲する部分がひび割れてしまうなどの問題点も生じたため、研究開発スタッフは原因を特定するとともに、繊維にとって最も取り扱いやすく、溶出除去しやすいナイロンとポリスチレンを組み合わせ、さらにバインダーに一番屈曲性のよいポリウレタン樹脂を用いることにした。ナイロンの特殊繊維の不織布にポリウレタンを含ませることで、水中で凝固させてスポンジ化し、その後にポリスチレンを抽出除去するという、クラリーノの製造原理が生まれたのである。
その後、新商品の名を「クラリーノ」と名付けて、1966年に岡山工場内に生産工場を完成させ、操業を開始するものの、間もなく大きな課題に直面することになる。靴にできた「星割れ」が原因で、一日に数百足のペースで靴が返品されたのである。当初は屈曲疲労が原因かと思われたが、テスト生産段階で耐屈曲性の問題は既にクリアされており、複合材料商品であるがゆえの難しさから、容易には原因がわからず、10万足の流通在庫を回収することとなった。その後、研究開発メンバーが懸命に原因追究に努めたところ、原因は汗であることが判明した。日本人のかく汗のうち、アルカリ性の汗によりウレタン樹脂が劣化した結果、「星割れ」が発生したのであった。この一連の問題を通して、クラレは様々な角度から技術と性能、品質の見直しを行った。そして、紳士靴からランドセル、運動靴、ベルトなどの各種分野に用途を広げ、欧米などへの海外輸出を含めて順調に販売を伸ばしていくこととなる。その品質はファッション業界においても高く評価され、クラレは人工皮革のトップメーカーとしての体制を確立させていく。生産能力も1973年には750万㎡/年、1985年には900万㎡/年、1990年には1000万㎡/年と順調に伸ばし、世界のトップブランドとしての地位を確立した10。
(2)エクセーヌ(東レ)
1950年代半ば、東レは合成皮革市場の動向に対応して、ナイロンコーティング技術を開発し、1960年から各種織物を基布としてナイロン樹脂を塗布した製品を販売していた11。しかし、その後、合成皮革メーカーが急増し競争が激化したため、更に質の高い表革タイプの製品を目指して、天然皮革の構造に類似した通気性のある新素材の開発を進め、1963年からは他社との共同研究を行う一方、製靴業者とタイアップして商品開発を進めていた。デュポン社が靴甲革専用新素材である「コルファム」を発表したのに刺激を受けたこともあり、1965年から新素材の商標を「ハイテラック」と定めて、同社内に事業部を設置し、1967年には月産3万mの工場も完成させた。しかしながら、製靴分野の商品化や販路の開拓が進まず、事業見直しの再検討を余儀なくされることとなり、その結果、1970年にはハイテラック事業を終息させることとなった。ただし、この事業で培った技術は後のエクセーヌにいかされることとなる。
一方、当時の東レ社内では人工皮革の研究と並行して、通常の繊維の10分の1の超極細繊維を作る複合紡糸法の開発が進められていた12。超極細繊維については、成功例のなさ、製糸の困難さ、コスト高、有望な用途のなさなどが指摘されていたが、開発を担った東レの岡本三宜は、有用性を証明すべく技術を確立させるとともに、考えられる全ての用途先(柔軟ハイタッチ織物、絹ライク・羊毛ライク・毛皮ライクの各織物)を探し求めた13。その中では人工皮革を研究していたグループへの接触もあり、モデルサンプルながらも人工皮革としての基本が次第にできあがりつつあった。しかし、当時の靴革用の人工皮革市場は不況の真最中であり、例外ではなかった東レも、他社との合弁の靴革用の人工皮革製造販売会社が行き詰ったため、これを買収して、2年間の期限と10億円の費用で再建を図ることとなった。この再建のために、副社長統括の組織である第二事業部が設けられ、社内他部門から引き抜かれたメンバーで構成される3つのグループが組織された。その中の一つは、超極細繊維を研究していた中央研究所からの移籍組で構成されており、ここでは超極細繊維をベースとして、靴甲用人工皮革よりも東レが得意とする衣料や、インテリア分野に向くスエード調の人工皮革に発想を切り替えての研究が進められた。半年程度でブレークスルー技術が次々と生まれ、サンプルが完成すると、このサンプルに対し、社内外から好評が得られ、上層部から「半年以内で工業化技術を完成させよ」との指示が入り、優秀な技術者が総動員された。その際、繊維を高級なシート状にするのには、ミクロンオーダーの強靭なフェルト用の針が必要であったが、これは針メーカーの全面的な協力があって可能となった。
東レはこれを市販するにあたって、皮革衣料の市場が確立している欧米のファッション界を対象として、高級ファッション素材としてのイメージを確立することが必要だと感じる。そして、1970年、パリ・オートクチュール・コレクションに有名デザイナーによる作品を発表するとともに、宣伝を行ったところ、大きな反響を呼び、米国では「アダムとイブのイチジクの葉以来の最も画期的な衣料素材」などと称された。さらには、同年に米国で熱意のあるバイヤーが現われ、エクセーヌの品質の高さを見抜いたデザイナーの採択が契機となり、急速な拡大が始まった。
1971年には商標を「エクセーヌ」と定め、同年に月産3万mの設備を完成させ、操業を開始するとともに、エクセーヌ部を設置し販売と生産の推進を図ることとした。エクセーヌの売上げは急速に伸び、合成繊維の輸出が次第に困難になる中、世界市場で売上げを伸ばし続けていくことになる。高い評価を受けたこの人工皮革は、以来欧米でステータスシンボルと言われる素材として定着することとなった。
幅広い用途に用いられている「エクセーヌ」
画像提供:東レ