公益社団法人発明協会

高度経済成長期

トランジスタラジオ

イノベーションに至る経緯

 前章でも述べたように、本稿で解説する「トランジスタラジオ」は、 ソニーのグローバル企業の歩みにおいて重要な役割を果たした。しかしながら、その背景には、井深のほか、ソニーの社員たちの挑戦がある。本章においては、ソニーの社史である『GENRYU 源流』や相田洋『電子立国日本の自叙伝上巻』などの文献を基に、主にソニーのトランジスタラジオ「TR-55」の開発、市場化に至る経緯を紹介していきたい。そして、次章において技術の概要に関して紹介する。

(1) 井深大とトランジスタの出会い

 1945年、井深は東京通信研究所を創設し、ラジオの修理改造、電気炊飯器の製造などを手掛ける事業を開始した。翌1946年には、盛田や岩間和夫(以下「岩間」と呼ぶ)などの参加を得て、東京通信工業として正式に事業をスタートした。当時、真空管電圧計・ピックアップなどの特注品や自主商品を手掛けていたソニーに転機が訪れる。仕事の関係で出入りしていたNHKの放送会館で3見かけたテープレコーダーがヒントとなり、録音機と録音テープの開発に乗り出したのである。試行錯誤の連続ではあったが、日本初のG型テープレコーダーに始まり、視聴覚教育で販路を拡大したH型、P型など、テープレコーダー事業が何とか軌道に乗り始め、ソニーは次なる事業の柱の模索を始めた。

 そのような中で、井深は米国の雑誌でベル研究所によるトランジスタの発明に関するニュースを読んだ。1948年のことであった。当初、井深は少年時代に使用していた鉱石ラジオを思い浮かべ、将来性はないと判断した。しかしながら、1952年に井深が米国を視察した際、転機が訪れた。

 1952年、井深は録音機の販路開拓のため、米国に出張に来ていた。ある日、米国の友人が井深を訪ね、WE社のトランジスタの技術の特許に関する話を持ちかけてきた。WE社はベル研究所の親会社であり、トランジスタの製造技術に関する特許を保有していた。WE社にライセンス料を払えば、特許の使用を許されたのである。しかし、WE社が認めたのは製造技術の使用のみであり、製造ノウハウについては一切公開されないとのことであった。

 当時、ソニーは急速に成長を遂げているベンチャー企業であり、レコーダーの開発のため、多くの優秀な技術者を雇っていた。井深はこうした優秀な技術者を有効に生かす挑戦的な課題はないかと苦慮していた。技術開発の困難性と技術の潜在性という観点では、トランジスタは魅力的な製品であった。そのような考えの下、井深はトランジスタ事業への参入を決意した。

(2) ライセンス契約の締結と技術の学習―開発を支えた「岩間レポート」

 当時、WE社はトランジスタに関する基本特許と製造特許の使用料を2万5000ドルに設定していた。WE社からの特許の使用許可は、井深の米国での案内人である山田志道の尽力により1953年には下りていたものの、通産省からの外貨の使用許可が下りず、調印できない状況にあった。しかし、1953年末になり、ようやくソニーに外貨使用の許可が下りたのである。こうして、1954年、ソニーはトランジスタに関する基本特許を使用することができるようになり、本格的にトランジスタの製造・開発を進めていった。

 井深が開発のターゲットとして定めたのは、トランジスタそのものではなく、トランジスタラジオ、つまり携帯性に優れるポケットラジオであった。しかし、当時のトランジスタには、ラジオ放送の周波帯より低い可聴周波数帯域にしか使うことができないという技術的な限界があった。そのため、トランジスタを用いた民生用電子機器は補聴器などに限られていた。ラジオへのトランジスタの使用のためには更なる技術革新が必要であった。

 井深の命を受け、トランジスタの製造・開発を担ったのが、技術担当取締役の岩間であった。岩間は、5人の優秀な技術者を集め、トランジスタ開発チームを結成し、研究開発活動をスタートさせた。そして、トランジスタに関する情報の収集のために1954年1月、米国へ視察に向かった。前述のように、WE社から製造特許に関するライセンスは得たが、製造装置などの資料はもらえなかった。そのため、生産に使用する装置は自社で開発する必要があった。岩間は装置を開発するために、米国半導体企業を視察し、情報を収集しなければならなかった。WE社を始め、米国企業は好意的に迎えてくれたが、ノート記録及び写真撮影は禁じられていた。そのため、全て頭に刻みつけ、ホテルに帰ってからレポートに書きとめ、東京本社へ送っていた。こうした「岩間レポート」による情報収集の甲斐もあり、岩間が帰国する1週間前に、ソニーはトランジスタの開発に成功した。

(3) 幻の「TR-52」

 こうして開発に成功したトランジスタを基に、1954年の6月頃には、トランジスタラジオの試作を開始することとなる。10月末には、試作品が完成し、東京・日本橋の三越デパートにてゲルマニウム時計、補聴器などと共に、ゲルマニウムトランジスタラジオを展示した。

 当時、既にラジオの世帯普及率は74%にまで達していた。このため、トランジスタラジオは、真空管ラジオでは困難なほど小型なポータブルラジオとして開発する必要があった。そこで、より小型の部品を開発するべく、井深たちは部品サプライヤーを説得して回ることとなる。例えば、真空管ラジオ用の小型バリアブル・コンデンサーを製造していた「三美電機」に井深と樋口晃が向い、「もっと小型で、性能が良いものにしてくれないか4」と頼んだりした。

 そのような最中、米国リージェンシー社が世界初のトランジスタラジオを発表し、クリスマスシーズンを目指して販売を開始したというニュースが届いた。1954年12月のことであった。このニュースに、世界初を目指していたソニーの社員たちは落胆した。しかしながら開発を継続し、1955年1月に図1に示すようなトランジスタラジオ「TR-52」の試作に成功した。

図1 幻のラジオ「TR-52」

図1 幻のラジオ「TR-52」

画像提供:ソニー

 また、1955年3月には、東京通信工業製品全てに「SONY」のマークを入れることを決断した。「SONY」という商標は、「SOUND(音)」の語源となったラテン語の「SONUS」と英語で小さい坊やを表す「SONNY」をかけたものである。

 「SONY」のマークを付けて、世に送り出そうとした「TR-52」であったが、思わぬ事件により、発売を断念せざるを得なくなった。夏季の気温上昇により、「TR-52」表面の白い格子状のプラスチックが反り返るという品質不良が発生したのである。この教訓を奇貨として、ソニーは本格的な材料研究に着手し、外観もよく、耐久性の高い素材の実現へ努力を重ねていった。こうして、1955年8月、装いも新たに、図2に示すような日本発のトランジスタラジオ「TR-55」が市場へ投入されたのである。

図2 日本初のトランジスタラジオ「TR-55」

図2 日本初のトランジスタラジオ「TR-55」

画像提供:ソニー

(4) 「ポケッタブルラジオ」の成功

 「TR-55」の市場投入時、真空管ラジオの普及率は既に74%に達していた。しかし、この数字は世帯ベースのものであり、井深と盛田は、個人ベースではまだまだ市場拡大の潜在性はあると考えていた。彼らの洞察通り、「TR-55」は携帯性に優れる個人用ラジオとして、注目を浴びた。この成功により、ラジオは家族がそろって聴く家具から、個人が聴きたい時に聴きたい場所で聴くパーソナルな道具へ変化していったのである。そして、自社でトランジスタから製造し、その石を使ってラジオを作ったのは、ソニーが世界最初であった5

 「TR-55」の成功の後も、彼らはラジオの小型化を追求していった。その結果生まれたのが、1957年に発売された「TR-63」である。「TR-63」は、図3に示すように、当時世界最小のトランジスタラジオで、価格は1万3800円、当時のサラリーマンの1カ月分の平均サラリーに相当する額であった6。当時、米国で小型ラジオは「ポケットラジオ」と呼ばれていたが、「TR-63」は一段と小型であることを強調するために、「ポケッタブルラジオ」というキャッチコピーで販売された。

 この「TR-63」は、トランジスタラジオの本格的な米国輸出の第一号機となった。輸出価格は、39.95ドルであった7。これは米国市場で大成功を収めた。1957年の末には品不足が発生し、日航機をチャーターして米国へ大量空輸しなければならないほどであった8。この「TR-63」の成功により、ソニーは、グローバル企業への歩みを進めていくことになった。

図3 世界最小のラジオ「TR-63」

図3 世界最小のラジオ「TR-63」

画像提供:ソニー


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