高度経済成長期
自脱型コンバインと田植機
イノベーションに至る経緯
戦後日も浅い1954年の農林省農業センサスによると、稲作労働時間は10a当たり186.6時間となっている。作業種別にみると、種子予措・育苗・田植えに37.55時間、稲刈り・脱穀に57.2時間と、この両作業だけで合計94.77時間、総労働時間の50.8%を占めている。
時間だけではない。かつての稲作、特に田植えと稲刈りは過酷労働の連続で、農家の人々が健康を害することが多かった。田植え・収穫作業の機械化は長年にわたる農家の夢で、これに応えようと、私財までつぎ込み発明に献身した人の数は無数に及ぶ。
(1)成苗に手こずった初期の田植機発明
田植機の誕生には長い前史がある。我が国の田植機の特許の第1号は1898年に宮崎県の河野平五郎が取得している。この特許1号から高度経済成長直前の1955年までに公告された田植機の特許・実用新案は192件。そのほとんどが苗代で30~50日間、葉数4~6枚まで育てた「成苗」(以下、成苗という)で、しかもその多くが泥を落とした「根洗い成苗」であった。田植機の発明家たちが苦労したのは、この成苗の扱いであった。
昔から“田植えの苗は成苗”というのが常識であった。手ごろな大きさということもあるが、成苗でないと多収が得られないとする説が農家だけでなく、学会でも通説だったからである。ところが成苗は大きさが不揃いで根がからみやすく、機械化には不向きである。その上、田植機にかけるまでに、苗代準備から苗取りまで多大の労力を要する。土ごと移植する方法も考えられたが、この場合にも問題は多く機械化にはほど遠い状況にあった。
この行き詰まりの壁を突破したのが、常識にとらわれない稚苗移植のアイデアであった。考案したのは、長野県農業試験場飯山雪害試験地の松田順次技師であった。最初は非常識と罵倒されたが、彼の考案した「室内育苗(箱育苗)法」が田植機の堅い扉を開かせた。もっとも松田もはじめから田植機を意識して育苗法を考案したわけではない。「雪深い飯山の農家にも世間なみの収量を」という彼の素朴な願いがこの大発明を生んだのである。
飯山地方では積雪のために苗代が適期につくれず、田植期が遅れることが減収の原因となっていた。その対策として考案されたのが、松田の室内育苗法である。松田はもともと養蚕研究者。その経験を生かし、30×60×3cmの稚蚕飼育用木箱に土をつめ、加温室内で苗を育てる育苗法を考案した。1955年のことである。彼はその後、移植作業を容易にするため、育苗箱に8mm間隔の仕切板を入れ、帯苗をつくるようにも工夫している。
もちろん木箱に厚播きでは、苗は葉数2~3枚程度までしか育たない。だが、そんな幼い苗(以下「稚苗」という)でも、適期に早植えさえすれば、意外にも多収になった。過去の稲作常識が真っ向から否定されたわけだが、その瞬間から稚苗移植は積雪地の農家だけでなく、全国の農家の注意をひく存在になった。後述する田植機の発明は、ここから一躍現実のものになっていった。
(2)普通型コンバインか、自脱型コンバインか
我が国の農機具の中でも、脱穀機は特に多くの発明家がその改良に献身した分野のひとつだろう。大正初期の足踏み脱穀機の登場以来、動力脱穀機から送込装置付きの自動脱穀機と、急速な発展を遂げてきた。
一方、稲刈機についても、大正末期から人力稲刈機がみられるが、戦後になると、動力式刈倒機や集束型刈取機が次々に開発された。刈取りや集束だけでなく結束も可能なバインダーの開発は1950年代後半から始まる。1960年代後半には高能率機が各社から次々販売され、農家にも好評を博していた。
刈取機と脱穀機を結合(コンバイン)させたのが、コンバインである。コンバインは、19世紀に米国で発明されて以来、世界的に長い稼働の歴史をもつ。我が国でも1950年後半に大規模機械化をめざす農林省によって先行導入されたが、定着しなかった。狭い農地、特に地盤軟弱な水田での走行に難があること、稲全体をこき胴に投入するため、穀粒破損が多く、さらに当時まだ広く利用されていた稲ワラも全損することが、その理由であった。
国産コンバインの開発については、二つの意見があった。ひとつは、先行する欧米由来の普通型コンバインを水稲向けに改良すべきという意見、もうひとつは、国産の自動脱穀機を基礎に、我が国独自のコンバインを新規に開発すべきとする意見である。前者は耐久性では問題が少ないが、構造上穀粒や稲ワラの損傷軽減に問題が残った。後者は穂だけをこき歯にかけるため穀粒やワラは傷めないが、構造が複雑で汎用性や耐久性に問題が多かった。開発担当者の間でも意見は分かれ、開発研究は並行して進められた。