公益社団法人発明協会

安定成長期

オンラインセキュリティシステム

イノベーションに至る経緯

 警備業の歴史は古代にまでさかのぼるとされるが、産業革命以降では1748年、ロンドンのボウ・ストリート地区の治安判事に就任したヘンリー・フィールディングの「私設警察隊」、そしてその発展型となった「ボウ・ストリート・ランナーズ」などが登場している。アメリカでは「セキュリティ産業の父」とも称されるアラン・ピンカートンの成功などが著名であり、それはシャーロック・ホームズの探偵小説にも登場する

 日本における初の株式会社としての警備会社であるセコムが設立されたのは1962年である。しかし、当時、治安に関しては欧米諸国に比して日本は良好とみなされていたため、立ち上がりは需要がなく厳しい環境が続いた。

 大きな転機は、1964年の東京オリンピックで、選手村警備にあたった活動が評価され、また1965年には東京オリンピックの組織委員会事務局次長であった村井順がALSOKを創設し、続く大規模イベントとなった1970年の大阪万博においても多くの警備を委ねられるところとなった。また、1965年4月から放映されたテレビドラマ「ザ・ガードマン」は1971年まで続く人気番組となり、「警備業」は一気に大衆にまでその存在を示すものとなった。

 

東京オリンピック選手村の警備

東京オリンピック選手村の警備

画像提供:セコム

 こうした状況の下で、1966年、セコムは日本初の機械警備システム「SPアラーム」を開発し商品化した。これは警備員の誰がやっても同じ品質のサービスを提供できるように、言い換えれば人間の資質、体調などにかかわらず所要の警備を確実に実施する体制構築を目指したものであった。なお、翌年にはALSOKも機械警備業務「総合ガードシステム」を開始している。

 当時セコムの警備サービスは常駐・巡回サービスと呼ばれる方式であり、これは警備を自社の社員が行うか外部に依頼するかの違いでしかなかった。この機械化に関してセコム創業者にしてこのSPアラーム開発の指揮を執った飯田亮は、次のように述べている。

 

「第一番目には、人間が行う方法というのは、毎日の状況によって質が変化し、不確定なところが出てきた。その日の人間の調子とか感情によって安全の質が左右されてしまったらどうなってしまうのだろう。何とかシステム化、確定化して、日本全国どこでも良質な安全が提供できないだろうか。

第二番目は、このまま続けていくとおそらく社員数は15万人ぐらいにはなってしまうのではないか。人間が行う方法というのは、契約先ごとに3人とか5人とか人手がかかるので、契約先がふえればふえるほど社員が必要になる。15万人をコントロールするということも非常に大変なことだが、我々の会社が15万人という大量の社員数を持つと言うことが社会的なコストとして適正であるかどうか」

 

 このSPアラームのシステムは次のようになっている。利用者のオフィスなどのドアや窓などにセンサーを取り付け、それらが開いたときに、通信回線を利用して電気信号を1カ所の管制センターに送信する。これを受けたセコムの管制員は数カ所に分散して緊急時用に待機している職員のうち最も近い者を現場に駆けつけさせるという仕組みである。この装置の開発のためセコムは、機械等の開発を外部に依存せず、自ら制作部門を設置して当たることにした。開発当初は誤作動が多く、警備員の駆けつけが頻繁に生じたが、機器の性能向上や使用者の経験の蓄積とともに誤作動は減少していった。

 

SPアラーム

SPアラーム

画像提供:セコム

最初のコントロールセンター

最初のコントロールセンター

画像提供:セコム

 販売方法についてもセコムは、欧米とは異なる方法を採用した。それはセンサーなどの機器を使用者に売却するのではなく、レンタル方式を採ったことである。このことは機械の償却とともに利益が増大することから顧客との長期契約が図られるとともに、そのメンテナンスを通じて様々な情報がセコム側に蓄積されることとなる。それは次のシステム開発に寄与することになった。この「トータルパッケージシステム」は、特に機器のレンタルと職員の駆けつけという点で、欧米のビジネスモデルとは大きく異なっている。欧米では機器売り切りが普遍的で、駆けつけは警察官ないし別途契約した警備会社が行うというものである。この日本独自の方法は、他国では実現しなかったシステムを開発することとなった。それは1カ所の管制センターが情報を集約し、それを機械によって瞬時に解釈し、分散した個所に緊急対処者を配備することで広域の事件に対し少人数で迅速に対応できる体制をとることができるようになったことである。そして、このシステムは、ネットワーク化の進展をもたらし契約件数の増大によって生産性を着実に高めるとともに、警備の質を維持する体制をも確立していったのである。

 1968年10月から東京、京都、函館そして名古屋と全国をまたにかけた連続銃殺人事件が発生した。犯人は、翌年4月、東京・千駄ヶ谷の専門学校に押し入ったところをSPアラームによる警報で駆けつけたセコムの警備員によって発見され、緊急警備態勢をしいていた警察官によって逮捕された。この事件によって機械警備への社会的認識、評価が高まり、警備業への信用も高くなっていった。

 こうして日本における警備業は、高度成長期後半以降急速に発展していったが、同時に次々に参入する業者の中には一部悪質なものも存在し、また警備員による窃盗、殺人といった不祥事、更にはスト決行の労使紛争において警備員の介入などが問題視され、その業務の社会的適格性について国会審議でも取り上げられていたのである。1972年、政府は「警備業法」(昭和47年法律117号)を制定し、健全な警備業への発展のため不適格な業者の排除に乗り出すとともに、警備業に対する監督を強化するところとなった。この時点における警備業への一般的な評価にはなお厳しいものも含まれていたのである。

 一方、1974年には、東京都心の三菱重工ビルが過激派によって爆破され、翌年1975年には沖縄本島の本部半島で海洋博覧会が開催されるなど、地域的な条件にかかわらず大がかりな警備需要に対応しうる専門的な警備能力の向上と、公権力を補完する警備機能の充実が一層求められる時代になってきた。

 1975年、セコムは世界初のコンピューターセキュリティシステムを開発した。それまでのオンラインセキュリティシステムでは、契約先のランプの点滅を管制員が常時監視し、異常があれば措置を取る体制であったが、新規のこのシステムでは異常発生と同時に管制卓のモニターに異常発生時刻、異常内容と契約先情報が自動的に表示されることが可能となっていった

 このシステムの飛躍的向上は、店舗、オフィス等との契約件数の増大をもたらし、さらに1981年には、これを基礎とした家庭向けの「ホームセキュリティ」サービスの誕生をも生むこととなった。

 1983年、改正警備業法(昭和57年法律67号)が施行された。警備業の有用性は浸透してきていたが、なお悪質な業者の存在や警備員の不祥事も存在していた。また、機械警備業務の特殊性に着目した法的規制がなかったことから、異常発報の際の判断や指令の不適切、即応体制の不備等のために被害の発生、拡大を防止できない事例が多発していた。82年改正法は、警備業の資格要件を厳密化するとともに、警備員の指導教育の充実を図りまた機械警備に関する監督強化も図られるところとなった

 そして、約20年後の2002年、警察白書は警備業について「犯罪に強い社会を構築するうえで不可欠の存在」と位置付けた上で、「国民の自主的防犯活動を補完又は代行する警備業及び防犯設備が果たす役割の拡大にかんがみ、これらの防犯システムが生活安全産業として国民のニーズに的確に応えることができるよう法整備も含め検討を行う」と記し、産業としての警備業の意義を明確化するとともにその健全な育成を図ることを強く打ち出すことになったのである。

 そして2003年、戦後最悪の厳しい犯罪情勢の下、内閣は犯罪対策関係閣僚会議を設け、「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」を取りまとめたが、その中でも「生活安全産業としての警備業の育成と活用」「事業者、施設管理者による自主警備の促進」等が打ち出されたのである。

 警備業の売上高は下図のような推移をたどっている。2007年には3兆5633億円にまで達し、リーマンショック後の減少はあったが2011年以降再び拡大局面へと転じている。

 

家庭向けサービスの成長

家庭向けサービスの成長

出典:経済産業省「長い成長の続く警備業、オリンピックの影響は如何に」(http://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/minikaisetsu/hitokoto_kako/20160302hitokoto.html)

 近年、警備業の業容も年々拡大しつつある。日本の警備業は外国にはない交通警備など発足当初から独自の市場を開発してきたが、時代の趨勢に即して機械警備の対象は拡大してきた。会社から工場、病院、学校、住宅、そして例えばALSOKによるATM管理や金融機関における現金運搬業務などの需要も拡大している。公的設備に対する警備も増大している。介護、医療、災害予防などへの貢献とともに街づくりにも寄与を果たしつつある。

 さらに、海外進出も活発化している。セコムは台湾、韓国、中国、タイ、マレーシア、シンガポールなど11の国と地域でセキュリティビジネスを展開しており、ALSOKもタイ、ベトナム、インド、中国、マレーシアに続き、2013年にはインドネシア、2014年にはミャンマーに進出した。人件費の高騰から日本企業が生産拠点などを他のアジア新興国に分散させる動きを背景に、アジア新興国における警備需要は今後ますます高まるものと予測されている。

 

現在のコントロールセンター

現在のコントロールセンター

画像提供:セコム


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