公益社団法人発明協会

高度経済成長期

柔構造建築

イノベーションに至る経緯

(1)柔剛論争

 1923年9月1日の関東大震災の翌年、「市街地建築物法」が制定され、すべての建物は高さが100尺、すなわち31m以下とされるようになった。

 法律が制定された年、土木学会誌に当時海軍省建築局長であった眞島による「耐震家屋構造の選択について1」と題する論文が掲載された。この論文は眞島が関東大震災の被害状況を調査することによりまとめたもので、鉄筋コンクリートのものが丸つぶれのものが多い中で、鉄骨構造のものについては破損しているものの全壊したものがないことに着目したものである。この結果、眞島は、耐震構造を考えるのであれば、「大伽藍やひょろひょろした五重塔が我が国では適切な教材」であるとし、「柱及び大梁は鉄骨架構として可撓能力を与え、外壁及び間仕切りは薄い鉄筋コンクリート又は鉄網モルタル吹付のような軽快なものとする構造」が有効であるとする「柔構造理論」を展開した2。これに対して、当時対象としていた構造物が低層であること、地震動の性質(卓越周期)も不明確で解析技術が未熟であったことを背景として、実用上は剛構造の方が適当であるとの判断から、東京帝国大学の佐野が「耐震構造上の諸説3」と題する論文を発表し、同じく「剛構造」の立場をとる武藤清(以下「武藤」と呼ぶ)4とともに反論したいわゆる「柔剛論争」が繰り広げられた。この論争は眞島の退役とともに沈静化し、「柔構造理論」はその効果を証明されることなく忘れ去られた5「柔構造理論」が現実のものとなるには、強震記録の蓄積と応答解析手法の進歩による建物への影響度の検証、階の重層化により無理なく長周期の構造にできる超高層のニーズ、強度・靭性が確保された鉄骨部材の生産、といった条件が揃う必要があったのである。

(2)耐震構造研究の進展

 1948年に発生した福井地震は、鉄筋コンクリート造の建造物が倒壊するという被害を起こした。我が国と同じように数度にわたり大地震を経験していた米国では、1930年代に地震の揺れを正確に捉える加速度計を備えた強震計が開発され、カリフォルニア州を中心に設置され、実地震の波形が記録できるようになっていた。戦後、この事実を知った武藤は、高橋竜太郎らとともに強震計(SMAC)を開発、全国に設置して観測を開始した。これにより、その後の地震を正確に記録することが可能となった6。さらに、武藤らはアナログ型耐震計算用コンピュータを研究室に設置し7、日米で得られた多くの観測データについて初めてコンピュータを用いた解析を開始した。その結果、地震は押し寄せる波のようなもので、下から入った波が一番上の階にぶつかって下に戻るときに、後から入ってくる波と一緒になり揺れを起こすものであり、高層建築物では地震波が上に登っていくうちに衰え、建物中に大きな破壊力が溜まらないことを計算により明らかにした8。そして、「配慮の行き届いたフレキシブルな超高層ビルほど地震には安全」で、「住宅のような低い建物は剛構造でつくる」という考えを固めた9

(3)高さ制限の撤廃と霞が関ビルの誕生

竣工当時の霞が関ビル

竣工当時の霞が関ビル

画像提供:三井不動産

 1950年代半ばから我が国は本格的に高度経済成長の時代に入った。国内総生産の上昇に伴い、オフィスビル需要が増大し、ビルの高さ制限撤廃が求められるようになった。

 1955年、日本建築学会「高層化研究委員会」は、技術面から高層化の可能性を検討した結果を公表し、「一般の市街地では、建築物の高層化をはかって土地を高度に利用し、またそれと関連して建築物の不燃化や共同化によって高層化を図ること、逆に都心部は公共空地や都市の機能を確保するために建築物の高さ、形態などを規制することは、今日の大都市における都市計画上の大きな課題となっている」とし、容積率制の導入を提言するとともに、高さ20階程度の建築物が技術的に可能であることを示した10

 技術的実現可能性が明らかとなったことから、1962年、当時の建設大臣河野一郎は高さ制限を撤廃する意向を明らかにし、翌1963年の改正建築基準法により容積地区制度が創設され、環状6号線以内の地域が容積制に移行した。

 霞が関ビル建設計画は、同じ場所にあった「東京倶楽部ビル」の建て替え計画に始まる。三井不動産は、当時の建築基準法に従い、31mに収まる9階建てのビルを計画したが、着工に先立ち、政府により金融引締めのために着工延期が勧告された11

 着工できない期間も、技術的可能性の検討は続けられ、新しいビルの階数は16階、24階、30階、32階と上方修正されていった。1963年に建築基準法が改正されると、事業主体である三井不動産は、始まったばかりの「特定特区」の申請を行い、指定を受けた。これにより、容積率は当初の710%から910%にとなり、最高部高さ156m、地下3階地上36階、塔屋3階という霞が関ビルの骨格が固まった(技術的課題については「4.発明技術開発の概要」参照)。

 霞が関ビルは、設計・監理を三井不動産、山下寿郎設計事務所、施工を鹿島建設・三井建設共同事業体として1965年に着工され、1968年に竣工した。

(4)超高層ビルによる効果

 我が国初の超高層ビルの誕生は、その後、浜松町の世界貿易センタービル、京王プラザホテル、新宿住友ビル、KDDIビル、新宿三井ビルディング等、次々と超高層ビルを誕生させ、我が国の都市景観を一変させた。

 容積率の設定によって超高層ビルの周辺には広々としたスペースが確保されることとなった。我が国で初めて噴水と緑のある広場を備えた霞が関ビルは市民やオフィスワーカーの共感を呼び、超高層ビルのモデルともなった。

 建設にあたって導入された工程管理システムは、我が国建設業の近代化をもたらし、その生産性を飛躍的に向上させた。また、超高層ビル建設の経験は、超高層ビルが林立する海外においても我が国建設業の海外市場参入を可能とするものとなった。我が国の建設業は世界有数の規模と技術力を有しながら、海外市場との接触の少なさから「ガラパゴス化」状態にあるともいわれていた。建設業の1960年代までの海外受注額(土木を含む)は500億円程度であったが、1970年代半ばからアジアを中心として本格化し、石油危機以降は中東産油国からの受注も増加した。さらに1980年代からは北米・欧州・大洋州での受注が急増し、1983年に初めて受注額が1兆円を超えた12。現在、受注額で1~2位を占めるシンガポール、米国での受注は、商業ビル、公益施設、住宅等の建築物がその7割を占めている13


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