公益社団法人発明協会

戦後復興期

魚群探知機

イノベーションに至る経緯

 古野電気の創業者古野清孝(以下「清孝」と呼ぶ)は1920年、11人兄弟の長男として長崎県南有馬町に生まれた。1937年、16歳になった清孝は島原中学を4年で卒業し「指定ラジオ相談所主任技術者認定試験」を受験、合格した。同年9月には両親からの資金援助を元手にラジオ修理業を始めた。清孝は甲種電気工事士資格を1938年に取得し、1939年には船舶の電気工事を主な業務とした。当時は物資が不足しており、故障修理のための部品が手に入らない場合、清孝はありあわせの材料から必要部品を手作りして間に合わせた。教師をしていた父親の地元での名声も相まって、清孝は地域での信頼を得ていった。

 この頃、清孝の弟清賢(きよかた)が兄の手伝いを始めた。当時は徴兵検査があり、清孝も20歳になれば召集される可能性があった。家族の生活を支えるため、兄は「中学に行っていたのでは間に合わない。跡を継ぐ人間がいないと幼い兄弟の生活がやっていけない。自分がせっかく始めた仕事だから、高等小学校だけであきらめてくれ」と弟を説得した。清賢は1941年に当時最年少の15歳でラジオ技術士の検定試験に合格し、翌1942年には甲種電気工事士資格を取得した。

 古野電気は第二次大戦中から戦後にかけて、漁船の集魚灯の発電機取付や修理を行っていた。兄弟の二人三脚で漁船の電気工事をしているうち、「科学技術に一番取り残されているのは漁業である」と清孝は考えるようになった。

長崎駅前にあった古野電気工業所1950年頃(前列中央が古野清孝)

長崎駅前にあった古野電気工業所1950年頃(前列中央が古野清孝)

画像提供:古野電気

 魚群探知機に至る着想は、清孝と一人の船頭の出会いから始まる。1943年ごろ、船上での電気工事をしていた清孝は船頭から「泡の出ているところには、魚が沢山いる」という話を聞く。終戦直後の1945年12月、清孝は「泡の出る場所」を科学的に特定することで魚を探す手法の探索に着手した。

 清孝は超音波理論を応用することで、魚の場所を特定しようと考えた。海軍の放出物質の中にあった音響測深機を手に入れ、実験を開始した。ほぼ一年をかけ、音響測深機を改良することで最初の魚群探知機を完成させた。最初の実験は1947年4月、長崎県の五島灘で行われた。船の走航による雑音が大きく影響するものの、こうした雑音さえ除去できれば、魚群探知機を用いて魚群を探知できることが確認できた。

 実験を重ねるうち、魚群の探知のみならず、漁獲高の向上につながる確率も上がっていった。しかし同時に、漁師からは魚群探知機に対する反対の声が生じた。従来の漁は古来より漁師の勘や経験に頼っており、それが機械で代替できるとあれば、漁師達、特に漁労長の仕事が無くなるという危惧ゆえである。

  1948年12月、清孝と清賢は合資会社古野電気工業所を設立し、魚群探知機の販売を本格的に開始した。当時の価格は一台当たり60万円であった。魚群探知機の改良は進み、魚種や魚群の大小を識別できるほどにまで性能は向上した。それにもかかわらず、発売当初、古野電気は魚群探知機の返品の山で溢れた。漁師たちが魚群探知機をうまく活用できなかったためである。魚群探知機の性能を最大限に生かすには、漁の方法自体を見直す必要があった。

 1949年5月、魚群探知機を活用した漁の有効性を実証する機会がやってくる。古野電気は五島列島岩瀬浦漁港の桝富丸の船主である桝田氏の協力を得ることになった。桝富丸は漁獲高が漁港で最下位に低迷している船だった。桝富丸には古野電気の魚群探知機が搭載され、清賢が一時的に漁労長を務めた。結果は大成功であった。一カ月20日間の操業で、桝富丸は3万3000箱の漁獲高を達成し、3カ月連続して岩瀬浦漁港でトップとなった。

 この成功により、魚群探知機の有用性は他の漁師にも認められ、1949年10月には岩瀬浦の全船団が魚群探知機を装備した。1949年11月の実績を見ると、岩瀬浦の船団は最高3万3000箱、最低1万3000箱だった一方、魚群探知機を装備しない奈良尾の船団は最高1万1000箱、最低500箱であった。

初期の量産型魚群探知機F-261(1950年代)

初期の量産型魚群探知機F-261(1950年代)

画像提供:古野電気

 1950年9月には、魚群探知機の急激な需要増に対応するため神戸に魚群探知機の専門工場である阪神電気工業が設立された。しかし、工場は翌年3月焼失してしまう。直ちに、後継企業である水産電気工業が同地に設立された。

 1952年には、大阪大学青柳研究室の若手研究者が複数名嘱託職員として勤務を開始した。この時期、大学との人的、技術的な協働体制が構築されていった。これにより、優秀な人材を多数獲得することができたという。またこの時期、魚群探知機のみならず無線機の研究開発が開始された。従来の販路であった九州地方のみならず、大規模な漁場があった八戸に進出したのもこの時期である。

  1953年、魚群探知機の自販体制が確立された。従来、魚群探知機の販売は神戸を境として、西は古野電気工業所、東は水産電気工業が担当していた。これ以後、水産電気工業は研究と生産に専念し、古野電気工業所は販売とサービスを担当した。

 1955年3月、清孝は「世界のフルノ」宣言を行い、事業のグローバル展開を目指した。社員の一人は当時の様子を、「率直にいって、当時の古野電気にはそぐわなかった。世界なんていう雰囲気は事務所になく、みんなうわ言みたいにしか聞いていなかった。とぼけたことを言うな、といった感じで・・・・・・」と振り返っている。同年8月、合資会社の事業は古野電気株式会社へと継承され、一本化された自社生産体制が確立された。

 グローバル展開が開始されるのは1956年であった。国内での直販方式とは異なり、当初は商社を通じた代理店販売が実施された。中国、北朝鮮、フィリピンや台湾などの東アジア諸国、ギリシャ、ノルウェーなどのヨーロッパ諸国が当初の相手国であった。続いて、1958年には米国への輸出が開始された。1960年には、輸出を本格化させるため貿易部が設立された。1968年には欧州駐在所がドイツ・ハンブルクに、1969年には南アフリカ駐在所がケープタウンに、同年北米駐在所がニューヨーク・マンハッタンに、1970年には中南米駐在所(ペルー・カヤオ)、スペイン駐在所(マドリード)、タイ駐在所(バンコク)、インドネシア駐在所(ジャカルタ)が次々に設立された。これらの駐在所の役割は①販売基盤とサービス体制をゼロから構築すること、②協力できる代理店を見つけ出し販路の開拓を行うこと、③販売基盤の構築とサービス体制の確立を行うこと、④代理店が成長した段階で、駐在所を閉じ代理店に任せることであった。


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