公益社団法人発明協会

戦後復興期

ファスナー

イノベーションに至る経緯

 ファスナーは1891年、米国人ウィット・コーム・ジャドソンが発明した。1893年、ルイス・ウォーカーが参画してユニバーサル・ファスナー社(後のタロン社)を設立、ファスナーの製造が開始された。現在のファスナーの原型は、ジャドソンが1905年に開発した「ザ・オリジナル」である。その後、1917年までに現在のファスナーの仕様へと改良された。

 日本にファスナーが持ち込まれたのはこの頃である。第一次大戦中の1917年、洋行帰りの紳士たちがファスナー付きの財布をお土産として日本に持ち帰った。その後1927年、日本最初のファスナーを用いた「チャック印」の財布が広島で製造・販売された。1932年ごろにはファスナーの量産が開始された。

 後に吉田工業(現 YKK(1994年に社名変更)、以下「YKK」と呼ぶ)を設立する吉田忠雄(以下「吉田」と呼ぶ)は1908年、富山県魚津市に生まれた。吉田は、15歳で魚津町立魚津尋常高等小学校高等科を卒業し、働き始めた。兄弟が営むゴム靴の卸売業などを手伝った後、1928年、20歳で東京に移住し陶器貿易商である古谷商店に職を得た。

 創始者吉田の個人経営としてYKKの前身サンエス商会が設立されたのは1934年のことである。従業員は吉田を含め3名で、借り入れたファスナーの半製品と未整理品を手作業で組立て最終品として販売していた。翌年には早くもインドへの輸出を行う。しかしながら、加工技術の未熟な下請けに作業を依頼した結果不良品が多数発生し、返品される結果となった。このような事態に対処するため、吉田は他社の施設を譲り受けるなどし、製造、加工など一連の工程を内製化することでファスナーの質を向上させようとした。たとえコストが高くなっても質の高いスライダーや綿テープを利用した。また、他社製品との差別化を計るため、同年11月には商標を取得した。

 1938年3月、生産性の向上を計るため東京都江戸川区小松川に新工場を開設し、本格的な自社製造に着手した。当時YKKを含む日本のファスナーメーカーは、次のような手作業でファスナーの生産をしていた。植付工は務歯を左右の指先でつまみ、金属製の櫛型にはさんだ布テープに一つ一つ櫛の歯の間に植え付け、手動のプレスで圧し潰す方法が採られた。櫛には墨汁で寸法が記してあり、両手の指先ですばやく務歯を拾い、指先の触覚によって務歯の表裏を確認しながら、櫛の歯の間に方向を一定にして収めていく。寸法に合わせて務歯を植え終わると、コルクで両側面から務歯を静かに揃える。続いて、プレス工はプレスを用いて務歯をテープに加締める。務歯がテープに加締められた製品を植付工が受け取り、スライダーを用いて2本ずつ組み合わせて最終製品とする。このように、当時ファスナーの生産には経験を積んだ熟練工による手作業が必要不可欠であった。また、一日当たり生産できるファスナーの本数は80~100本程度であった。

昔の手作業でのスライダーづくりの様子(年代不詳1953年より前)

昔の手作業でのスライダーづくりの様子(年代不詳1953年より前)

画像提供:YKK

 しかし、重要物資統制令により国内向けの伸銅品類の使用が禁止され、国内でのファスナー販売が事実上不可能となった。また、輸出も米国のタロン社がこの時期ファスナーに係る特許を取得したため、数量制限(300万ダース)及び高い関税(110%)が米国向けには課された。そのため、YKKは欧州、中米及び南米への輸出に注力した。しかし1941年には輸出が禁止され、軍需工場への転換を余儀なくされた。

 1945年3月、東京大空襲により小松川工場が焼失し、富山県魚津への工場疎開を行った。ファスナー生産の再開は、太平洋戦争の終結後、1945年11月まで待たなければならなかった。同年、後にYKKとなる吉田工業が設立された。

 1947年夏、米国人バイヤーがYKKを訪ねた。吉田は5ミリ10インチのファスナーを1本9セントで販売することを提案する。しかし、バイヤーは米国製のファスナーを手元から取り出し、「7セント40であれば自分の方で売る」「君が買わないか」と逆に商談を持ちかけてきた。吉田が目にした米国製ファスナーは、YKKが戦前以来手作業で作ってきたファスナーよりも機能、品質ともに優れていた。このことが吉田に、生産工程の内製化、技術開発の重要性を強く認識させた。

工夫改善・発明の発想法について語る創業者 吉田忠雄(1962年)

工夫改善・発明の発想法について語る創業者 吉田忠雄(1962年)

画像提供:YKK

 1952年には、YKKから手植え方式が姿を消し、チェーンマシンを用いた大量生産方式が導入された。これによって高品質と高生産性が確保され、競争力を一気に高めた(この技術面での導入、開発の経緯については次節を参照)。

 生産工程の内製化による製品品質の向上に伴い、YKKは、ファスナーの国内売上を大幅に伸ばした。また、品質向上は輸出でも効果を発揮し、中南米や東南アジアにおいても着実に販売量を増加させていくこととなった。また1959年には、インド・カルカッタ、インドネシア、南アフリカにプラントの輸出並びに技術支援を開始した。また、同年ニュージーランドに「スライドファースト社(現YKKニュージーランド社 1983年社名変更)」が設立された。

 こうした海外への進出は、各地の同業他社との特許侵害係争も生み出した。これに対応するため、YKKは社内組織として特許擁護委員会を設置した。特許に関する諸問題を協議して解決するため、各分野の専門技術者が定期的に会合し、特許上の問題を検討することで自社特許の保護・育成に務めた。


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