公益社団法人発明協会

高度経済成長期

回転寿司

イノベーションに至る経緯

 握り寿司には「江戸前寿司」という別称があるように、元来は江戸の人々に広く享受されたあくまで関東圏にとどまる寿司文化の一つであった。それに変化が生まれたのは、1923年の関東大震災以後のことである。震災によって商機を失った寿司職人たちは、仕事を求めて各地方へと進出したが、これによって握り寿司は全国に広まることになった。

 一方、戦後の大阪では握り寿司を扱う立ち寿司店が盛んになっていた。この大阪で立ち寿司店を営んでいた白石義明(以下「白石」と呼ぶ)は、寿司4貫を20円という破格の値段で提供すると、店は客であふれ寿司を握る職人の能力の限界を超えて注文が殺到するようになった。この人手に頼ったシステムを何とかもっと効率化できないかと考えた白石は、ある日ビール工場を見学した。そこではベルトコンベアに載ってビール瓶が運ばれ次々とビールが注入されていった。このシステムを、寿司の現場に応用できないか、白石は近隣の鉄工所の協力を得て寿司用のコンベア作成に没頭するようになった。10年の歳月が流れていった。その過程で直面した大きな壁は、コーナー部分のスムースな流れの実現であった。ヒントは、ある日ふと手に取った名刺の束を扇形に開いたところから得られた。コーナーも扇形に展開すればよい、半月型に開いていけばできるのではないか。白石はこのアイデアを実現した。

 1958年、白石は東大阪市布施にこの機器を設置した「廻る元禄寿司」1号店を開店した。約20坪の小さな店であり、席はカウンター席のみ、当時は主に4貫1皿50円であった。寿司は1皿ずつベルトコンベアに運ばれて顧客に提供されていた。

 1962年、このベルトコンベアシステムは白石の名義で実用新案登録された(「コンベヤ附調理食台」)。

 白石の回転寿司は、評判を呼び新たな店舗を次々に開店していった。それはフランチャイズ契約によって東日本地域にも広がっていった。こうして実用新案によって保護されたこともあり回転寿司といえば「元禄寿司」だけの時代がしばらく続くことになった。

 回転寿司が一般に広く知られるようになったきっかけは、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会である。この博覧会に元禄寿司が出店して表彰されたことで、それまでも大阪では知名度を得ていた回転寿司が、「純国産のファーストフードとして」広く全国の人々に知れわたることになったのである。その結果、元禄寿司は240店舗までに店舗数を増やすまでになった。

大阪万博での店舗と白石義明

大阪万博での店舗と白石義明

画像提供:元禄産業

 上述の実用新案権の期間満了により、1978年以降、元禄寿司の独占市場であった回転寿司の市場に新規企業が多数参入した。この参入によって生じた激しい競争は、寿司を高級食品イメージから気軽にサラリーマンが昼食で食するものへと変えていった。食材の流通ルートにも大きな変化を引き起こした。それまでは魚市場を通じて仲買人、卸商から買い付けていた素材を直接漁師、漁協から買い付ける企業も増えていった。価格競争は厳しく回転寿司といえば一律100円のイメージが定着していった。

 ベルトコンベアシステム等の改良も進んでいった。既に1971年に石川県の石野製作所が自動給茶装置を開発して元禄寿司に提供したほか、同年に石野製作所は子会社である北日本カコーを設立し、1974年にベルトコンベアと給茶装置をセット化した装置を開発していた。新規企業は更なる効率を求めて寿司ロボットや直線型のレーンなども開発し、客と向き合って寿司を握るシステムからバックヤードで職人、又はアルバイトが寿司を作り、直線型レーンに流す方式を確立していった。また、1980年代の中頃には、従来の駅前・繁華街を中心とした小規模店舗ではなく、郊外立地型の大規模店舗が出現するようになった。さらに、従来の単一価格ではなく、多段階の価格が設定されるようになった。皿の色や装飾によって価格が区別されるようになり、寿司ネタを大量生産し、顧客の回転率を向上させることで収益の獲得を狙う、現在の回転寿司のビジネスモデルが、ここに確立していった。

 一方、激しい価格競争等により回転寿司には「安いが低品質」のイメージがつきまとっていた。1980年代末頃からのバブル時代に入ると、回転寿司は冬の時代を迎えることとなった。この苦境の時代から業界はグルメ系回転寿司と大手100円寿司チェーン系へと二極分化し、さらにその中でも次のように多角化してきている。

 ①大きなネタを提供する『デカネタ回転寿司』、②冷凍魚や加工食品ではなく、その日に仕入れた鮮魚や活魚を目玉とする『グルメ回転寿司』、③大型店舗でコスト効率化を測ることで1皿100円の商品を提供する『大手100円均一回転寿司』、④地域特有のネタを提供する『ご当地回転寿司』、などである。

 回転寿司は、時代の変化とともに日本を代表するファーストフードとして定着してきた。一方、特に郊外型の大規模な店舗が展開された1980年代後半からは、家族で食事する場として定着し、そのメニューも多種多彩なものとなり、現在では寿司にとどまらず麺類やデザートなどまでをもメニューに組み込む総合レストラン的な色彩も帯びつつある。このような包容性を持つ回転寿司は、大衆の中に根をおろし、国境を越えて多くの人々に愛されるまでになった。

 1990年代以降、回転寿司のシステム、ビジネスモデルは日本及びアジア圏にとどまらず、世界中に波及した。米国や欧州の主な都市には、回転寿司のシステムを導入した寿司レストランが多数存在する。寿司のグローバル化には、健康ブームなどの影響もあろうが、カルフォルニアロールなど、ローカライズされた地域色の濃い食材を自由に取り込んだ点も見逃せない。そして、多様化した日本の回転寿司企業も、日本の寿司味の国際展開を求めて海外進出を果たしつつある。


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